第88話  ふたりの時間

デートを前に、リタは着替えのため自室に一度戻った。

これから森の中にある湖に向かうつもりだ。

ロランの住人もそこを利用しているらしいが、野鳥や小動物の憩いの場というイメージの方が強い。

心を休めるにはうってつけのスポットだ。


しばらくすると、リタが降りてきた。

つば広の帽子に白のワンピースというシンプルな姿だったが、細身のリタにはそれが良く似合っていた。



「おまたせ、ちょっと地味だったかしら?」

「いや、そんなことはない。似合っていると思う」

「フフッ、ありがとう。じゃあ行きましょうか」

「そうだな、じゃあ行ってくる」

「ゆるざねぇクヒッ……ゆるざねぇだよ……こんな結末さ認めねぇだ、クヒヒッ」



アシュリーから邪神のような妖気を感じるが一体どうしたのか?

美味しいものでも買ってくれば機嫌を直してくれるだろうか。

後ろ髪を引かれる想いで家を後にした。



湖まで飛んでいってもよかったが、歩いても一時間程度の距離だ。

時間はあるので、のんびり歩いて行くことにした。

草原の道は土と命の匂いに染まっており、それは不思議な豊かさを与えてくれる。

辺りは色とりどりの花が咲き乱れ、蝶や蜂が集まっているのが見える。

お互いに景色の感想を述べていると、黒い影が素早く横切っていった。



「ねぇ、今のアシュリーじゃない?」

「本当だ、森の奥に向かって飛んでいったな」

「……嫌な予感がするわね」

「何かトラブルでもあったのかもな」

「トラブルが起きたのか、あるいは起こしに行くのかもね」


リタが謎かけのような言葉を残して歩いていく。

オレは首を傾げつつ後を追った。

ほどなくして湖に着いたが、付近の住民や動物が全く見当たらない。

オレ達はすぐに異変に気づいた。



「なんだこれ、クッサ!」

「ほんと、鼻が曲がりそうよ」

「クケケ、くっさい臭いで雰囲気をぶち壊してやるですよー」

「アシュリー、やめろ!」

「クケーケケッ! まだまだ序の口ですよー」



アシュリーの嫌がらせは何度追い払っても執拗に続いた。

それからというもの、突然大きな破裂音がしたり、力の抜ける音が絶妙なタイミングで聞こえたりと、ムードを台無しにされてしまった。

このままじゃリタが可哀想だ……よし!



「ワン公、出てこい!」

「主よ、お呼びで」

「向こうにだだっ広い平地がある。そこでアシュリーの相手をしていろ。」

「承知しました」

「あまり怪我の無いようにな」



アシュリーを口にくわえたグレートウルフ・ロードは、奥の方へと猛然と駆け去っていった。

これでようやく静かになるだろう。



「すまんな、騒がしくって」

「アルフのせいじゃないわ、謝らないで」


『てんめぇー、そこを退きやがれですぅ! 人の恋路の邪魔すんなよーです!』

『そうはいかぬ、賢人殿。主の命は絶対である』


「まぁ、騒がしいのはいつものことか」

「フフッ、ほんとよね」


『この犬ッコロがぁー、内臓引きずり出して後悔させてやらぁーですー!』

『ぬぅ、やるな。だが狼王相手にその程度では足らぬ!』


「いつものこと、か?」

「比較的賑やかね……あら?」



気がつくと周りには小動物が集まっていた。

オレにではなく、リタの方に。

リタはここへ何度も来てるらしいから、懐かれているのかもな。



「あらあら、怖かったわねぇ。私が守ってあげるから大丈夫よ?」



そう言って、フワリと抱き締めるように動物たちを両手で包み込んだ。

慈愛に満ちた、美しい笑み。

オレは素直にそう思った。

なんとなく動物達とシルヴィアを重ねてしまい、慌てて否定した。

今さら母親になんて、うまくいくわけ無いだろう。



ひとしきり動物たちの頭を撫でてあげると、

みんな湖の方に向かった。

気分が落ち着いたから、今度は水を飲みに行ったんだろう。


その光景を眺めていると、リタがオレの手に指を絡めてきた。

ギュッと握るのではなく、添えるだけ。

彼女の奥ゆかしさに、胸の奥がズキンと痛んだ。


どちらからでもなく、長椅子に並んで座った。

さっきよりも少しだけ握る力が強くなり、少しずつ汗ばんできた。

リタはそれを嫌がる事もなく、柔らかい笑顔を向け続けている。

向けられた眼差しに引き寄せられながら、抗いがたい引力を感じた。

二人を阻むものは何もない。

ただ、拳一つ分の距離があるだけだ。



「ねぇ、キスしてみようか?」

「え、急に何を」

「そんなに構えないで。ちょっと試しに、ね?」

「試しにって、お前」



リタが顔を上気させながら、小悪魔っぽく笑った。

こんな表情は初めて見たかもしれない。



「難しく考えないで。挨拶だと思ってくれればいいから」

「いや、でもそんな突然言われても」



両手をオレの頭の後ろに絡ませて、顔を近づけてきた。

咄嗟に下がろうとしてしまうが、その手が邪魔で逃げられない。

少しずつ寄せられてくる、吐息、体温、そして唇。

睫毛が長くてキレイだと、あまり関係の無い感想が頭を過った。



そして……




リタが止まる。


オレも止まる。


世界が止まる。


色を、音を失っていく。

どうやらモコの呼び出しのようだ。

オレは安堵と憤りを感じながら、複雑な想いでそれを受け入れた。

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