第11話

「昌!」


 彼だと認識した途端、考える暇もなく言葉が口をついて出た。先ほどまでの沈黙から一転、突然の姉の声に玉兎が目を見張った。

 一方、名を呼ばれた彼は、金烏の声に応えるようにゆっくりと振り返る。


「金烏」


 宣湘の本邸前で別れてから、数十年。少年から青年へと成長を遂げた彼は、懐かしさの表れか、目を細めて笑みを作った。

 その双つの藍色の穏やかなきらめきは、初めて出会ったときのままで、隔たっていた歳月を微塵も感じさせない。

 時間があの時まで遡ったような気さえ、した。

 幾度の宴でいくら視線を巡らせてもついに再会の叶わなかった昌が、今目の前にいる。金烏の頬は否が応でも紅潮する。

 想定外の遭遇に胸が高鳴る中、先に言葉をかけたのは昌だった。


「久しぶり、金烏」


 変声期を経た男性特有の、記憶の中よりもずっと低くなった声が柔らかく響く。


「そっちも……」


 そう返答するので精一杯だった。

 まさか向こうが自分を覚えているとは思わなかった。あれ以来一度として会うことはなかったのに。

 感慨で胸が溢れて、それきり二の句が継げないでいる状況に金烏は焦った。今みたいな素っ気ない一言じゃなくて、何か気の利いたことを言わなくては。


 常なら立て板に水とばかりに言葉が口をついて出るのに、一向に普段の調子を取り戻せない。視線をあれこれとさ迷わせてみても効果なしだ。

 とにかく何か言わないと、そろそろ間が持たない。


「折角の再会に水を差すようで申し訳ないですが」


 金烏の代わりに沈黙を破ったのは、彼女の弟だった。常と変わらぬ平坦な声が促す。


「姉さん、そちらは」


 玉兎から話の糸口をもたらされた金烏は、知らないうちに握りこんでいた拳を解く。仕切り直しの機会はありがたく活かさせてもらおう。


「前に話していたこと覚えてる? あの時私を助けてくれた、昌だよ」


 玉兎に簡単に紹介を済ませると、昌に向き直り今度は弟を紹介する。


「弟の玉兎。あの時はほんとに助かった」

 昌はああ、と納得の声で玉兎に向かって手を差し出した。


董昌とうしょうだ。よろしく」


 思えば昌の姓氏すら知らなかったと、彼の名乗りを聞いて初めて気づく。


「こちらこそ。よろしく」

 

 昌の親しみの籠った声音に対し、玉兎はいくらかの温度差を感じさせる声で返した。いつも穏和な弟にしては珍しいことだった。人見知りでもしている? まさか。

 玉兎がそれを覗かせたのは一瞬ことで、すぐに人好きのする笑みを昌に向ける。


「姉がお世話になったそうで。僕からもお礼を言わせてください」


 そうして固く握手を交わす。玉兎の感謝の言葉に対し、昌は好青年の朗らかさで返した。


「なに、大したことはしていない。それより、元気そうでよかった」


 再び金烏に視線が向けられた。これまでのやりとりで冷静さを取り戻していた金烏は、今度は何の気負いもなく会話に加わる。


「おかげさまでね。大分背が伸びたんだな。前と全然違う」


 右手をスッと伸ばし、背を計るような身振り付きで金烏は言葉を重ねる。

口ごもることもなくするりと言えて、金烏は会話を楽しむ余裕ができたことに安堵した。その安堵と同時に、金烏の中に疑問が生じる。


「というか、なんで昌はここにいるんだ。もしかして、ここが仕事場?」


 もしそうなら、十日の間はまた会うこともあるかもしれない。

 しかし、その問いに昌は軽く首を振ることで否定した。


「ここに来たのはたまたまだよ。河原守殿に少々伝えることがあってね」

「そっか……」


 さすがにあからさまな落胆を見せはしなかったが、高揚した気分が徐々に沈んでいく。すると、昌から逆に質問を向けられる。


「そちらは?」


 話題が変わったおかげで、気落ちを引きずることなく自然に気持ちを切り替えられた。


「私たちは今日から十日間、見習いってことで学びに来てるんだ」

「ああ、なるほど。しかし、こんなところで再会できるとはな」

「すごい偶然もあったものだと思うよ」


 金烏は目を細めて笑う昌と同じように微笑みと同意の言葉を返した。

 この得難い時間をどうにか続けられないか話の種を探し始めたが、会話の花が咲く前に夕刻を示す鐘が鳴る。

 賽の河原は赤茶けた空のままで変化がないため、日に数度に鳴るこの鐘以外に正確な時間を知る術はない。


「姉さん。名残惜しいでしょうが、そろそろいい時間のようですし」


 玉兎の言うようにここが限界だろう。

 どちらにしても界維鏡をくぐり抜け、官庁に戻るまでは同じ道を進むことになる。今はそれが精々だ。


 道中でも会話は弾んだ。昌が自分の話題をそれとなく避けている気配を察して、主として金烏が話題を提供した。

 しかし、金烏にとっても当たり障りのない内容となると、結局学業のことになる。

 あれとこれとと、指折り数えると昌はおどけて目を丸くして見せた。


「色々学ぶことが多くて大変だろう?」

「なかなかうまくいかなくて、苦労してる。楽とか玉兎は私なんかよりずっと上手だからうらやましくて」

 

 後ろに控えがちな玉兎にも、時折話を振るのも忘れない。姉の称賛に玉兎ははにかみながら首を振った。


「僕なんてまだまだです。楽も面白いですけど、それより強くなるのが僕の目標なので」

「でも不器用よりは器用な方がいいよ。私は刺繍も散々だから。この前も落第だったし」


 いくらでも話したいことが湧いてくる自分が不思議だった。こんなこと、玉兎以外ではありえなかったのに。

 しかし、いつまでも続けばいのにと思う時間ほど短いのが世の常である。

 

 いつの間にそんな距離を歩いたのか、界維鏡が眼前にあった。楽しい時間は経つのが早いと言うが、どうやら誇張表現ではなかったようだ。

 来た時と同じように界維鏡をくぐり抜け、官庁内まで戻った。三人連れ立って、相変わらず書類の山が林立する室を通り過ぎ、あっという間に入り口まで。

 

 一刻足らずの再会もこれで終わりだと思うと、とたんに未練が喉の奥までせり上がってくる。

 金烏は自身の心情を抑えつけ、自然に見えるよう銀の目を笑みの形にする。感情を隠すのは慣れている。大丈夫だ、ちゃんと笑える。

 軽く首を傾げた拍子に金の髪が肩から滑り落ちる。


「それじゃあ、また」


 対する昌の返答もまた短かった。


「ああ。また会えるといいな」


 昌は片手を上げて別れの言葉を口にして、それきり振り返ることもなくその場を離れていった。

 足早に遠ざかるその背中は、すぐに彼以外の誰かと混ざりあって見えなくなる。金烏が人知れずため息をついた時。


「おや、こんなところにいたんですか。用意した部屋はもう見ましたか? ご案内しますよ」


 余韻をぷつんと断ち切るかのような登場をしたのは俊靖だった。

 まるで見計らったかのような現れ方をする彼に、昌に向けたものとは異なる如才ない笑みを口の端に浮かべる。


「いえ、こちらに戻ってきたばかりなので。よろしくお願いします」


 結局この日はここの主に会うことは叶わなかった。


 **


 金烏と玉兎に与えられた部屋は隣同士だった。質素な作りの部屋だったが、宣湘の屋敷のように離されなくてほっとする。

 寝台に腰を下すと、木材の軋む音が金烏の耳に届く。

 彼女は現在自己嫌悪の真っ最中だった。


 さっきの浮かれぶりは一体なんだ。目も当てられないとはこのことだ。任務のことを思えば、あまりに浅はかだと言わざるを得ない。

 穴があったら入りたいとはこのことか。

 金烏は腰掛けた姿勢のまま寝台に倒れこむ。その拍子に散らばった金色の髪が視界に飛び込んできた。


“烏々は髪が長いのも似合いそうだね”


「せっかく伸ばしたのに……」


 何も言ってくれない。

 口をついて出た不満にまた顔をしかめる。正体のつかめない感情に苛立ちながら顔にかかる髪を振り払う。

 言及がなかったからなんだというのだ、こんなにも感情が荒立つのは気乗りのしない任務のせいだと強引に納得させた。

 

 懐から取りだした小瓶は掌に余る大きさだというのに、どこかへ放ってしまいたいくらい、重く冷たい。

 金烏はその重荷を両手で包み込み額に押し当てた。そうして双眸を閉じて俯くと、図らずも祈りの形になる。

 けれどそれは決して祈りではなかった。どれほど救済をこいねがったとしても誰も自分たちを救いはしない。その事実は覆らない。


 けれど、救いをもたらしてくれるのが「彼」であれば良かったのにと、ただ思った。

 感情が錯綜し思考が纏まらない。いったい自分は何をどうしたかったのか。自身に対する失望にいよいよ歯止めが利かなくなりかけた時。


「なにしてるんです?」


 室の入り口で燭台を掲げ持つ玉兎が怪訝そうに首を傾げていた。怪しまれる前に手中の小瓶を懐に戻すと、身を起こして玉兎を軽くにらむ。


「合図は?」

「ちゃんとしましたよ」


 姉さんが気づかなかっただけです、と玉兎はすたすた寝台まで歩を進めて手ごろな椅子を引き寄せて腰を下す。


「で、何の用事?」

「今後の方針の確認を、と思いまして」


 弟の言う通り今日中に確かめるべき案件だ。背筋を伸ばすと自然と意識が切り替わる。


「十日しかないからな。効率よく動く必要があるか」

「はい。なるべく分散して目的の情報を集めるのがいいかと」


 玉兎の提案はもっともだ。


「しかし、今日やったことと言えば結局書庫整理だからな。その状態で別々に学びたいと申し出るのは少々不自然かもしれない。分散するのはもう一日二日待ったほうがいい」


 金烏は真正面に向き直り、弟の金の目を見据える。姉の視線を受け止めると、玉兎は意見を競わせるに及ばず、とうなずいた。


「確かに。では明日も様子見するしかありませんね。不審を抱かれては元も子もないですし」


 玉兎が懐から見取り図を取りだし、寝台の脇卓に広げた。二人で改めて官庁全体を眺める。

 事前に大体の当りは頭に叩き込んできたが、実際に現地での認識のすり合わせは必要だ。


「賽の河原自体には特に僕らの求めるものはないでしょう。この官庁にいる時、つまり夜にどれくらい動き回れるかが重要かと」


 怪しいのはここと、ここ。と玉兎の指が探し物のあると思しき場所を示す。


「妥当な判断だな。官舎に住む官吏はそれほど多くはない。同じく夜勤の官吏もな。それほど動きにくくはないはずだ」


 金烏の推測に、首肯することで玉兎も賛意を示す。

 その後いくつかの会話を経て、金烏が決定された方針をまとめる。


「分散後は基本的に各自判断で行動。毎晩こうやってお互いの成果を報告し合うこと。これでいいな? あとは迷子にならないように」

「姉さんはまた、それを言う」


 金烏の揶揄を躱しながら玉兎は苦笑して続ける。


「今日、田児丸さんから話を聞いて、臙景という人は良い方なんだろうなって思いました。そんな人の弱みを探るなんて、心苦しくはあるんですけどね」

「それは私も同じだよ」


 そう同意しておきながら、宣湘の真の望みはそんなものではないことを金烏は知っている。

 平静そのものの顔の裏で、金烏だけが知る秘密の小瓶をそうとは知られぬように握りこんだ。

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