第7話 悲鳴

 上流からの叫び声で、一瞬身がすくんだ。

 女の大音声だいおんじょうでパブロフ犬状態になるのはあいつのせいだが、この声はハルヒじゃない。

 さっきまで川辺で遊んでいた小さな子供が流されている。追う法被姿のおっさん連中の動きがいかにもトロい。そんなんじゃ間に合わないって。

 古泉は即座に走り出した。一瞬おくれて俺もだ。先をいく古泉は川砂利の岸辺を難なく大きなスライドで疾走しっそうしている。こいつこんなに足が速かったっけ。

 俺と古泉は川と平行に流れてゆく子供を追いかけた。考えることは同じだ。上流から流れてくる子供を少し下流でキャッチするのだ。

 先に川に入った古泉がすぐに肩まで沈んだ。澪筋みおすじにはまり込んだらしい。

「古泉!」

 俺は古泉の一方の手を掴んだ。こっちもヘソのあたりまで浸かっている。古泉の左手が子供を捕まえ、俺も引っ張られてさらに深みにはまった。そのまま二人して明日の朝刊に載るのが間違いないと思えたその刹那せつな、馬鹿力が俺の腕をねじり上げた。

「もっと力だしなさいよっ!」

 言われなくてもやってる。つーか腕を変な方向にねじるのはやめろ。

 ハルヒの後ろには長門が岸に立ったままハルヒの腕をつかんで微動だにしない。アンカーを長門がつとめる綱引き状態で、岸辺に子供と古泉を引き上げた。その馬力の大部分はハルヒと長門のような気がする。

 幼稚園くらいの男の子は岸に着いたとたん、泣きじゃくり始めた。人工呼吸をする必要もない。俺はやり方を知らないし。

「水はそんなに飲んでいないようです」

 古泉は自分そっちのけで子供の容体を気にしている。こいつの献身的な態度はちょっとばかり鼻に付く。朝比奈さんと鶴谷さんもやってきた。朝比奈さんはポケットからハンカチを出して子供を拭いてやっている。

 駆け寄ってきた父親らしいおっさんに半泣きで礼を言われたが、叱る親の姿の姿を見ていてもしょうがない。ちゃんと監督しておけよな。愁嘆場しゅうたんばをみるのはごめんだぜ。

「古泉君、大丈夫? 水を飲んだりしなかった?」

 ハルヒの声にこもっているのは……思いやりか?

「いいえ、全然」

「古泉君がいなかったらあの子は今頃、おぼれてたわね」

 俺には訊かないのかよ。


 古泉と俺はよろけ気味にたき火まで戻った。水に浸った衣類がこんなに重いとは。

 ようやくたどり着いたはいいが、鍋の中で元カレーというかその残骸がくすぶっていた。鍋の底に焦げたサツマイモの塊が見える。結局イモは誰一人、口にすることなく残骸と化した。

 これは……俺のせいか? 


「キョン、火元からなべを下げるくらい頭が回らないの? ま、溺れてる子供を無視して鍋をかき回しているよりましだけど」

 ハルヒはあきらめと半分怒った目つきで腕組みのまま、俺と相対している。

「あたしとみくるで流木を集めてくるから、キョン君はもっと火をおこしてくれないかい? 古泉君の服を乾かさないとね」

 鶴谷さんがてきぱきと間を仕切ってくれて助かる。

「キョン、古泉君にあんたの上着をかしてあげなさい。ズボンまでとは言わないから。夕方になると風が冷たくなるし」

 俺はどうでもいいのか。

「あんたの上着はぬれてないでしょうが」


 さっきの子供の母親がやってきた。煙を出している鍋を間ににらみ合っている俺とハルヒを見て事態を察したのだろうか。

「先ほどは迷惑をかけてしまって。あの、これよかったらどうぞ。作りすぎたので」

 サンドイッチにフライドチキンとか子供が好きそうなものが詰めてある。ありがたくいただくことにした。

 朝比奈さんのおにぎりも美味かったが、差し入れのフライドチキンもなかなかだ。お手製らしい。これで家に着くまで腹は持ちそうだがまだ何か足りない。あとは朝比奈さんのお茶菓子を期待したいところだ。俺は食欲に逃避してんのかね。



「キョン」

「は?」

「は、じゃないわよ、あれを見なさいよ」

「ゴムボートのようですね」

 古泉も食べる手を休めて上流を眺めている。

 水面下の岩に妨げられながらも、ゆるゆると黄色いゴムボートが流れてくる。上流の岸辺にいた子供が川に近づいたが、父親がいきなり殴った。そりゃそうだ。あれだけのことがあったんだから。

「キョン、あのボートを確保しなさい」

「なんでだ」

「バレーにも飽きたし、ちょうどいいわ。食事を作りそこねた罪ほろぼしよ。取ってきなさい。持ち主がくるまであたしのものだわ」

 この女に所有権の説明をしても無駄なことはわかった。

「そのフライドチキン、食うんじゃないぜ。俺のだからな」

 さっきの古泉の真似をして、ちょうどいいタイミングでこけた。今日はいいとこなしだ。俺はこんな事をするために来たはずではないんだが。

 膝の痛みをこらえつつ浅瀬に立っていると、まるで吸い寄せられるように俺の前にゴムボートが流れてきた。

 ボートには何か布にくるめて乗せてある。

 

 ……赤ちゃんだった。

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