第7話

「烏々?」


 翌朝金烏は自分を呼ぶ声に目覚めを促された。金烏は掠れた声でそれに返す。


「……おはよう」

「うん、おはよう」


 寝る前あんな大騒ぎをしたのに、いつのまにか眠っていたらしい。窓の外はもうすっかり朝の色だ。

 寝乱れた髪と緩めてくつろげた襟を整える。

 緻密な細工を施された窓から差し込む光に目を細める。


「随分日が高く……」


 自分の居場所を伝えているとは言え、弟はさぞかし気を揉んでいることだろう。そう思ったとたん、すぐ戻らなければと気が逸る。


「家に戻りたい」


 昌はわがままともとれる言葉に、嫌な顔一つせずうなずいた。


「いいよ、行こう。宣湘殿が本邸にいるようだから、そちらまで送るよ」


 昌は金烏の手を引き、扉を静かに押し開ける。目の前には長い廊下。


「ついてきて」


 昌の足取りは軽やかだ。二人の身長差からして大分歩幅が違うのだが、引きずられている感覚はない。

 長廊下を二人で進み、次は細い道に、その次は垣根の下をくぐる。どうやら正規の道順ではないようだが、何の意味があるのかは見当もつかない。


 やがて丹鵲街の大路を突っ切って、南門である夏薫門かくんもんを越えた。

 宣湘の本邸はすぐに見つかった。二人は門が見える場所でいったん立ち止まる。

 少し名残惜しいが、これでおしまいだ。


「ここからは一人で行けるね?」


 金烏は一つうなずいた。その返答を確認して、握った手が離れて行く。早朝の肌寒い空気がかすかな温もりを奪い去る。


「昌。いろいろ、ありがとう」


 金烏は昌に向き直り、清さを湛える銀の瞳は真っすぐ彼を見つめる。それを受け止める藍の瞳は笑みに細められた。


「どういたしまして」


 昌の裏表のない笑顔に、金烏に一つの迷いが生じた。幾ばくかの逡巡を経て引き結んでいた口を開く。


「もうひとつ、言いたいことがある」


 昌は何も言わず微笑み、金烏の言葉の続きを待っている。


「わたしの名前は烏々じゃなくて、金烏。ほんとうは黙っておくつもりだったけど」


 告げるつもりのなかった名を、金烏はとうとう口にした。ここに至るまでの彼の誠意を裏切る気がして、これ以上の沈黙を続けることはできなかった。もう会う機会もないだろうから、なおさらだ。

 それに対する昌の反応は至極あっさりしたものだった。


「金烏。い名前だね」


 弾劾すら覚悟していた金烏は肩透かしを食らう。


「それだけ?」

「似合っていていいと思うよ」

「そういう意味じゃないんだけど」


 照れと脱力を同時に感じながら息を吐く。

 計算ばかりの大人たちに囲まれていた金烏にとって、昌は今まで出会ったことのない人間なのは間違いない。

 そして、金烏の世界に違う色を与えた存在であることも、間違いない。


「ところで、ここまで来た道を覚えている?」


 にっこりと形容するのが相応しい顔で金烏の思考を遮った。

 金烏が首肯すると、目の前の少年は金烏の背丈まで身を屈めた。何事かと首をかしげていると、耳元でささやく声がする。


「何か困ったことがあったら、あの道を辿っておいで」


 いたずらをたくらむ顔をして秘め事を託す。金烏が何か言う前に、さっと離れた少年は、じゃあね、と駆けて行ってしまった。後には言いようのない感情を抱えることになった少女だけが残った。


  **


 本邸の門では門番二人が待ち構えていた。すでに主から話が来ているらしく、すんなりと奥へと通される。

 初めて入る屋敷ではあるが、自分が向かっているのはおそらく宣湘の執務室だろう。先導の人間に大人しく付き従う。やがてたどり着いた扉を叩くと、入室を促す声がした。


「日天童子金烏、ただいま戻りました。殿に置かれましては、多大なる――」


 本来ならば長々と続くはずの口上は、脇から飛び出してきた誰かに抱きつかれて途切れた。正直しりもちをつかなかったのが不思議なくらいだ。


「姉さん! よくぞ御無事で!」


 感極まった玉兎の声が耳の横から聞こえてくる。


「たった一日だっていうのに大げさな」


 そう呆れつつ、どうにも身動きがとれないので、引きはがそうとするが、玉兎は離れようとしない。


「こら、ちょっと玉兎」

「だってぼくは本当に心配して!」


 無事を喜んでくれているのだから、あまり無理に引き離したくない。興奮する弟をどう宥めたものか。


「うるわしい姉弟愛じゃな。だが、そろそろ話を進めたいのだが、良いかな?」


 この一種のこう着状態を打破したのは落ち着いた一声だった。冷静さを取り戻した玉兎が金烏から離れる。


「お見苦しいところをお見せしました」


 金烏と玉兎は頭を下げたが、邸の主である宣湘は大して気分を害した様子はない。


「よいよい。ただ一人の同胞はらからじゃ。無事を喜ばすにはいられまい」


 宣湘は鷹揚にうなずいた。


「では改めまして、ただいま戻りました。宣湘様」

「うむ。此度は災難じゃったな」

「いえ、幸いにも助けを得られましたので」


 宣湘の労いに、言葉少なに金烏は返した。脳裏には昌の姿が浮かぶ。

 金烏の言葉に老爺の目がひらめく。


「助け、とな。そなたはその助け、何者であるか知っておるか?」

「いえ、名以外は何も」


 ある程度の推測はできるが、その予想を確固たるものにはできない。そもそも金烏は正体を突き止める必要性を感じていなかった。

 むしろ隣の弟の方が興味を持っていそうだった。


「なるほどの」


 宣湘の方とは言えば、一人で得心がいったかのようにその白いひげを撫ぜていた。


「とにかく無事で何より。まあ、二人とも本邸に来たのなら丁度いい。本日よりこちらに移るように」

「こちらに、ですか?」


 玉兎にとっても初耳だったのだろう。目を丸くして戸惑っている。


「急ですまぬが、以降はここでさらなる知を得、技を磨くがよい」


 宣湘がこう言うならこれ以上の反論は無駄だ。金烏たちには頭を垂れて受け入れるしかない。

 今まで生活に未練があるわけではないが、まだ見ぬ未来に希望が持てるわけでもない。

 己の運命を握っているのが他人だという事実が気に入らなくても、それをはねのける力はまだない。


  **


「でも、本当に痛いところとか辛いところとかないんですよね?」


 二人は当座の私室としてあてがわれた部屋で、小さな机を挟んで椅子で向かい合っている。

 玉兎の淹れた茶を飲みながら昨日の出来事を最初から話して聞かせたが、そう簡単に心配が尽きることはないらしい。

 この弟は行方知れずの間に姉が手荒に扱われていなかったか、どうにも知りたいようだった。金烏は軽く笑って玉兎の懸念を否定する。


「さっきも言ったけど、このとおり怪我なんてしてないよ」


 ほら、と腕を広げてそう主張する。


「親切な奴に助けてもらったおかげでね」


 だから辛気臭い話題は終わりにしよう、とそれとなく示したが、玉兎の顔は徐々に曇り俯いていく一方だ。


「玉兎……」


 何と声をかけたものか迷っていると、とうとう玉兎の目からぽたりと雫が零れる。


「ごめんなさい。でも、一歩間違えば、二度と、会えなくなっていたかもしれないと思うと……」


 玉兎は迷子になってから発見されるまで、一人だったことを思い出した。心細い思いをさせたに違いないのに、そこに思い至らなかった。

 それに、昌から金烏の無事を知らされていたとはいえ、不安な夜を過ごさせてしまった。

 あんなに守る守ると散々誓っていたくせに、結局この体たらくだ。

 金烏は静かに弟の側に寄ると、無言の涙を流す玉兎の固く結ばれた両手をそっと握り締める。


「ごめん、玉兎」


 重ねた両手にきゅっと力を籠める。


「手を離しちゃいけなかったのに、わたし。すごく、心配かけた」


 金烏の謝罪に黙って耳を傾ける玉兎の銀色の睫毛が、光を反射してきらめいている。

 金烏は袖口で今なお頬を濡らす雫を優しく拭う。


「もうそういうことないように気を付けるから。元気、出して」


 噛みしめるように一言一言ゆっくりと口にした。誠意をこめた言葉に動かされたのか玉兎もようやく涙が止まった。


「ぼくも、ごめんなさい。姉さんにいっぱい心配させました」

「そんなことない」


 金烏は即座に否定した。確かに心が潰れる思いだったが、ちゃんと見つかったのだから、責めるようなことじゃない。


「そもそもぼくが迷子になったせいですから。これからは迷子にならないように気を付けます」


 どこかずれた玉兎の宣言に、どちらともなく笑いだす。

 それでようやく、お互いの張り詰めた感情が緩んだ。





 今はまだ、二人を取り巻く状況が自分たちの平穏を許さない。非力なままではささやかな望みすら叶えられない。

 だから、力が必要だ。障害をはねのけるに足る強い力が。

 そして、いつか自分たちの運命を手に入れてみせると改めて心に誓った。

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