11月6日 別れ際に振り返るかどうか

 

 すごくどうでも良い話をする。

 昔のまだおおよそ良い意味で子供っぽい心があった頃の僕は別れというものが得意ではなく、友達と一緒に学校から帰ったりするといつも遠回りになるのに友達の家の前まで言ってずっと話し込んだりするような子どもだった。色々な疲れや事情や時間の使い方やプライバシー、人にはこれ以上踏み込んでほしくないライン等々の現実とも言える何かを十分に知った現在となっては去りゆくものを引き留めるなど到底できるはずもなく自らもそれほど抵抗なくその場を後にしたりすることができるようになり、ともすれば面倒な場所からは誰よりも早く恥もかき捨てそそくさと立ち去るような人間になってしまったことを思うと反動とも言えるのかもしれない。

 ともあれ振り返ってみれば相手にしたって自分の家を前にして早く帰宅して読書なりゲームなり自分のしたいことをしたかっただろうにそれでも大体の友人は僕のわがままに付き合ってくれたところを見ると、それも子供ならではとも言えるだろうけれど、当時の僕がそこそこ人に好かれていたのだろうということも少なからず否定はできまい。そう思うと誇らしいような、現在を振り返って残念なような微妙な気持ちになる。


 とかくそこから紆余曲折を経て捻くれて成長した僕は現在をして別れは好きだなんて宣うようになってしまったわけだけれども、別れが得意かと言われればそんなことはない。もし僕が何かの事故や急病で突然死んだら普段懇意にしてもらっている人にはそれがまったく伝わらずにそのまま僕が消えていくのだろうと思うと寂しいし、逆に誰かが死んだとしてそれが自分に伝わることもないということを考えるとやはり寂しい。一日の終わりに通話の部屋を出ていくだけにしてもなんとなく嫌でいつも設定をミュートにしてデスクを離れるくらいには僕の未練がましく煮え切らない性質は変わっていない。


 突然だけれどどうでも良い長い前置きは置いておいて、いよいよ本題に入りたい。

 僕は人と別れるときに、大体振り返ってしまうし、僕が見送る側だったときは姿が遠くなるまで見送ってしまう。僕ほど振り返る人間が他に居るだろうかってくらい振り返る。恐らく僕が幼少のみぎりから人によく愛されよく見送ってもらっていたのだと思う。だから人の前から去るときにもし自分が背中を見送られていたとしたら、それに気づかぬまま通り過ぎていくのはあまりにも寂しいので自分が見えなくなる直前に振り返ってもう一度手を振りたいと思う。逆に見送るときは相手がもう一度振り返ってほしいなという気持ちをわがままと知っていながら抑え切れないまま背中を見送っている。振り返らなくても良い。けれど振り返らなかった人はその時何を思っていたのだろうかと、いつも思いを巡らせる。


 この文章で度々話題に出されている友人A(心から申し訳ないが僕が現実世界で交友のある人間はAしか居ないためご了承いただきたい)は、一度も振り返ったことがない。ただの一度もだ。僕の流儀でその原因を考えると、早くその場を去りたい、別れたいと思っているのだろうということになる。僕が別れ際に振り返らない時はそう思っている時か、相手が親しくなく便宜的に、儀礼的に表面上体面良く他人行儀で振る舞うような相手(職場の先輩など)の時くらいだからだ。

 それか穿った見方をすれば、僕はこの文章を綴っている最中で自分でも初めて発見したのだけれど、僕自身が“愛情表現”だと思っていた別れ際に見送る・振り向くという動作を彼女が知らないのかもしれない。彼女は小さいころからあまり友人や家族に見送られなかったので、人が愛情表現にそうするという発想がそもそもないということだ(もちろん見送る・振り返るというのが愛情表現の一環であるという説は僕の中だけでの話であり一般的に人間がそうするという仮定に基づく話ではないけれど)。それか僕が親しくないと感じている人間に振り返ったり見送ったりすることによって相手にある種の負担をかけまいとする、寧ろ振り返ったり見送ったりする方が迷惑をかけ失礼にあたるのではないだろうかという「振り返らない方が無難」である感覚を、いつも持っているのだろうか。自己肯定感があまり持てない人ならそう言うことも大いにあると思う。それから振り返って相手がもう居なかったときに寂しくなるのが嫌だ、とかだったらかわいいと思う。



 次にAに会うことがあったらいつも別れる札幌駅の改札で言ってみたい。「ちょっとした実験をしてみたいんだけど、付き合ってくれない?」僕はAに改札を出た後一度振り返ってこちらを見て欲しいと言う。きっとAはどうしてですかと聞き返すが僕はなんとなくとか言って下手なはぐらかし方をする。そして振り返ったAに僕が手を振って、Aがどう反応するかを見る。手を振り返すかもしれないし、お辞儀をするかもしれないし、何もしないかもしれない。それから後日会った時にもう一度聞いてみたい。その時、振り返ってリアクションをとることを面倒くさく感じたか、嬉しく感じたか、いつまでも自分の背中を見ている男を気色悪く感じたか、きっとAは優しいので悪い方面に感じていたとしたら素直には答えてくれないだろうから、実験は上手くいかないだろう。でも願わくばそれでAが人に見送られたり振り返って手を振ったりすることを幸せだと感じるようになってくれれば嬉しいと思う。それくらいには僕は別れ際に振り返るのが好きなようだ。


 もっとも僕とAが会うことも、ましてや偶然かやむを得ず会うことが会ったとしても、見送ったり見送られたりするような別れ方はもうしないのだけれど。






 蛇足だけれども、このように妄執をするような好意を僕は好意とは呼べないような気がしている。「僕がAに好意を持っている」と字面にするだけでも失礼で気持ち悪く社会から非難される罪悪であるような気しかしない上に、僕自身も自分の持つ好意とかいうものがストーカーじみて自身の妄想に侵された罰されるべき不健全なものでしかないような気がしている。この先自分が誰を好きになったとしてもそうした感覚はきっと抜けることはないのだろうということが、僕の小さな絶望のひとつになっている。


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