第110話 伝えておきたい事
オレはベッドの上に横たわっていた。
天井にはかつて眺め続けたシミが、同じような形で目に映っている。
グランニアとの決戦を終えたあの日。
ダラダラできないと騒いでいた頃に見たものと、同じシミだ。
あの時と比べて自分は随分と変わってしまったんだな。
体自体は動くと言えば動くが、末端の感覚が無く、力が入らない。
気がついた時は手足の指先だけがおかしかったが、今は手首から先、膝から先が動かなかった。
まるで体の外側から腐り落ちていくかのようだ。
異常は身体だけではない。
自分の中の精神というか、心のようなものが刻一刻と薄まっていく感覚がある。
割れた桶から水が溢れていくように、なだらかに、ゆっくりと。
オレの身体にも穴が空いてんのかな。
確かめたくとも自由には動けない。
医者にも診せたし、回復魔法も十分にかけてもらったが、復調しなかった。
だから怪我でも病気でもない。
そうすると残ったのはただ一つ。
ーー死ぬんだろうな。
自分の死期を直感で感じた。
生命力というものがあるとしたら、オレは確実にそれを失い続けているだろう。
自分という存在が徐々に消えていく。
死を迎えるとはこんな気分なのか。
祭りの後のような、恋人を家に送り返した後のような、複雑な寂しさがあった。
「アルフ、寝てなくて平気? 起きている方が辛いんじゃない?」
部屋の入り口でリタが声をかけてきた。
後ろの窓から差す光のせいで、表情がよく見えない。
もしかすると視力まで怪しくなっているのかもしれない。
「大丈夫だ。天井だけ眺めてるよりは、外の景色も見ていた方が気も晴れる」
「そう……よね。辛かったらすぐに言ってね」
「子供たちは呼んでくれたか? このまま死ぬかもしれないから最期の……」
「やめて!」
叫び声をあげたリタが、オレに覆いかぶさるようにして飛びついた。
頬が濡れている。
顔を見ていると、目が酷く充血していた。
もしかするとずっと泣いていたのかもしれない。
「そんな、恐ろしい事言わないで! まだそんな歳じゃないじゃない!」
「ああ、悪かったよ。うかつだった。気弱になってるから子供たちの顔が見たくてな」
「……ごめんなさい。グレンとミレイアなら今晩にくるわ。シルヴィアはゴルディナに居るから、明日の晩ですって」
「そうか、ありがとう。そんな泣くなって」
オレは動かない手を伸ばして涙を拭おうとした。
ダランと垂れていて、何とも痛々しい。
その手を両手でリタが握りしめて呟いた。
「人族は短命だって聞いてるから覚悟してた。でも怖いの。あなたが手に届かない程、遠くに行ってしまいそうで……」
「リタやアシュリーに比べたら一瞬の命だろうが、まだまだだって。孫の顔見る前に死ねるかって」
「そう、そうよね。心配しすぎ……よね?」
「当たり前だ。オレにはまだシルヴィアの彼氏をぶん殴る仕事が残ってるんだ。簡単に死ねるかよ」
「もう、アルフってば。シルヴィアに怒られるわよ」
「……ありがとう。そこまで心配してくれて」
「こんな時にしか労ってくれないんだから、ズルい男よね」
吐息だけで少し笑ってくれた。
それを見てオレは胸をなでおろした。
あんなに泣かれちゃこっちだって辛いからな。
リタは『少し外す』と言い、去っていく背中を無言で見送った。
明日の晩か。
何としてもそれまでは持ちこたえないとな。
それにしても、回復魔法をかけたリタならわかっているだろうに。
オレがもう助からないことを。
頭では分かっていても、感情は別って事なのかね。
「そうは思わねえか、鳥さんよ?」
オレが窓の外へ声をかけると、壁の向こうがガタガタッと騒がしくなった。
全く……隠れるならさ、もうちっと上手く隠れろよな。
「オレはな、そこの木に止まってる鳥さん。アンタに話しかけてんだ。話し相手になってくれ」
「あ、そう……なんですね。どうぞどうぞ、いくらでも話しかけてくださいな」
「どうやら悪運もこれまでみたいでな。もって数日の命のようだ」
「でもでも、これからまた元気になるかもしれないじゃないですか!」
「わかるんだよ、自分の身体に起きてる事がさ。生命がゆっくりと死に向かっているのがわかるんだ」
「そんな、そんな事……」
鳥はもう木に止まっていなかった。
それでも会話を続けているコイツは、やっぱり抜けてるんだよな。
まぁそれはどうでもいい事か。
「オレには古い知り合いが居てな。そいつとは散々馬鹿騒ぎをしたんだよ。それこそ毎日のようにな」
「それはそれは、楽しそうですね」
「ああ、楽しかった。賢人なんて名乗っちゃいるが、アホの子でな。いろんなトラブル起こしてくれてよ」
「うぐっ。でもでも、良い所もたくさんあったでしょう?」
「まぁな。賑やかにしてくれたしな。オレの人生を彩ってくれてありがとう、と伝えたい」
「ありがとう……ですか?」
「そうだ。森の賢人に会う事が会ったら伝えて欲しい。ありがとう、楽しかった、お前と会えて本当に良かったってな」
「……ぅぅ。……ヒグッ……」
全く、鳥は泣くんじゃなくて鳴くもんだよ。
つい湿っぽくなっちまったな、オレたちには似合わない涙の別れ。
まぁ最期くらいは真面目でも、いいよな?
はぁ、少し疲れた。
喋っただけでこの有様じゃ、いよいよ覚悟しなきゃいけないな。
ちょっとだけ寝かせてもらおうか。
……どれくらい時間が過ぎたろう。
誰かが部屋に入ってきた。
サイドテーブルに何か独特な臭いのするものを置いて。
この衣擦れとは違う金属音の主は。
「エレナか」
「あぁ、すまない。起こしてしまったか?」
「いや、微睡んでただけだ。半分は起きてたんだ」
「そうか……。街で体力増強に良いと聞いた薬湯だ。飲んでみるか?」
「この明らかに苦そうなヤツだろ。一口だけくれ」
「わかった。じゃあ起こすぞ」
口に含まされたそれは、臭いこそ強烈だったが、苦味はそれほどでも無かった。
それが本来の形なのか、味覚が無くなってしまったのかはわからないが。
「もういいや、十分堪能したよ」
「……まだたくさんあるから、いつでも言ってくれ」
「嗜好品じゃないんだ、自発的にもらう事はないだろうよ」
「次からはハチミツを入れて持ってこよう」
それもどうなんだ、より凶悪な味わいになるんじゃないか?
冗談のつもりでは無いようで、椅子に座りながら見つめてくるエレナの顔は精悍そのものだった。
そういや軽口を叩いている所なんか見た事無かったな。
「エレナ、お前は結婚とか家庭とか考えないのか?」
「どうしたんだ急に。そんな事を聞くなんて」
「ちょっと気になってな。アシュリーたちと違ってお前は人間だろう。寿命だって長くは無い」
「フフフ、そんな事考えもしなかったな。私は家庭を築くのに全く向いていない人間だ」
「すまんな。大して報いてやる事ができなくて」
先ほどとは違い、エレナは整った顔を少し綻ばせている。
陽が傾き始めたのか、夕暮れの光にその頬を少しだけ赤色に染めて。
「ありがとう、の方がしっくりくるな。私は幸福だったのだから、謝られてもいささか困る」
「そうか。こういう時はそっちの方が適切か。エレナにはとても助けられた。戦いの場でも、この森の家でも。ありがとう」
「ありがとう。私こそ、家族の温かみを心から感じる事ができた」
「……悪いが、少し眠らせてくれ。妙に眠気が強くてな」
「あぁ、気が利かなかったな。ゆっくり休んでくれ」
自分の中の何かが急速に萎んでいくのがわかる。
昼間に比べて意思の力がずっと弱々しい。
数日とは言わんが、せめて明日の夜までは持って欲しい。
祈る様な気持ちで自分の娘を待ち続けた。
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