第17話

 花瓶に活けられた芍薬をぼんやりと眺める。

 満面の笑みとともに贈られたそれは美しい花のはずなのに、心が動かされない。

 花を愛でる余裕がないのではなく何も感じたくなかった。感情が身体に行き渡ったなら衝動のままに行動して何もかもを台無しにしてしまうから、心に封をすることでやり過ごそうとしていた。

 それが、今の金烏が平静を保つための唯一の手段だった。


 幸い周囲には婚礼に伴う気鬱だと思われているらしく、気を遣って人払いもしてくれた。おかげでこんな有様を晒さずに済んでいる。

 与えられた部屋の調度品はきらびやかで、今腰かけている寝台も高級品なのは手触りで分かる。次期当主の花嫁として大切にされていると言って差し支えないほどに。


 人が見れば幸せな結婚だと言うだろう。後は金烏が己の気持ちに決着をつけるだけ。

 扉を叩く音がする。何度も聞いた音の癖で誰の訪いかはすぐに分かった。

 二、三度の瞬きで彼用の仮面を付けると扉の向こうに届く声で彼に告げる。


「どうぞ」

「ああ、姫君。ご機嫌はいかがかな?」


 蔡家の若君が箱を抱えながら室内へと入ってきた。

 金烏は立ち上がりにこやかに応じる。


「はい。皆様の御厚意で何不自由なく過ごしております」


 彼は満足げにそうかとうなずいて小脇に抱えていた箱を差し出した。


「これを。気に入ると嬉しいのだが」


 蓋を持ち上げるとその中身は香炉だった。全体に細かな花の装飾が施されており、高価な品だとすぐに分かった。

 金烏は顔を花のように綻ばせてみせる。


「まあ。素晴らしい御品を有難うございます」

「ああ、それは良かった。姫君の憂いを晴らすのは私の役目だからね」


 彼はいつも芝居がかった物言いをする。自分の容姿が優れていると思わなければできないような仕草が多い。

 実際のところは中の上がせいぜいだというのに、と笑顔の裏に辛辣なものを隠す。


「花は気に入ってもらえましたか?」

「ええ。若君様の御心遣いに感謝いたします」


 思えばこの言葉遣いも大分板についてきたものだ。感情とは裏腹な笑みを作るのにももう慣れた。

 金烏が元の位置にすとんと腰を下ろすと、すかさずその隣に座られる。滑らかな動きで距離を詰めて両手を握りこんだ。熱のこもった視線で金烏を見つめてくる。


「どうぞ、興岐こうき、と。私は貴女の夫になるのだから」


 こう必要以上に密着してくるから、一歩引かれてしまうのだと彼が理解する日は来るのだろうか。

 いや、そんなことは金烏が気にしなくてもいい事柄だ。興岐の妻となるために必要なこと以外は考えるな。そう暗示のように繰り返す。


「本当に夢のようです。美しい貴女を妻にできるなんて。諦めずに貴女の義父君にお願いをして良かった」

「興岐様。私もどうぞ金烏と。お優しい方の元に嫁ぐことができて幸せです」


 考えうる限り最高の笑顔を彼に向けると、感極まった興岐の顔が徐々に近づいてくる。

 意図を察した金烏の身体は退こうとするが、それも一瞬のこと。肩をぴくりと震わせて逃げるのをやめて目を伏せた。


 そのまま唇が重なる直前、激しい叩扉の音に興岐の動きは遮られる。

 二人同時に入り口を見ると、蔡家の家令が慌てふためいた様で転がり込んできた。


「若君。こちらにおいでですか!」


 本懐を遂げる絶好の機会を妨げられて、興岐は途端に不機嫌になる。金烏からいったん距離を取ると招かれざる家人を睨んだ。


「なんだ、騒々しい」

「そ、それが、閻太子の御使者が当家にいらっしゃいまして。若君をお呼びになられているのです」

「閻太子の? 何故そんな方の使者が」


 興岐の表情が怒りから当惑に塗り替わる。彼に尋ねられた家令も困惑しきりだ。


「とにかくお早く」

「わ、分かった。すまない、申し訳ないがこれで失礼しよう」


 嵐のような慌ただしさで二人が去り、残されたのは唖然とした顔の金烏だけ。

 そっと唇をなぞると未遂に終わった安堵に、肩から力が抜ける。

 俯いた拍子に滑り落ちた金色の帳が金烏を外界から遮断する。のろのろと両肩を抱くと乾いた笑いがこぼれた。


「少し、疲れた」


 己の意志に反して金色の睫が微かに震える。今まで必死に押し込めてきたものが喉元まで溢れてくる。

 もう、抑えきれないかもしれない。

 金烏は深く息を吐いて天を仰いだ。

 

 目を一度閉じ再び銀色の瞳が世界を捉えたとき、扉の向こうの騒ぎが耳に飛び込んできた。しかもその喧噪はどんどん近づいてきている。

 また興岐がやって来るのかと部屋の入り口を見つめると、先ほどよりも勢いよく扉が開け放たれる。けれど、目に映るのは優しい夜の色。

 現れた男の名を金烏はほとんど吐息だけで呟いた。


「昌……」

「金烏。迎えに来た」

「どうして、ここに。それに迎えって……?」


 想定の遥か上をいく人物の登場に、金烏は戸惑いを隠せない。昌は大股で金烏に近づくと悪戯っぽく目を細めて彼女の耳元で囁く。


「話はあとだ。少し芝居に合わせてくれ」


 昌がそう告げるのとほぼ同時に、興岐が家令を連れて雪崩れ込んでくる。


「使者殿! 勝手に入られては困ります」


 興奮気味に興岐が言う。よほど焦ったのか、先ほどまで綺麗に整っていた髪がほつれて額に掛かっている。


 屋敷の主の抗議にも、昌はどこ吹く風だ。少しも悪びれずに謝罪する。


「それは申し訳ない。しかし、こちらも仕事でな」

「ですから、その仕事とは何なのか説明頂きたいと……」


 なおも説明を求める興岐を遮って、昌は堂々と宣言した。


「俺の仕事とはこの娘を連れ帰ることだ」

「えぇっ!」

「は⁉」


 昌の言葉に驚愕したのは興岐達だけではない。金烏もまたこの展開についていけないでいる。芝居に合わせろと言われたが、口を挟む余裕がない。

 彼らそれぞれの反応などお構いなしに、昌は事情説明を始める。


「実はこれは我が君が妃に迎えるつもりであった娘。廉宰相にも内々に話があったはずなのだが、何かの『手違い』でこちらとの縁談が進んでしまったようなのだ。そこで我が君が俺をこうして迎えに遣わしたというわけだ」


 金烏にも初耳な事実を淡々と述べた後、昌は面白がるような顔で興岐をのぞき込む。


「興岐殿は閻太子の恋敵になる覚悟はおありかな?」


 力ある藍色の瞳に射竦められて、興岐はほぼ反射的に首を振った。


「いっ、いえ」

「では、この娘はこちらで引き取って構いませんな?」

「はい……」


 昌の勢いに気圧された興岐は力なく首を縦に振った。頷く直前、未練がましい目線を金烏に向ける。

 言葉のみでこの場を支配してみせた昌は、晴れやかな笑顔で口を開いた。


「それではこれにて失礼!」


 昌は衝撃から立ち直っていない金烏を横抱きに抱え上げると、颯爽とこの部屋を後にした。


  **


「間に合ってよかった」


 さすがに婚礼を挙げられてはあの言い訳は使えないからな、と前を見据えながら昌は言う。

 巧みに手綱を操りながら馬を走らせる彼の腕の中には金烏がいた。二人をその背に乗せた黒鹿毛の馬は黄昏の中を軽やかに往く。

 長い髪を風に弄ばせるまま金烏が呟くように言う。


「でも、どうして昌が」


 横乗りで座る金烏が当然の疑問を投げかけると、昌は爽やかに笑った。背の高い彼の顔は金烏には少し遠い。言葉を聞き逃すことのないよう金烏は昌を見上げた。


「お前の弟が俺のところまで来た。かつてお前に教えたあの道を辿って。礼を言うといい」

「玉兎が……」


 そこで金烏はかつて言われた言葉を思い出した。語った本人ですら記憶の片隅に仕舞っていた言葉から昌まで辿り着いたということか。


「玉兎は今どこに?」

「安全な所に居る。今そこに向かっているところだ」

「そうか……」


 自分の窮地を救ってくれた弟に、よくぞ知らせてくれたと歓喜が身の内から湧き上がる。

 そして、幼いころの他愛ない言葉を寸分も違えずに駆けつけてくれた彼への感謝の念も。


「まだ礼を言っていなかった。ありがとう、昌。助けに来てくれて」


 横乗りの状態で背の高い彼を見上げるのは思っていた以上に難儀した。


「何、大したことはしていない。傍から見たらただの花嫁泥棒だからな!」


 溌剌とした顔で堂々と無法者じみたことを口にする昌。

 泥棒などと言う単語が彼とあまりにも似つかわしくなくて何やら可笑しかった。


 昌と目が合い、小さく笑おうと目を細めたとたん、一筋の涙が金烏の頬を伝った。流星のように刹那に現れて消えた感情をつかみ損ねて金烏は戸惑う。


「ごめん、安心したら気が抜けて」


 自分の感覚であるはずなのに自身の胸中を持て余して、困ったように眉を下げる。

 どうしてだろう、うまく笑えない。さっきまではあんなに容易くできたのに。


 安堵から一転混乱し始める金烏を昌は片手で抱き寄せた。

 大きな掌から伝わる温かさに困惑が少しだけ収まる。

 目線は前へ向けたまま、昌は諭すように口を開く。


「いい、大丈夫だ。無理をしなくていい」


 無理なんてしていない。本当はそう言うつもりだった。

 けれど、そのたった一言はいつまで経っても声にならなかった。喉につっかえ棒でもされた気分だ。

 胸の奥底の蓋が開きかかっているそんな気がした。心の制御がまるでできない。こんな弱気な姿は誰にも見せたくないのに、声が震える。

 金烏はぽつりと呟く。


「だって、泣いたら強く在れない気がする。玉兎は私が守らないといけないのに」


 少しずつ、隠されていたものが現れる。紗の向こう側に誰にも触れられないよう仕舞っておいた柔らかいものが。

 金烏の独り言めいた回答に、彼女の頭上で首を振る気配がした。


「そんなことはない」


 その声は静かだが力があった。


「矢を射るには弓弦ゆづるをピンと張る必要があるが、張り詰め過ぎて弦が切れては元も子もない。辛いなら辛いと叫べ。我慢したくないことは拒絶しろ。そうしなければ健やかな心を損なうだけだ」


 いつの間にか馬を駆る速度は落ち、ゆっくりとしたものになっている。

 まるで、金烏に考える猶予を与えるかのように。

 昌はさらに続ける。


「お前の弟とはまだ二度会ったきりだが、お前がそんなふうに心を殺してまで守らなければならないほど弱くはないはずだ」


 滔々と語る昌の声音には実感がこもっている。だから、金烏も心を動かされた。

 心を整えようと深く息を吸うと、爽やかな初夏の匂いがする。若々しい草の薫りが金烏の背中を押した。


「……本当に、そうしてもいいんだろうか」


 それは本当に小さな声で、ともすれば独り言として消えてしまうか細さだったが、昌は聞き逃がさなかった。


「ああ」

「本当のことを言っても、構わない?」

 小さな唇から不安と期待が混じり合った言葉が零れる。


「ああ。俺がお前の言葉を受け止めてやる」


 昌は先ほどと同じ様に金烏の肩を抱き寄せて、己の懐に体を預けさせた。

 温かい。きっと、この温かさは信じていいものだ。

 昌に身を寄せた金烏は幾度も視線をさ迷わせた後、一度だけ唇と引き結ぶと意を決する。


「玉兎と引き離されるのは嫌だった。会いたいと思ったときに会えないのは辛かった。今回の、この婚礼のことも、これでいいんだと自分に言い聞かせていたけれど、本当は嫌だと言いたかった」


 抑え込まれていたものが、奔流となって次から次へと金烏の口から溢れてくる。


「何かを変えなくてはと焦っても、何も変えられない自分の無力さが悔しかった。あの義父にいつの間にか逆らえなくなっていたことも、ずっとずっと……苦しかった」


 長い間秘められていた感情は空気に触れたとたん、透明な雫となって頬を伝ってゆく。

 鬱屈から生まれ降り注ぐ雨がやがて嗚咽となっても、金烏に止める術はない。

 昌は左腕に力を籠める。隠していたものすべてを吐きだすまで止まれないだろう彼女を支えてやれるように。


「大丈夫だ。まだ何だって間に合う。手遅れなことなど何もない」


 すべてを夕闇色に染め上げる空の下、夜色の青年はそう囁いた。

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