2月6日 好きになる資格


 僕にはやらなければならないのにやっていないことが少なくとも二つある。一つは出かけることだ。特にこの雑記に書き連ねる事柄は出かけなければ出てこない。十一月から一月の終わりまでの約三ヵ月弱、僕は本当に本当に薄くて味も匂いもしない日々の波間を行ったり来たりしてただ漂っていた。何も書くことがなかった。出かけて、外の匂いとか、光の加減とか、道行く人の歩き方とか、表情とか、雪の積もり具合とか、そういうものを見て感じて暇をしてぼんやりと考えるときに、僕はこの雑記に書くことを思いつく。


 もう一つは、本を読むことだ。本を読んでたっぷりと活字の美しさに触れないと、僕は自分で少しはましに思える文章も書くことができない。本を読んで触発されて文を書く、の繰り返しな気がする。しばらく本を読んでいないとただでさえ不憫なセンスで綴られる文字が更に残念なことになってしまうので、定期的に好きな作家の本を読みたいと思っているのに、なぜか、あまり読めない。


 けれども今日ようやく積んでいた本通称「積読」をひとつ消化することができて大変嬉しい。今日読んだ本は吉本ばななの『キッチン』。これを書いたとき吉本ばななは僕と同じ23歳だった。

 長々と『キッチン』の感想を500字ほど綴ったところで僕の感性と文章力の至らなさにうち当たったので、素直に全然別な、いつもの自分語りをしようと思う。




 何かを好きな自分が好きだった。大きく分けてそこには二つの理由があるのだと思う。

 一つは自分の観察眼に酔いしれていたのだろうということだ。誰かがあまり良くないと言ったものを自分は良いと思ったとき、自分の特別性や、時には優位性すら感じて、僕はそれに満足していたのかもしれない、ということだ。これは憶測にすぎないけれど、僕の性格から鑑みるに十分にあり得ると思う。5・60%くらい。

 二つ目に、僕は誰かが何かを好きになっているところが、きっと好きだったのだ。誰かが何かを好きでいること、その情熱やエネルギー、そして愛情、混じりっ気や嘘のない透明さが、僕を惹きつけていた、と思う。自信はない。何故なら自分を良い人そうに言っているからで、僕がこういう自己弁明をしているときは嘘っぽい気がしてならない。とかく精一杯自分に優しく言うなら、僕は何かを好きな人が好きで、魅力的だと思っていて、自分も何かを好きでいるときは他人にそう見えているのだろうと、きっと心のどこかで思っていたのだろうと、そういう予測だ。小さい頃の話だ。そういう積み重ねで、今の僕ができてきたんじゃなかろうかという、意味があるのかないのかわからないただの妄想だ。


 とはいえ、今も、僕は恥ずかしながら、何かを好きになっている自分が大好きだ。自己陶酔している。いつも。とりわけやはりものよりも、人を好きになっているときだ。人を好きになっている人は人から好かれやすいだろうので、当然とも言えるかもしれない。誰だってつれない人よりも人懐っこい人に親しみやすさを感じるものだ。人を好きになっているとき、もしかしたら僕は自分に一番魅力を感じられたのかもしれないし、自信がついていたのかもしれない。



 そんな前置きを置いておいて、本題に入りたい。

 僕の今のところ最後の恋愛は片想いで、歪んだ形で一方的に重い思いをぶつけて、二十数年の人生で一度も見たこともないような複雑な表情をされて断られたあとに逃げるように立ち去られてしまい終わることとなった。その後からはますます自己肯定感を無くし、自分が人に好かれるわけないのだから人が見せている笑顔や厚意は社会で生きていく人間としての社交スキルの一部か「こんな人間にも善く接することができる自分への自己満足感」を満たすための手段に過ぎない面が30%くらいあるだろうと思っていた元々の僕の悲惨な人間観というか自己観念をさらに歪めて、僕が例え誰かを好きになっても気持ち悪いストーカーや変質者となんら変わりないのだという歪んだ自己防衛のための自虐をまた一つ増やすことになるのだけれど、それはまた別な話として。


 とどのつまり僕はその人のことが好きな自分が好きだったのだ。その人の前で居ると少しだけ自信が持てる気がした。告白できてしまうくらいには。それはその人のことが好きな自分に僕が自己陶酔していたからだ。いつでも自分の人生のすべてを投げうっても良いと思える(厳密に言えば僕ほど自分を愛してやまない人間は他に知らないので、そんなものは嘘っぱちの倒錯にすぎないけれど本人は割と本気でそう思っている)人が居ることに安心感と幸福感を得て、しかもそんな自分に酔ってしまえるからだ。

 僕は相手を自分のために利用していたに過ぎない。相手のことなんてこれっぽっちも好きではなかったんだ。なんて思うとあまりにも救いがない。僕だって少しは相手のことが好きだったと思いたい。でも誰がそれを断定することができるだろう。決めることができるだろう。空気中の凝固点を測定して空気の湿度を測るみたいに、あなたは何%相手のことが好きでした、なんて誰も出すことはできない。

 結局、自分に酔っていただけで相手のことなんか好きではなかった、みたいに自分を否定し出すと切りがなくていくらでもできてしまい救いがゼロになる。けれども自分を全て肯定しようとすると、倒錯した歪んだ自己愛を人にぶつけて結果として僕の例の最後の相手のように酷く傷つけて何年もの関係を思い出ごとぶち壊して台無しにしてしまうかもしれない。僕に自己否定によるブレーキはやはり少しは必要なように思える。



 そんな僕が普段他人にも自分にもとっているスタンスが「自分が好きでいいじゃない」というもので、資本主義社会において企業が自己利潤の追求を至上目標にすることで社会全体が潤うという基本理念に成り立っているように、人間も自己幸福の実現を至上目標にし合い一定のルールの上でなるべく人の邪魔をせずにそこに向かって突き進んでいくことを悪いとはできないだろうという考え方だ。カップルだって、自分は自分が一番好き、あなたは二番目、で良いと思う。ただこれは資本主義社会においてもいくつものルールがあってそれを破るとご破算になるように、人間関係にも基本的に人を不幸にする者は自分も不幸になるというルールがあって、いっときの我慢や思いやりを欠くとやはり自分の幸福がどこかでご破算になるという難しさの上に成り立っている話だけれども。

 だから僕が誰かのことが好きな自分が好きだから付き合ってくれと人に言いその人を利用するのは悪いことではないと思う。完全な利他奉仕のために人と付き合えというのか。君のために死にたい! それですらエゴだ。結局人間何をつきつめてもエゴにぶち当たってしまうので、寧ろ自己満足は美しい方だと思う。君に親切にしてる自分が好きだから君に親切にするんだよ。で良いと思う。君の笑顔が好きだから、とか迂闊に言うと相手も親切にされたらその都度笑わなきゃというごくごくうっすらとしたプレッシャーが生まれて、それが大体三年くらい積もると山になる。だからお互いにお互いを利用し合って、損が得を上回れば離れれば良い。恋人関係もそういうルールが一番上手くいくと思う。



 けれど少し前までの自分は、それこそ三年前くらいまでは全然そんな風に思っていなかった。打算で人付き合いするのが何よりも嫌いだった。嘘や建前も嫌いだった。代わりに何を重視したかと言えば心の動きだった。その場で何を感じたか、相手に何を感じさせたか、そういうことが重要だった。とても幼かったように思う。そして浪人して心の成長が一歩遅れた僕を置いて先に大人になった彼女はそんな幼い僕に散々傷つけられてぼろぼろになって、僕もそんな彼女に傷つけられてずたずたになって、最後は別れを悲しいとも思ってもらえもしないような、擦り切れたお別れをした。


 真実の愛だとか物語に出てくるような恋愛を信じていた。けれども悲惨な破局の末に見えたのは、結局彼女よりも自分のことが好きだったから彼女のことが大切にできなかった自分で、今ではさっき言ったみたいな「利用しあう関係」の方が健全で信頼できると言い出すようになった。そういうことにすこし悲しさとか寂しさを感じる気もするけれど、それすらも良い人ぶっているようで嘘くさくて、偽善者ぶっている気しかしなくてうんざり嫌気がさしてしまう。


 何かや誰か好きになるということは僕にはとても難しい。歪んだ自己愛と必ずぶつかってしまうからだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る