第4話

 ただひたすら大きい、というのがその時抱いた感想だった。宣湘の別邸も広かったが、比ぶべくもない広大さだ。

 正面にある大きな門をくぐり遥か向こうの城を仰ぐ。数多の建物が手前から奥までずらっと立ち並んでいるのが見てとれる。さらに奥にある宮城は霞がかってすら見えた。なんて途方もない大きさだろう。

 成人男性の胸元にも届かない身長のせいで、過剰に見上げる羽目になった首が痛い。

 想像を超える風景に圧倒されて、身動きしなくなった金烏たちにしびれを切らした教師が、二人の手を引いて促す。


「いつまでも呆けていないで、行くぞ」


 現実に戻った二人は教師に連れられて歩き始める。小さい二人に歩幅を合わせてもらえなかったので、若干早歩きになる。


(こういうところが気に入らないんだよな)


 さっさと仕事を終えたいのがありありだ。

 さて、これからどうするか。今日二人につけられたのは男が一人、女が一人。先日目星をつけた場所は大体の見当はついている。

 しかし、大人二人を振り切って逃げるのは得策ではない。玉兎が計画を何も知らない以上、そのまま出奔するのは不可能だ。いったんは邸に戻るしかない。そもそも、臙景という人物が敵か味方かすら判明していないのだ。勝ちの見えない賭けはするべきではないだろう。


 ではどうするか。ここは、迷子になったふりをしよう。故意ではなく不可抗力を装えば不自然さをごまかせるかもしれない。

 城内がこんなに広大だとは予想外で、早くも計画の修正が必要になったが、これからうまくやればいい。

 考えを秘めつつ少し歩いていくと、教師の講釈が始まった。


「今歩いているのが丹鵲街たんじゃくがい。街とは言うが立派な機関だ。向かって左に政務に関わる部署が数多くある。向かって右に死者の裁きに関する部署がある」


 門から宮城までを真っすぐ貫く大路を進みつつ、左右の建物を眺める。それぞれせわしなく人が行き交っていた。

 今日は宣湘の意向で大分奥まで行ける予定だ。もちろん都合の悪いものは徹底的に避けるだろうが。おそらく金烏の目的地はその道の途中にあるはずだ。

 さて、いつ迷子になろうか。普通に考えれば、目的地周辺が望ましい。しかし。


(せっかくいろいろ見て回れるのにもったいないかな)


 そう考える自分もいる。見られるところは全部見たいし、目的も達成したい。

 では、帰り道で実行するのが妥当か。結論を出した金烏は企みをおくびにも出さず歩く。

 涼しい顔の裏で出し抜く算段をしているなどと、教師たちは夢にも思うまい。


(大丈夫だ、やれる)

「姉さん? 気分でも悪いんですか?」


 手のひら越しに緊張が伝わったのか、小声で玉兎が尋ねてきた。


「ん、なんでもないよ」


 安心させるように口元に笑みを乗せる。

 そうだ。きっとうまくやれる。これ以上誰かの思惑の上で踊るのはまっぴらだ。

 金烏は心の隙間から忍び寄る不安を遠ざけるのに躍起になっていた。

 だから、気づかなかった。二人の様子を注意深く見つめる二つの瞳があることを。


  **


 初めて見るものばかりの外出は大いに興味をそそられた。足早に通りを行き交う人の流れひとつをとっても新鮮だ。

 道行く女性が髪に挿している簪はキラキラして金烏の目を引く。陽光を反射して光を放つそれには思わず歩みを止めそうになったが、慌てて興味のない風を装う。

 平静を保とうとする姉に対し、玉兎は知的好奇心を抑えきれない様子でそわそわし通しだった。興味を引くものがあるたび歩みが遅くなると、その都度手を引いてやる。これでは、弟の方が迷子になりそうだ。


 次々と案内される各部署では、ほとんどの者が愛想よく対応してきた。それは年端もいかぬ子どもに対する好意ゆえ、というよりも、二人の背後に存在する彼の人を意識すればこその待遇なのは明らかだ。

 改めて廷原衆の影響力の強さを確認する。一応顔でも覚えておけば何かの役には立つだろう。

 丹鵲街から始まり、城内の各部署まで、ここまでの職場巡りは大した滞りもなく順調だった。

この後宣湘の執務室に行けば、今日の日程はほぼ終わりだ。

そろそろ行方をくらませる頃合いかと、機会を探りつつ今日最後の見学場所に着いた。


「おお、着いたか」


例に漏れずここでも歓迎を受ける。


「ああ、世話になるな」


教師の男は迎えの彼と知り合いらしく、砕けた口調で話しかけた。


「さて、こっちが例の……」


 一通りの挨拶の後、男の視線が下方、つまり金烏に向けられる。それに合わせて金烏は持てる可憐さを総動員して小首を傾げる。

 人当たりのよさそうな表情を浮かべた彼だったが、その顔は次第に訝しげなものへと変化していく。


「うん? 予定じゃ二人連れてくるんじゃなかったのか。一人しか見当たらないが」


 金烏は笑顔のまま凍り付いた。

 ありえない速さで周囲を見渡せば、確かに隣にいたはずの弟の存在がどこにもない。


「なっ」


 いったいいつから? ずっと手を繋いでいたのに。迷子にならないようにしっかり。わたしはいつ手を離した?

 確か、数分前、中庭を通り過ぎたとき、玉兎の被っていた帽子が突風で飛ばされたのだ。幸い、取りに行ける距離に落ちた。その時玉兎の手を離したのだ。そして、そこから、弟の手を引いていなかった。

 顔から一気に血の気が引く。こんな初めて来たような場所で一人きりなんて。


「すぐに探しに参ります。申し訳ありませんが、これにて失礼いたします」


 忘れず最低限の礼をとってこの場を辞すと、教師役の二人も慌てて退出してきた。大の大人が二人もいて何をしていたのだと怒鳴りたくなったが、激情をこらえて口を開く。


「おそらく、はぐれてまだ時間は経っていません。ただ、もう移動しているかもしれませんので、各自で手分けして探しましょう。宣湘様にもご連絡を」


 教師の女はうなずいて宣湘の執務室がある方角へ走って行く。それでは自分は反対方向から探そうと駆けだした途端、肩をぐいと掴まれる。

 金烏は唐突な痛みに眉を顰める。自分の肩から掴んでいる腕を辿っていくと、教師の男の歪んだ顔がある。


「何のおつもりですか」


 こんなことで時間を食うわけにはいかないのに、腕を払いのけられない強さがある。

 焦りを抑えて冷静な口調のまま金烏は睨め付ける。


「これがお前の計画か」

「は?」


 理解ができない。いったいこの男は何を言っている?


「とぼけても無駄だ。玉兎が行方知れずなのはお前の指示だろう。どこまで人を虚仮にすれば気が済むんだ」


 男の独り言めいた糾弾を聞きながら、金烏はどこかに引きずられていく。

 抵抗しようにも、大人と子どもの歴然たる力の差ゆえにそれも叶わない。


「玉兎を探すふりをしてお前もどこかに身を隠すつもりだったんだろう。チラチラと周りをうかがっているのに気がつかないと思ったか、この馬鹿者め」


 馬鹿はどっちだと金烏は心の中で毒づく。金烏の企みを見抜いた気になっているが、見当外れもいいところだ。

 こいつは自分たち二人を飼い馴らせと厳命されているはず。監督もできずいいように翻弄された、と宣湘に判断されるような事態になれば叱責は免れない。だから、こんなにも焦っている。

 とにかくこのままでは玉兎を探すどころではない。なんとか男の腕を振り切ろうと力を振り絞るが、非力な金烏では難しくなすがままだ。

 腕を強引に引かれ、ある扉の前にまで来てしまった。荒い鼻息の男は部屋の中に金烏を放り込む。

 勢いよく転がり込んだ先は明かりが灯っておらず、真っ暗だった。足元に忍び寄る闇に息を呑んだ金烏が慌てて出口を振り仰ぐのと、いびつな笑みを浮かべる男が扉を閉めようとするのはほぼ同時だった。


「じゃあ悪い子には罰を与えようか」

「! まっ――」


 て、と金烏が出口に縋りつく前に扉が完全に閉じられた。

 力をこめて扉を叩いても、声の限り叫んでも、大きな扉はびくともしないし、ただただ沈黙が帰ってくるだけだ。

 やがて叩く力も弱々しくなり、声も嗄れ、金烏はズルズルと崩れ落ちる。窓ひとつないこの部屋では、目の前の闇はどんなに目を凝らしても何も見えない。


(まずい……)


 知らず知らずのうちに息が荒くなる。

 金烏は何故か暗闇が苦手だった。いや、苦手などとは度合いが違う。灯りが何もない状態は金烏にとってこの上ない苦痛を伴うものなのだ。だから、就寝の際にも灯りは絶やせない。

 玉兎にも話したことのない、金烏の弱点だ。誰かが側にいれば苦痛も和らぐが、この状況ではそんな展開は望みようがない。

 意識と視界に紗が掛かる。限界か、と覚悟したとき真っ先に浮かんできたのは弟のことだった。


「こんな様じゃ、あいつを見つけに行けないな」


 ここで寝転がっているわけにはいかないのだが、すでに指先にすら力が入らない。


「ごめん、玉兎……」


 意識を手放す直前、視界の端に一筋の光を捉えた。しかし、金烏にはもはやそれが何を意味するのか分からなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る