第9話
宣湘の元から退出した後、人払いをした玉兎の部屋で卓子を挟んで向かい合う。今後の方策を練るという表向きの名目で久方ぶりに二人きりの対面が叶った。
湯気の立つ茶器を目の前に、金烏は自分の部屋以上に気を緩めていた。玉兎が側にいれば息の詰まるような感覚はまったくない。
そう感じていたのは金烏だけではなかったらしく、弟も茶器を手に安堵の息をついていた。
「しばらくぶり、ですね。のんびりお茶をするのは」
玉兎の金の瞳が緩やかに瞬く。目を細めて笑うのは、玉兎が寛いでいる時に見せる癖だと金烏だけが知っている。
「こういう機会なんて、最近めっきり減っていたしな」
卓子に頬杖をつきながら金烏は同意する。片肘をつくなど行儀が悪いと指摘する口うるさい女官もここにはいない。
ようやく巡ってきた機会に、二人は思うままそれぞれの近況を報告し合い、和やかに会話を続けた。気の重い任務のことは後回しにしよう。
玉兎は最近学んだ剣やら槍やら武術について話したがり、金烏はそれに相槌を打つ。晴れやかな弟の表情を見られるのは嬉しい。
金烏としては話題が尽きるまで付き合うつもりだったが、自分ばかりが口を動かしていたことに気づいた玉兎は、照れを隠すように姉に会話の主導権を渡す。
「すみません、僕ばかり話してしまって。姉さんの方はどうですか?」
自分の目を覆いたくなる現状を思い出して、金烏は曖昧に苦く笑った。
「まあまあ、かな。勉学は楽しいけど、刺繍とか楽はどうにも性に会わなくて」
金烏との合奏を経験済みの玉兎はそれ以上の言及を器用に避けた。
「舞踏が素晴らしいと褒められていたそうじゃないですか。僕はまだ見たことはないですが」
ぜひ拝見したいです、と嘘偽りのない心からの称賛。
「いつか姉さんの舞を僕の楽で奏でたいという目標ができました」
年齢を重ねてもかつての無邪気そのものの言葉に、金烏の顔が綻んだ。
「それはきっと素敵な催しになるだろうね」
「でしょう?」
明るい未来を描いた二人は、目を合わせ同時に破顔する。
ひとしきり笑った後、玉兎は少し冷めた茶をぐいと呷る。
「月に数度くらいはこうやってお話したいものですが」
許可は出ないでしょうね、と玉兎は呆れと諦めをない交ぜにした苦笑を漏らす。金烏としても同意見だが、現状を打破する「何か」が自分たちにはない。
「ま、今それを愚痴っても仕方がない。実績を積めば一つくらいはわがままを叶えてくれるかもしれないし」
そう慰めを口にした金烏は、己の吐いた言葉に愕然とした。
いったいいつから、自分はこんな諦観に満ちた感情を持つようになったのだ。二人で自由になるという目標をどこに置き忘れてきた?
必死に走り抜けた何十年を、曲がりなりにも平穏に過ごすうちに、意気が萎えてしまった?
その戸惑いに対する答えはなく、金烏は力なく黙り込むしか術がない。
ふいに落ちた沈黙の間に、玉兎が遠く視線を外した。
「しかし、いつまで……」
玉兎は声になるかならずかの呟きを言いかけて、口を噤んだ。言葉の先を察した金烏も何の一言も口にできず、静かに瞑目する。
話し合うはずの任務のことはお互い意図的に避けて、その日の対話を終えた。
**
そして、翌日。早朝、出立の準備を続けていた金烏は、唐突に宣湘から呼び出された。
玉兎の姿はなく、どうやら弟は招集されていないらしいと察せられた。金烏のみ呼び立てるという点に不穏なものを感じつつ、この屋敷の主の前に立つ。
「出立前に慌ただしくなってすまんの、日天童子」
「いえ。何用でありましょうか」
どうせろくでもない用事だろうが、と神妙な面持ちの裏で考える。
「今日からの仕事に『追加』を頼みたくてな」
追加とは、と問いかけを発する前に、宣湘が自身の執務机の上に一つの小瓶を乗せた。サラッと瓶の中で揺れる白い粉末の正体を察知した金烏は、声もなく瞠目する。
金烏の反応は宣湘の意に叶うもののようだった。老主人は満足げにうなずいた。
「話が早くて助かる」
「……誰に、使えと?」
言葉少なに低めた声に、この老獪な為政者は何をわかり切ったことを、とわざとらしく眉根を寄せてみせた。
「臙景以外におるまい」
やはり。金烏はゆっくりと口を引き結ぶ。こちらが真の目的か。
「無味無臭故、何に混ぜても見破られることはない。うまくやれば疑いの目も向くことはないだろう」
それは、金烏がやったと発覚すればそのまま切り捨てられることを意味していた。もしかすると、最初からそのつもりなのかもしれないが。
宣湘の言うように、直情型の弟よりは感情を覆い隠すのが得意な自分向けの任務だろう。感情の一切をそぎ落とした無表情のままそう自嘲した。
一向に卓上の小瓶を受け取る素振りを見せない金烏に少し焦れたのか、宣湘はさらに畳みかけた。
「お主が受け取らぬとあらば、これを月天童子に渡すだけだが。よいのかな?」
何を楯にとれば金烏が首を縦に振るかなど、とうの昔に見抜かれていた。
わざわざ言われなくとも、弟の手を汚させるわけにはいかない。細く息を吐き瞬きひとつで、渦巻く感情を押し殺した。
「申し訳ありません。確かに、承知いたしました」
かの者の名を出されては、どうせ取れる道など一つしかない。
少女らしからぬ、うっすらとした笑みすら見せて、金烏の指が冷酷なほど冷たいそれを選び取った。
**
その後、滞りなく準備は終わり定刻通りに屋敷を後にした。
余裕をもっての出立のため約束の時間までそう急ぐこともなく、平素のまま歩を進めていく。
「本邸から丹鵲街まで、それほど遠くなくて助かりましたね」
何の気なしの玉兎の呟きに呼応して金烏もごく簡単に答える。
「前に住んでた別邸だったら、馬車か馬が必要だったな」
幼かったあの日にも、馬車に揺られて城を目指したことを思い出し、少しの悪戯心で意地の悪い笑みを見せる。
「この距離なら、迷子になることもないしな?」
「あっ、ひどいです。人の気にしていることを」
あの迷子になった経験のせいなのか、この弟はどうも方向音痴のきらいがある。本邸の広さもそれに拍車をかけたのは間違いない。
実際、屋敷の中で行方知れずになることもしばしばだった。彼を見つけ出すのは大抵金烏の役目で、食事と楽の時間以外の数少ない玉兎との接触の一つであった。
またいなくなったと捜索に駆り出されるたびに、自分に見つけてほしくてわざと隠れているんじゃないかと疑ったこともあるが、道に迷いやすいのは真実のようだった。
どうやら道や場所を覚えることに苦手意識が生じているらしい。
「一応、直そうとはしてるんですよ、僕だって」
「分かったって」
釈明に食い下がる弟を片手で軽く躱して歩き続ける。ここから目的地までそう遠くない。
丹鵲街の大通りは早朝にも関わらず、かつてと同じように活気があった。
興味津々の玉兎も今までの経験で懲りたのか、金烏から見える範囲にとどまっている。
金烏の金の髪が風に遊ばれて四方に散らばる。翻弄されるがままのそれを押さえつけて、天を見上げた。
雲一つない快晴だが、胸元に忍ばせた小瓶を思うと気分は晴れない。
先ほどまでの会話の流れを切って、玉兎は別の世間話を振ってくる。
「賽の河原ってどういうところなんでしょうね」
「さあな。子供が沢山ってことくらいしか想像できないな」
金烏の想像は正しかったが、賽の河原の現状というものを正確に示しているものではなかった。
二人がそう認識するには、あと数刻の時間を要することになる。
**
「さて、着いた」
丹鵲街の一角に立つとある建物。それほど大きくもなく、別段目立った形でもなかったそれが、二人の眼前にある。
「ここが、指定の場所ですよね。青灰色の屋根の建物ってこの辺じゃこれしかないですし」
玉兎が簡易的な地図と建物を見比べて数度金の瞳を瞬く。ちなみに、玉兎の方が地図を持っているのは行方不明対策である。
「そうみたいだな」
この後は、到着したら中で誰かに声をかけてくれという大雑把な指示しか受けていない。これが向こうの指示なのかどうかは定かではない。
「とりあえず、誰かにおとないを告げないことには始まらない」
入ろう、と古びた扉を押し開く。木目の細かい戸は抵抗もなくすんなりと開いた。
まず、最初に金烏の銀の目に飛び込んできたのは、うず高い紙の山だった。
何の変哲もない室内のそこかしこに、書類や書籍の類がだいぶ乱雑に積み上げられている。
虫干しでもしているのか。これって公的機関の一としてあるべき姿じゃないよな?
訪問先でまず言うべき第一声も忘れて、筍のようなそれを見回す。
「ああ! 貴方がたが例の! ようこそお待ちしてました」
扉の開閉音を聞きつけたのか、一人の男が二人の前に現れた。我に帰った二人は、無礼にならないうちにさっと頭を下げる。
「お忙しいところ失礼いたします」
二人を代表して金烏が言葉を発する。
「十日間お世話になります。私の名は金烏、こちらが弟の玉兎です。この度は無理をお聞き届けくださり、ありがとうございます」
頭を上げつつ、宣湘からの書状を男に差し出した。男はにっこり笑って恭しく金烏の手からここの主宛の書を受け取った。
「はい、確かに。申し遅れました、私は
河原守とは賽の河原を統べる長の名前だ。金烏はそれよりも眼前の男の名乗りに関心を引かれた。
江家、聞き覚えのある名前だ。たしかかなりの名門じゃなかったか、こんな閑職にいることってあるのかと、思考が脳内を駆け巡る。
「廉宰相直々のお頼み事ですから、本来なら主が迎えるべきですが、生憎席を外しておりまして。私がご案内いたしますね」
そこまで下手に出る必要があるのかと思ったが、宣湘の持つ力がそれだけ大きいことを示しているのだろう。宣湘の影響力をこんなところでも感じることになるとは。
「よろしくお願いいたします」
こちらとしては誰が案内役かは大した問題ではない。
「さて、では、早速ですが……」
金烏の頭の先からつま先まですーっと俊靖の視線が動き、眉が困惑に動いた。思わず腕を持ち上げて確認してみたが、別に華美な服装はしていない。一般的な婦女の服装だ。何が気がかりなのだろう。玉兎が控えめに口を挟む。
「何か問題が?」
「いえ、問題というか……」
俊靖は少し言いよどむ。
「申し訳ありませんが、ここでは動きやすい恰好のほうがいいかと。着替えはお貸ししますので。あとは、髪は一括りにして、簪は外してください」
「なるほど、分かりました」
どうやら裳裾が良くないらしい。髪の毛と簪に関してはいささか奇妙な指示だと思うが、動きやすさを重視するなら納得はできる。
見れば、文官らしき俊靖の装束も裾を引きずるようなものではない。
貸し出された一式と小さな室を案内され、指示通りに着替えを終えると、また視線が上から下へと移動した。
「これなら、まあ危険はないでしょう」
危険? 何故そんな不穏な単語が? と見習い二人は顔を見合わせた。
金烏と玉兎はすぐにその言葉の真意を、身を以て体験することになる。
準備の整った二人は建物の奥、姿見よりも大きな鏡のある部屋まで連れてこられた。
玉兎がその大鏡を見て興奮気味に口を開く。
「これが
界維鏡とは、二つの遠距離を瞬時に繋ぐことができるという便利な道具だ。便利ではあるが貴重なものなので、設置は六道各所へ向かう場所などに限られていた。そういう訳で金烏達も本物は初めて見る。
純粋な驚きを見せる年若い二人を、微笑ましそうに見守る俊靖は界維鏡の縁に手をかける。
「驚いていただけで何よりです。例外とは言え、賽の河原も六道と扱いは同等ですのでね」
では、早速行きましょうか、と俊靖が鏡の前に立つ。鏡面に手が触れると、触れた箇所から水面のように漣が広がっていく。俊清はそのまま一歩踏み出して鏡の中に消えた。
残された金烏と玉兎は同じように界維鏡の正面に立つ。どちらともなく手を繋ぎ合って。
「僕らも行きましょうか」
「ああ」
先に消えた男に倣って、二人は示し合わせたように同時に飛び込んだ。
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