第8話
指に走るチクリとした痛みに顔をしかめる。
何度目かの刺繍に失敗して、金烏は数えるのも億劫になったため息をついた。
金烏たち二人が宣湘の本邸に移ってから何十年かの時が経った。
冥界に生きる者たちは総じて長寿なので、その分現世の生き物よりも時間をかけて成長していく。
子供らしく丸みを帯びていた手足はすらりと伸び、短く切り揃えられていた金の髪もその背を越した。
長い睫毛に縁どられた銀の瞳は涼やかな印象を与える。少女特有の白く柔らかな頬とほの赤く色づく花の唇。その容姿は「いまだ蕾ながらも将来の美しさを約束された少女」と周囲が褒めそやすほどだ。
金烏の成長とともに取り巻く環境は大きく変わっていった。
まず、学ぶべきことが倍増した。基本的な事項はもとより、情勢や政に関わるより具体的な知識を詰め込んでいる。ある意味今までと大して変化はない。身体を動かすのも苦痛ではないのでそれも問題ない。
しかし、それ以外が問題だった。礼儀作法に始まり刺繍や琵琶、琴など凡そ淑女の嗜みと言い習わされる芸事に、金烏は苦戦していた。
今まで無自覚だったが、どうやら手先を使うことが不得手だったらしく、つたない作品や演奏を散々にけなされることもしばしばだ。先日も不器用すぎると酷評をいただいたばかりだった。
唯一褒められるのは舞踏ぐらいで、日に日に叱咤されることの方が多くなっていた。
(まさか、ここまでとは)
机上の勉学においては人並み以上にこなしてきた自分が、この体たらくとは。培ってきた自信も喪失しそうだ。
そんな愚痴めいた思考で手元が留守になったせいで、また針に指を突き刺した。
平静を装いながら、目下の憂鬱の種である手巾に眼を落とす。完成したら牡丹の花になるはずなのだが、どう贔屓目に見ても花の形には見えない。
「まぁ、またですか」
「ちいとも上達なさいませんのね」
呆れと蔑みの入り混じった女官の声が両隣からさざめく。この屋敷で過ごすうちに、いつのまにか慣れてしまった光景だ。
この二人は女官兼礼儀作法の指南役であり、金烏にとって気の重い存在だった。
宣湘からは女官をうまく「使う」のも仕事の内だと言われたが、金烏は最初から蹴躓いていた。
今、金烏の身分は宣湘の養女となっている。第三者から見れば、捨て子が成功者になったように見えるのだろう。彼女らの態度からやっかみが含まれているのが見て取れる。さぞかし幸運な少女だと写っていることだろう。
「まあ、姫様は大変お可愛らしくていらっしゃるから、刺繍ができないくらいなんてことありませんわ」
「そうですとも。楽の音が多少拙くても、愛想よくにこにこ笑っていれば問題ありません」
表面上は好意的な彼女たちのさえずりから滲む裏の意図を読み取って、また気が滅入ってくる。
つまりは、お前の取柄は顔だけだという言外の主張だ。揶揄めいた言葉に反論もできずに、曖昧に笑ってごまかす。
「まあ、そんなもの、かしら」
金烏の少女らしからぬ言葉遣いは、初期の段階で徹底的に矯正されたので、それなりに板についてきている。実際のところは、自分の口から出てくる言葉に違和感を拭えないまま、というのが本音だったが。
女性らしさに抵抗がある自分は、もしや生まれる性別を間違えたのではないかと、ひそかに悩んでいる。
結局、これ以上続ける気力は失せて、また落第だなと金烏は針を置く。
女官二人は示し合わせたように裁縫道具を片付け始め、やがて茶の香ばしい匂いとともに茶器が運ばれてきた。
うららかな午後の陽光が差し込む室内。温かな茶碗を受け取って、茶を口に含むと心地よい熱がじんわりと広がる。
しかし、どんな美味な茶をいくら飲み干しても、金烏が満たされることはない。一人ではないのに、孤独だ。
ここに玉兎が一緒に居てくれたら、と不在の弟を思う。
玉兎とは本邸に来て以来滅多に会えなくなっていた。例外は食事や楽などの時間くらいだ。
聞くところによると、弟は武芸を中心に研鑽を積んでいるらしい。身体を動かすのが好きな弟のことだ、のびのびと学んでいることだろう。
顔を合わせる機会が減った理由はわかる。姉弟とは言え、男女であることに違いはない。授業の内容が異なることや部屋を分ける理由もわかる。
そう、頭では理解できるけれど、納得はできない。
弟が側にいないと、ときどき己が何をやっているのか分からなくなる。力を蓄えるためだったはずなのに、どんどん本来の金烏の部分がすり減っていく気がする。
彼と引き離されたままでは自分は自分でいられない。
大分感傷的になったなと金烏はひとりごちる。
与えられた課題をこなす日々が目まぐるしくて、幼かった遠きあの日のことはもう朧げだ。
別邸の教師役たちはほとんどが本邸に移っていたが、金烏を閉じ込めた男の姿はどこにもなかった。推測はできるが、その行方を知る術はなくまた興味もない。
閉じ込めたと言えば、金烏を助けてくれたあの少年はどうしているだろうか。心密やかにあの藍色を思う。
おそらく宣湘に尋ねればその現在も、正体すらも知ることができるだろう。
しかし、宣湘に借りを作りたくはないし、彼を気にかけていると知ったら、何に利用されるか分かったものではない。
そんな機会を宣湘に与える気にはならなかった。
「そう言えば、先日の宴はいかがでしたか? たいそう盛大だったと聞き及んでおりますけれど」
やんわりと上品な声が金烏の意識を現実に引き戻した。茶碗を卓上に戻し、金烏は笑顔の仮面をそっと付ける。
「ええ、とても華やかでしたよ」
最近では宣湘に連れられて酒宴の類に出ることも多くなった。人前に出して今のうちに金烏たちの顔を覚えさせる心積もりだろう。
宣湘の出席する宴ともあれば格式高いものがほとんどで、華やかであるのは本当だが、楽しかったかと問われれば否だ。
それらの饗宴には玉兎も同行しているが二人で行動することは稀で、大抵はそれぞれ違う人間に囲まれている。壁の花を望んでも、周囲が廉宣湘の養子たちを放っておくわけはなく、不本意ながらも対応せざるを得ない。
近くにいるのに言葉も交わせず、ただただ退屈なだけだ。回を重ねるごとに愛想笑いの技術は格段に向上しているが。
実を言うと、昌とそういう席で再会できないかと淡い期待を抱いてはいるが、成果は芳しくない。毎回人知れず肩を落として帰宅する。
「まあ、うらやましい。最近は特に
女官の口から頭痛の種の名前が出て、金烏は小さく眉根を寄せる。
件の蔡家の若君はだいぶ自分にご執心らしく、何かにつけて側に張り付いてくる。様々な意味を込めたと思しき芝居がかった目配せを、その度にやんわりと躱していた。
最低限の相槌しか返していないというのに、自分のどこに執着する部分があるのか理解に苦しむ。
とにかく、彼の名は酒宴の最中ならまだしも、日常ではあまり耳にしたくない名前だった。
「確かに、あの方はよくしてくださいますけど。ただの噂ですよ」
金烏は小さく笑いながらさりげなく否定しておく。この噂の出所がどこなのかは考えたくない。
「あら、そうですか。またとない良縁かと思いますけれど」
口元を袖で隠しホホ、と優雅に笑いつつ、元孤児にはもったいないと言いたいらしい声音。もう一人からも賛同の声が上がる。
「そうですよ。宣湘様に仰ってみては? 蔡家と繋がりを持てるとなればお喜びになられますよ」
触れられたくない話題だと察した彼女たちは畳みかけてきた。
金烏が目指すべきらしい淑女らしい振る舞いのまま、じりじりと追いつめられる。
これは参ったと、金烏は笑顔の裏で頭を抱える。これ以上話を広げたくない。どうやって逸らすか思案し始めたとき、救いの主が扉を叩く音がした。
**
「日天童子金烏。お召しにより参上いたしました」
宣湘の居室の入り口で頭を垂れ、挙手をした。頭を下げた拍子に金糸のような髪がさらりと肩から滑り落ちる。
金烏の部屋に現れた救いの主とはこの屋敷の家令だった。彼は宣湘の命で金烏を呼びに来たと告げた。主の信任厚い彼の登場に口さがない彼女らも黙るしかない。
そうして難なく口を封じた金烏は悠々と部屋を出ることができたのだ。
「ああ、よう来た。こちらへ」
落ち着いたしわがれ声が奥から聞こえる。金烏はついと頭を上げた。
「お待たせいたしまして申し訳ありません」
声変わりを経た少年の言葉は金烏の耳にすっと入り込み、宣湘の前だという事実を一瞬忘れて振り返る。
「玉兎……」
「月天童子玉兎。ただいま参上つかまつりました」
柔和な笑みの弟が金烏をまっすぐ見つめていた。
**
玉兎が金烏と同様に向かい合うと、宣湘はようやく語り始める。
「さて、役者も揃ったところで話を始めようかの。そなたらに頼みたいことがある」
「頼みたいこととは?」
玉兎の登場による内心の狼狽を瞬時に消し去った金烏が問い返す。
宣湘は普段の気のいい老人の仮面を脱ぎ去っている。その顔は冷徹な為政者のものだ。
「そうじゃ。探して欲しいものがある」
その言葉の意味するところを理解して、二人の表情がすっと引き締まる。
宣湘の欲しいものとは、彼に有利な情報のこと。つまりは間諜としてそれを手に入れろということだ。
これまでにも何件か仕事をしてきた。相手の内情や弱みをひそかに押さえ、宣湘にもたらす。楽しい任務ではないが、宣湘の下した命となればこちらに拒否権はない。
また嫌な仕事になるな、と気分が沈む。
そうは言っても、どうやら金烏と玉兎の二人での仕事のようだから、それは喜ぶべきなのかもしれない。誰かの破滅が付いて回ることを度外視すれば、の話だが。
ともあれ金烏が抱えている山盛りの課題のことを考えると、面倒な仕事はさっさと終えてしまうに限る。続きを促すために金烏は口を開く。
「承知いたしました。して、我らはどちらに赴けばよいのでしょう?」
短い承諾と、余計な詮索はせず必要な情報だけを求める。宣湘の事情など知ったところで無意味だ。
「目標は賽の河原の河原守、臙景。その内情を探れ。足を掬えそうな材料があればなお良い」
かつての自分が頼ろうとしたその名を聞いても、金烏は眉を動かすことはない。ただ無言で首肯するのみだ。
「明日より十日間、そなたらを見習いとして遣わすと話をつけてある。その間に有用な情報を手に入れよ。何か質問は?」
「ございません」
金烏と玉兎は優雅にさえ見える仕草で深く一礼した。
「御下命、謹んでお受けいたします」
承服の言葉は示し合わせたわけでもないのに、声と動きがぴたりと重なる。
混ざりあった二人の声が作り出す不可思議な音は、厳かな響きさえ伴って広い室内を震わせた。
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