25-2
「え?」
その直後、俺の腹に重たい一撃が入った。
彼女の拳は、俺を簡単に立ち上がらせないように深く腹に食い込んでいる。
「あなたには死んで欲しくないの。だから許して……」
夢と愛情と現実が全身に行き渡り、視界が霞む。
疲労が蓄積しているためか息苦しさはなかなか納まってくれない。
声を出したくても、苦痛の音だけが漏れる。
(まさか、そんな)
オントのいる方向に悠然と歩いていく後姿に、手を伸ばす。
しかし彼女は、前を真っ直ぐ見つめたままゆっくりと遠ざかっていった。
(やめろ! やめるんだ!)
うずくまる男を一人残して、世界の拠り所が黒く塗り替えられていく。
苦しかった日も、楽しかった日も、全てが同じ色として、澱む。
(駄目だ! そんな結末は、絶対に駄目なんだ!)
マーマロッテが世界から否定される瞬間が、もうじき目に映り込む。
心が分かっていても、身体は未だ悶え続けていた。
(動け。動け。動け。動け。動いてくれ)
彼女の全身にアイテルが帯び、放たれる。
誰よりも優しく光る緑色が、枯れた大地に一輪の花を咲かせる。
(無理だ。それでは無理なんだ)
そして、新たな色彩が生まれた。
儚くも美しい『虹色』に輝く大輪が、彼女の澄んだ青空の下に、轟いた……
(……嘘、だろ?)
感じたことのないアイテルが放出されていた。
それは、強弱で例えられるようなものではなかった。
彼女の身体そのものがアイテルの化身として輝いている。
まるで、星の意思が彼女を通して姿を現しているみたいだった。
目の奥が焼かれるほどに激しい光。そして季節外れの温かい風。
大きな愛の込められたアイテルからは、懐かしい地球の匂いがした。
(これは、彼女の香りだ……)
しかしオントにアイテルは通じない。
どんなに強大なアイテルを纏っていたとしても、伝わらなければ意味がない。
身を守るだけなら安心して見ていられる、はずだが……
彼女のことだから、それだけでは終わらないだろう。
(動け! 近づけ! 早く、行け!)
自分の足を両手で引っ張って、地を這うように前進する。
役に立たなかったとしても、彼女の側から離れるわけにはいかない。
(行け! 行け! 行け!)
少し近づく。
両者の姿が、はっきりと見える。
燃えるような虹色と、そこにあるだけの黒い塊。
じっと目を合わせている。
オントがゆっくり手を持ち上げて、彼女に手招きした。
風だけが静かな音を立てる。
そして、彼女は飛び出した。
(無理だ)
やつに数発の拳を打ち込んだ彼女は効果がないことを知り、距離を置いた。
すかさずアイテルの放出を増やす。
その大きさは、彼女の身体の何倍にも膨れ上がった。
オントは警戒して身構える。
すると、彼女を包んだ虹色が一気に消えてなくなった。
(おい。おい!?)
マーマロッテの身体には、純白の衣が纏われていた。
アイテルが生み出したのであろうその衣は、彼女を優雅になびかせていた。
その姿はまるで、いにしえの時を越えてきた女神のようだった。
悲しみも喜びも超越したその微笑みは、透き通るように美しかった。
(彼女は、誰なんだ?)
オントが飛び込んだ。
どこまでも純真で誰よりも麗しい女性は、相手の攻撃を優しく受ける。
本来鳴り響くはずの打撃音は、全く聞こえない。
オントは、明らかに無意味な攻撃を諦めることなく続ける。
次第に相手の所作を把握していった女性は、最終的に相手のあらゆる動きを全て受け流し、攻撃が止まった瞬間を見定めてから、空中に飛んだ……
即座に反応するオント。
しかし女神は、両腕を地上に向けて左右に仰ぐ。
すると、強烈な音波が地をえぐり、
……オントは、いつの間にか消えていた。
音の振動が伝わる前にいなくなっていた。一瞬などという次元ではない。
それは単なる物質に屈するはずがないという宇宙の真理が体現されたような攻撃。
人間には、恐ろしすぎる光景だった。
「なんて、ことだ」
やっと声が出た。
身体の痛みは消えている。
オントを消した女性がアイテルを解く。
そこには『マーマロッテ』がいた。
知っている顔。
知っている身体。
忘れられない、笑顔。
俺は、重たい足を引きずって彼女のもとに行った。
「マーマロッテ、お前」
「意外にあっけなかったね」
「どういうことなんだ。なにがあったんだ」
「へへへ。ちょっと、ね」
「ちょっとね、じゃ、分かんねえよ。説明してくれ」
「見てのとおりだよ。強くなったんだ」
「それにしたって、おかしすぎるだろ……」
彼女は微笑みながら大粒の涙をぼろぼろと流していた。
その表情を崩すまいと、必死に目を細めている。
次第に感情が抑えられなくなってきて、呼吸が乱れてくる。
限界を迎えた時、彼女は一気に泣き顔となった。
俺は、その顔を自分の胸で隠した。
「ごめんねメイル。ごめんね」
「大丈夫だ。もうなにも考えるな」
「そうじゃないよ。違うんだよ」
「いいんだ。お前が無事でいてくれたら、理屈なんて、どうでもいいんだよ!」
「メイル、……メイルぅ」
「どうする、まだここにいるか?」
「うん。でもその前に、教えて欲しいことがあるの……」
「なんだ?」
「私のこと、忘れないでくれる?」
「ああ。当然だろ。ずっと忘れないよ」
「よかった。その言葉が聞きたかったんだ」
「おい、なんだか変だぞ。また気分が悪くなったか?」
「ううん。元気だよ。私は平気」
「そうか。ならいいんだ」
「……うん。それでね、メイル」
綺麗な瞳をしていた。
下から覗きこんでくる大きな目は、今まで見てきた中で一番透き通っている。
誰よりも愛おしい瞳。
人として生き、人として死にゆく者の激情と諦めの気持ちが映し出された、マーマロッテの大きくて澄んだ瞳……
「私、オントのところに行ってくる」
「一人で行くのか?」
「うん」
「ルウスのほうの準備がまだ終わっていないよ」
「大丈夫。たぶん行けるから」
「一緒には、行けないのか?」
「ちょっと、自信ないかな」
「そうか。分かったよ。じゃあ俺からも一つだけ言わせてくれ」
「……」
心の声。
魂の叫びが、喉元から、漏れる。
「行くな! ずっと側にいてくれ!」
「それは、無理なお願いかな」
「頼む! お前だけは失いたくないんだ!」
「もう、動き出しちゃったんだ。駄目なんだよ」
「なにが駄目なんだ! 説明してくれ!」
「……ごめんね。私そろそろ行かなくちゃ」
「マーマロッテ! 俺は……」
「メイル……」
小さな手が虹色のアイテルを生み出し、こちらに向けて放射する。
強烈な風を浴びて、遠くまで吹き飛ばされた。
かろうじて見える彼女の顔は今にも壊れてしまいそうで、その無限の時を越えた一つ限りの微笑みは、儚い世界の全体を見送っていた。
俺の知っている人は、もういない……
失う悲しみを負わずして離れていったマーマロッテは、遠い空に瞬く星々の一つとなって、去ってしまうのだ。
さよならも言わずに行こうとする人が、幻となって飛んでしまう。
季節外れの陽炎が、彼女の全身を揺らしていた。
「そんなこと、認めたくない!」
俺は走った。
初めて出会った頃に彼女からもらったかけがえのないものをもう一度取り戻せるなら、女々しい姿を晒すことになっても一向に構わなかった。
「マーマロッテ!! マーマロッテ!!」
彼女は既に飛び立とうとしていた。
虹色の光を風に揺らして、俺の目をずっと見つめながら、ただ孤独に……
『なにがあっても側にいるから。だから、寂しくなんかないよね?』
「お願いだ!! 行かないでくれ!! 俺を一人にしないでくれ!!」
ねえ、メイル
あなたのこと、これからもずっと大好きだからね
悔しさと悲しさでどうにかなりそうだった。
飛び去っていった後も、濡れた地面を何度も何度も何度も叩きつけて、感情の全てを拳に滲ませた。
結局自分は最後までなにもできなかった。
死ぬ思いで戦い抜こうと決めたのに、死ぬことすら叶わなかった。
あれだけたくさん交わしてきた約束も、なに一つとして果たすことができなかった。
守り続けることも、未来を歩んでいくことも、なにもかも……
「マーマロッテ、俺は、俺は!」
『……私の胸の中だったら、いつでも泣いたっていいんだよ。うんうん。大丈夫だから。私はずっとあなたの側にいるから』
「お前を、お前のことを!」
『……だったら! なんで一緒に行ってくれないの! 離れちゃうんだよ! それで平気なの? 私は無理だよ! 耐えられないよ! なによそれ、分かんないよ。 意味が分かんないよ。どうして将来なの? どうして今じゃないの? メイルには今の私を見て欲しいよ! ねえ、どうして? 未来のことなんてどうだっていいじゃない! あなたと明日を生きていられれば、私はなにもいらないんだよ!』
「誰よりも、どんなやつよりも!」
『……うん。私、あなたがいないと、本当に壊れちゃうんだからね。ずっと側にいてくれなきゃ、死んじゃうんだからね……』
「好き、だったんだよ!」
『……あのさ、メイル。私達、今日から生まれ変わろう。だからもう……』
「初めて会った時から、ずっと」
『……なにがあっても、離さないでね』
「分かってる。……分かってるんだ」
『……あ、それと
私っていつも一人で考えて突っ走っちゃうところがあるでしょ?
だからね、メイルにはそんな馬鹿をしそうになる私を見ていて欲しいんだ
「!」
うん。ありがとう。じゃあ、約束のしるしにもう一回、して……』
「!!」
まだだ!
まだやれることはある!
この身体がたとえ砕け散っても、あいつだけは一人にさせない。
最後にしてあげられるただ一つの願いは、なにがなんでも果たしてみせる。
我に返ると、全力のアイテルを放出して飛び出していた。
目指すはゾルトランス城。
そこに俺達の物語を続けるための希望が、今も残されているはずだった。
ものの数秒で捉えた城の正門前に急いで降りる。
するとそこには仮面をつけた人物が立っていた。
彼女は、俺が来ることを待っていたかのような佇まいでこちらを見ていた。
「久しぶりね」
「ルウスはいるか」
「地下の倉庫にいるわ」
「案内してくれ!」
「ええ。いいわよ」
「助かる。急いでいたんだ」
「でもその前に、私に五分だけ時間を頂戴」
「すまない。今は五分でも惜しい状況なんだ。あとにしてくれるか」
「とても、大事な話なの」
「俺だってそうなんだ。頼むよ」
「あなたがどういう状況なのかは知っている。だから、どうしても話しておかなくてはならないの。これからのあなたと、あの子のことを……」
「レイン、なぜあんたが」
「時間が惜しいのでしょ? 私だってそうなの。お願い、早くついてきて!」
正門をくぐった直後、不意に空の様子が気になって振り返った。
広大な水色の景色の向こうに、可憐に輝く小さな一番星が、揺れる。
食い入るように見ていると、それはいつしか二人の未来を結ぶ最後の流れ星となって、静かなる虚空へとゆっくり吸い込まれていった。
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