第11話 囁きの川辺Ⅱ


 ……昨夜の回想から我に返った。

 川のせせらぎが急にくっきりと耳に飛び込んでくる。長門は辛抱強く俺の心の過去旅行が終わるまで待っていたようだ。

 俺と古泉は朝比奈さんの未来が安定するように何らかの働きかけをしないといけない。だが何をどうやってこの寡黙かもくな有機アンドロイドに伝えたらいいのか。

 長門の黒曜石のような瞳に水面からの午後の光が映えている。

 大抵の人間には全く考えが読み取れないだろうが、長門は今なにかを保留状態にしているが、表現するすべがないのではないか、と言う気がする。

  

「長門」

「なに」

「お前が言っていたカオス状態は、ひょっとしてあの子が現れてからだな?」

「そう」

「なんか心あたりがあるのか」

「私の任務はあなたと涼宮ハルヒの観察と……」

「そうじゃなくて、」

 すまない。初めてお前の言葉を遮ってしまった。

「いい」

「その、何を言いかけたのか教えてくれないか」

「……観察と保護だから、人類の未来に関心はない。しかし、その未来が涼宮ハルヒとあなたの生存を脅かす可能性がある場合はその限りではない」

「もし俺がとんでもない未来を選ぼうとしたら、お前は阻止するのか」

「場合によっては」


 もう言うべきことは言ったようだった。

 周囲を見渡すと穏やかな日差しに包まれた川辺に緊迫きんぱく感などみじんもない。たくさんいた家族づれはもう誰もいなかった。だだっ広い河原に俺と長門が立ち尽くしている。さわさわと水音だけがあたりを満たしている。

 いつの間にか警官もいなくなっていた。普通、こんな事件なら警察署で俺たちに事情聴取とかをするんじゃないのか。


 たき火のそばで古泉と鶴谷さんが俺たちを見つめている。俺が深刻そうな顔をして長門と話していれば古泉はもちろん、勘の鋭い鶴谷さんが不審に思うのは無理もない。あまり長門と見つめ合っているのもなんなので、鍋に水を入れて戻った。



 俺と長門がまだ小さく煙を出しているたき火のそばまで行くと、

「近くに温泉があるんだけど行ってみない? ちょっとひなびたところだけど、なかなかいいところだよ」

 長門と俺が何を話していたのか問い詰めないところはさすがに鶴谷さんだ。古泉はわずかに自制がきかないようで、目に好奇をたたえている。

 しかしハルヒと妹が……。

「さっきハルにゃんと連絡を取ったら、いいってさ。向こうで合流することになったんだけど」

 鶴谷さんは自分の提案した小旅行がこんな状態なのでいろいろ気をつかってくれるらしい。

 古泉は反対するでもなく微笑んだだけで、俺も同行することにした。温泉はともかく妹がハルヒと一緒だ。何を吹き込まれるか知れたものではない。精神衛生上よろしくない。



「時間は大丈夫ですか」

「バスで十分くらい。すぐそこだよ」

 とりあえず次なる行き先も決まったので、燃えくすぶっているたき火に水をかけると勢いよく蒸気が立ち上がった。日も傾いて今日のピクニックはこれにて終了……なんとなく一抹いちまつの寂しさが漂う。

「ゴムボートはどうする」

「ここに置いておきましょう。まだ探しているかも知れませんから」

 俺は黄色いゴムボートを岸辺の真ん中あたり、道路からよく見える場所に持って行った。

 ボートを川砂利の上に置くとはずみで何かがきらりと光った。ゴムボートの底に小さな金属棒があった。長さ十センチ、直径は最大で五、六ミリくらいだろうか。先に行くほど細くなっている。ここに運んだときには気がつかなかったが……。

 手に取ると妙に重い。端部はなめらかにトリミングしてあって指を傷つけることはないだろう。だが細かい文様がみっしりと刻まれている。どこかで見たような……。


「キョンくーん。バスまで時間がないよっ!」

 鶴屋さんの声で我に返った俺は、金属棒を胸ポケットに入れ、荷物を背負った古泉と鶴屋さんのあとを追った。

 古泉の視線が少々気になったが、鶴屋さんはとがめるわけでもなくバス停までの道すがら、笑顔で温泉の由来を話してくれた。

 もともと温泉を掘り当てたのは遠いご先祖様だという。いまは一般向けの温泉旅館になってるそうだが、鶴屋さんから数えて四代くらい前までは鶴屋家専用だったとか。豪勢な話だ。どんだけの資産があればそんなことができるのかは知らない。

 元々この近くにあるおやしろに参拝する前に身を清めるために建てたらしい。

「というワケなんだけど今は普通のボロい旅館さ。あんまり期待しないでねっ!」

 やがてバスの車窓から豪壮な門構えが見えてきた。いったいどこがボロいんですかね?



 温泉にはすでにハルヒたちが待っていた。診療所の看護師に赤ちゃんを引き渡したあと、タクシーでここに来たという。

「なんか、相手もあからさまにこっちを疑ってるみたいだったわ」

 何はともあれ医療機関に赤ちゃんは渡したことだし、脱水症状のおかげで上流ミステリー探索がどっかに消し飛んでくれたのはありがたい。口直しと言っては何だが、ここでひとっ風呂浴びて帰るのもいいかもしれない。

 温泉の作りは古いとは言っても所々に改装の跡が見え、昔風の旅籠屋はたごやの雰囲気も色濃く残っている。黒光りした天井のはりもかなりの年月を経ているようだ。

 きしむ板張りの廊下を抜けて露天風呂へと向かう。ハルヒたちとは男女それぞれの脱衣室の前で分かれた。


 高い竹垣が湯殿の周囲をぐるっと取り巻いていて、その向こうは紅葉に染まる山々が見える。広い湯船には入浴客の姿はない。時間が早いので客は俺たちだけらしい。ときおり隣の庭園から鹿威ししおどしの音が響く。

 竹垣で仕切られた女湯からは、散発的にハルヒと鶴谷さんの笑い声が聞こえてくる。打たせ湯の響きがさえぎって何をしゃべってるのかまではわからない。

 この薄い竹塀の向こうに一糸まとわぬ朝比奈さんと鶴谷さんが……いかん。俺は頭を振って湯おけから冷水を被った。

 岩塊を巧妙に組み合わせて作った湯船に身を沈める。

 白濁した湯の温度は俺の好みよりちょっと熱めだったが、疲れた今の俺には心地いい……って俺はじーさんか。情けない。

 首までどっぷりつかりながら、俺は頭の中を整理する。

 長門と赤ちゃん。このピクニックのそもそもの発端。最大の謎はもちろん朝比奈さんの依頼だ。俺は長門に何かを伝えなければならないらしい。



 ザブリと無遠慮に古泉が近づいてきた。

「先ほどの長門さんとの会話で、進展があったのですか」

「一つだけだ。キーワードはあの赤ちゃんだ」

「昨日の朝比奈さんの話からすると」

 古泉は声を低めた。水音でよく聞こえない。もっと明瞭めいりょうに話せ。お前の陰謀めいた口調は気疲れする。ていうか、近いぞ。俺に密着するな。

「僕なりに考えてみたんですが。朝比奈さんは自分たちの未来の発生確率は低いと言いました。ということは、高い確率で本来選ばれるはずだった別の未来が存在することになります」

 その選択をするのが俺なのか?

「現時点の存在だけが未来を決定できるということは、」

「ひょっとして、未来を変えるのはお前かもな。喜んで権利譲渡じょうとするぜ」

「長門さんは、いつの時点の存在なんでしょうか」

 そうきたか。

 長門はある時点まで未来の自分と自由にアクセスできた。情報という点では、長門に「現在」は存在しないのかも知れない。だが、端末としての能力で同期できるのは可能性の高い未来だけなんじゃないか? ということは……。

「長門さんは朝比奈さんの未来ではないほうの未来を知っているはず」

 俺の思考を読んだかのように古泉は言った。

 もしその未来が、俺とハルヒにとって危険なら長門は放置しないだろう。

「ハルヒにとって危険ななら、そのままにしないと言っていた」

「長門さんはその未来を知っているが、行動を起こせない。おそらくどちらの未来が涼宮さんにとって危険なのか判断できないのではないでしょうか」

「と言われてもな。こればっかりは長門にそっちの未来のことをきいてみるしかないだろ」

「僕も同意見です」

 安心したように古泉は溜息をついて、深々と耳たぶまで湯につかった。


 何かが俺の潜在意識の水面で首をもたげている。それはすぐに手のとどくところにあるのだが。この会話、古泉による誘導なんだろうか。俺が気づくのをこいつが促しているとか? いったいどこまでが本当の自分の考えなんだろう。


 だだっ広い脱衣所はまだ俺たちの他は誰もいなかった。着替えてから冷たいコーヒー牛乳を飲んだ。古泉は缶入りミルクティーを飲んでいる。風呂上がりにはコーヒー牛乳が定番だろ。


「男のくせにあたしたちより長湯だなんで、おっさんくさいわよ」

 ハルヒはうっすらと桃色に上気した顔で、鶴屋さんたちと玄関のソファにすわっていた。朝比奈さん的にはものすごく熱かったのか、なんかぐったりとしている。

 俺たちの集団で赤ちゃんに年齢的に一番近いのは妹だが、子供はいい。もうさっきの涙なんか忘れて長門とならんで一緒にコーヒー牛乳をちびちびやっている。

 濡れた髪をさらりと揺らして鶴谷さんが笑顔を向ける。

「キョン君、湯加減はどうだった?」

「適度に熱くて俺好み、というかまた来たいですね」

「あたしもここは久しぶりなんだけどね。今度はここに泊まりがけで来たらどうだい? 宿の人によく言っておくからさっ」

 ああ、またハルヒの前でそんなことを。

 ハルヒはニカリと笑って立ち上がった。

「また今度ね。そろそろ日が暮れるから行きましょう。みくるちゃんいくわよっ」

 力の抜けた朝比奈さんを引っ張り上げるように立たせたハルヒと俺たちは温泉を出た。

 夕刻になるとバスの頻度が上がるのか、さほど待たずにバスは来た。

 街のバスターミナルでまたしても朝比奈さんにしがみつく妹を引きはがした後、俺たちは解散した。

 ……妹に名残惜しげに手を振った朝比奈さんの表情がなんとなく寂しげで気になる。



 妹は夕飯を食べると直ぐに寝入ってしまい、俺も早々と自室に引き上げた。眠りに落ちる前にしなければならないことがある。

 ワンコールで長門が携帯に出た。長門相手に前置きは不要だ。

「古泉と話し合ったんだが、お前に判断できないことがあって、現時点の俺に判断してもらいたい……ちがうか?」

「…………」

「俺に知っていることを話してくれ。俺だって必要なことを知らないと判断できない」

「明日」

「え?」

「明日、朝比奈みくると同席の上、話す。今日のことも」

 携帯は切れた。まったく長門らしくない。


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