8月18日 8月7日について
更新が滞っていたのは、あまり書きたくなかったからだ。
八月七日、僕は自殺未遂者になった。
どう書けばいいのか、どう話せばいいのか、未だにわからない。僕が何を思って何を望んで行動したのかを僕自身が忘れてしまったのか、何も考えていなかったのか、誰かに上手に説明することが今でも難しい。
八月七日は普通の日だった。確か昼間に目覚めた。いつも通り食事をとるのを面倒がって何も食べずに居た。その日はいつものチャットルームに昼からたくさん人が居たので、いつも通りのメンバーと普通にお喋りをしながらゲームをしていた。
直前の八月三日に僕が「敗北」してから、僕は何かとネガティブだったような気がする。何回か首も吊ろうとした。首を吊ると意識を失う直前に脳が痺れる、締め付けられるような感覚がするらしいのだが、「あ、こういうことなんだな」という実感を得るまでには至った。あと数秒続けたら死ぬんだろうなという予感がするところまでは、体感した。そういう中途半端な自棄的なことを度々やりながら、自殺の方法とかをまとめたウェブサイトを眺めたりしていた四日間だったと思う。
自殺の方法をまとめたサイトに、急性アルコール中毒は載っていなかったけれども僕は調べた。中で一番現実的だったのが、一時間に日本酒を一八〇〇ミリリットル飲むというものだった。血中アルコール濃度が限界を越し脳機能が生命機能を維持できないレベルまで低下して死ぬ。当時の僕は何を思っていたのか、それを試してみることにした。
がぶがぶ飲んだ。不思議と吐きそうにはならなかった。いつもの仲間とゲームをしながら飲んでいたからか、とても楽しかった。気分が際限なく高揚して気持ちよかった。体制を整えるために足を少し伸ばしたときの感触で、もう上手に歩けないほど酔っているとわかった。デスクトップの画面の右から左へ視線を移すとき、眼球の筋肉運動に支障が出ていることに気付いた。その全てが心地よかった。大声を出して笑った。訳が分からないほど人を褒めた。大分あとの祭りだったと思うがそれでも自分が酔っては人に恥を晒す性分であることはわかっていたのか、僕は一区切りついたところで通話から抜けたらしい。らしいというのは、ここははっきり自信を持って言えることなのだが、覚えていないから明言できないだけだ。あとから人に聞くには、少し横になるといって抜けていったらしい。
次の瞬間には僕は家の洗面所で母に何かされていた。何をされていたのかはわからない。あとから確かめてわかったのはアイスノンでどこかを冷やされていたらしいということと、吐瀉物の始末をされていたらしいということだけだ。どうして洗面所に居たのかはわからない。僕はまともに階段を降りることができたらしいということに少し感動すら覚える。階段を下りて正面にある和室の障子を破らないように気を付けなくてはと思った記憶だけ何故か残っているので、僕が階段を降りたらしいということは憶えている。けれど何故僕が下の階に移動したのかはまったくわからない。何か飲みたかったのだろうか。しかしておそらく僕の目論見は完遂されることなく何故か道半ばですらない洗面所で力尽きたのだろう。
どんな気分だったのか、体調だったのか、もう覚えていない。意識は朦朧としていたのか? 気持ち悪くて死にそうだったのか? それすらもわからない。母が居ることにひどく安心したような気がする。手を握ってくれと言って、握ってもらった。僕はひどく息を荒げていて、二文字三文字くらいで途切れ途切れに声を発していた。僕が覚えているのは、手を握っていて欲しいと言ったことと、救急車を呼んでくれと言ったことと、友達が心配だと言ったことだけだ。僕が当時発していたような言葉こそがうわごとというものなのかもしれない。
救急隊員が到着して、僕は上体を起こされ(おそらく汗で)びしょびしょに塗れていたシャツをティーシャツに着替えさせられてから、担架に乗せられて救急車に運ばれた。途中で隣の隣の家に住んでいる僕がよくお世話になった年配の女性の方が僕を心配そうに見ている様子がわかった(書き忘れていたが視覚的記憶もかなり断片的にしかなく、ほとんど目を開けることができていなかったような気がする)。救急車の中では救急隊員の名前を聞いたり、手を握ってもらったり、あと何分で病院まで着くのか聞いたりした。目も開けようと思えば開けられるようになり、比較的落ち着いていたような気がする。しかし悪い意味でも余裕を取り戻したのか、母を相手に色々な事を喚き散らすように叫んでいたような気もする。今思い出そうとしてみても、僕が救急車から降ろされて病院のERに運ばれているときの記憶がなく、「他の病人さんも居ますから」と僕が叫びたてるのを静止しようとした病院の人の一言しか覚えていないし、その言葉を言われたとき自分が病院だったのか救急車の中だったのか(状況的に考えれば病院の中以外ではありえないのだが)僕にはわかっていなかったし記憶にもなかった。
ふたたび意識を失ったのか、あるときにふと覚醒したのか、僕は病室で目覚めた。完全に普段通りに喋ることができるようになっていて、意識もはっきりしていた。下半身がやけに濡れていて少し肌寒く感じたり、左腕の内側に刺された点滴の針が少し痛く感じたりした。隣には母が座っていた。
少し母と話して、トイレに行きたいと言うと看護師さんが来てくれて胸のパッチを剥がされた僕はそこで初めてそんなものが自分の胸に貼ってあったことを知った。母が言うには心電図的なものらしかった。
その後の僕は完全に普段通りどころか安心感からか妙に余裕があって、何事もなかったような顔をして母と話をしていた。生理食塩水五〇〇ミリリットルが点滴され終わったあとも少し休みたいからといって病室に居た。何を話していたのかはあまり覚えていないけれど、母と話していることがひどく心地よかった気がする。
病院の人と話をして点滴の針を抜いてもらうなどして、自販機でスポーツドリンクを買ってちびちび飲みながら母が手続きを済ませるのを待って、それから病院前に待機しているタクシーに乗って家に帰った。あたりは真っ暗になっていて、そこで初めて今は何時なのだろうかと疑問になって確かめたところ、午後九時を回ったあたりだった。僕がお酒を飲んでいたときは一時間に一八〇〇ミリリットルというノルマがあって時間を計っていたので覚えているが、僕が最終リミットにしていた時間は午後四時十五分だったので、僕は五時間くらい記憶を失ったりなんだりしていたらしく、五時間もかと驚いた。そもそも母が四時に仕事を終えて帰って来ることはほぼなく遅いときは仕事が長引いたり買い物をしてから帰ったりするため六時半や七時まで帰ってこないこともある中、母は何時ごろに家に帰り僕を見つけたのだろう。僕が救急車に乗せられたときはまだ明るかった気がするけれど、僕が救急車に乗せられてからERで目覚めるまでにかかった時間は体感で二時間もあるとは思えない。いったいどの段階で何時間の時間を過ごしていたのだろう。
ひどくびしょ濡れの下半身が気がかりだったし夜風が冷たかったので僕は落ち着かず、早く家に着きたい気持ちが強かった、母からタオルを借りて尻の下に敷いてタクシーに乗った。病院は家から割と遠かった。落ち着いたことでかえってそうなったのか、体調の悪さも気にかかるようになっていた。
思いのほか早く家には着いて、僕はズボンとパンツを着替えてからはしこたまスポーツドリンクをがぶがぶ飲みながら居間のソファでぐったりした。録画していたドラマを流したが、気持ち悪さでほぼ見れなかった。目を開けているのもしんどくて、意識もあるのかないのかといった感じだった。その間に東京に出張に出ていた父が家に帰ったようで、僕が午後十一時過ぎに目覚めたときは父と母がダイニングのテーブルに座り僕の話をしていた。起きようか起きまいかまどろみながら、なんとなく起きたら気まずいような気がして意識が戻ってからもしばらくぐったりしていた。
その夜は自分の部屋ではなく和室に布団を敷いて寝た。部屋に居ると僕がまた何かするのではという不安が家族にはあっただろうし、僕も部屋に戻りたくなかった。ズボンを着替えに部屋にはいったとき、飲みかけの酒が入ったグラスと酒の紙パックがそのまま机の上に残っていて、においや、いつも通り雑然とした部屋の様子が、かなり気持ち悪く感じられて、あの部屋で寝るなんて考えられなかった。結局いつもと違う環境だからか、九時から十一時まで気を失うように眠っていたからか、元々生活リズムが夜型になっていたからか、その夜は眠ることもできずずっとスマートフォンをいじりながら夜を明かした。
その後のことやそのことが僕にもたらした変化については、疲れたので後日綴ろうと思う。
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