8月5日 「許し」はどこに


 キャラクターを演じたくなる、ということは誰にでもあると思う。昔友達と――奇しくも最近僕が話題に上げている自殺をしようとしている友達だが、その人と話したことがある。軽く悩みを吐露して愚痴りたいだけだったとしても、聞き手があまりにも真剣に向き合ってくれるので、こちらも深く悩んでいるような様子をしてしまいそれに疲れてしまうのだ、ということ。僕に言わせれば、聞いてる側が笑って看過したくないと思うような内容の深刻さと雰囲気のマジさがあったのだろうと想像できるから、僕はどちらかとつい真剣に聞いてしまう方に同情したくなってしまうのだけれど、話の趣旨は私が悩み話とかしてるときは笑って適当に聞き流してほしい、ということだった。

 僕が一番人生に躓いて悩んで色々な人に話を聞いてもらっていた頃、その友人が僕にしてくれた対応が僕にとって一番心が救われたので、僕が人の悩みを聞くときはいつもその友達を見本にしている。その友達の話を聞くときは特に本人の希望に沿うように「重く受け止め軽く投げ返す」を心がけている(このフレーズ自体は他の人の受け売りだ)。けれどもまあ心がけてはいるつもりでも実践はできていないようで、やっぱり話を聞いているときが顔が真剣すぎてダメらしく、難しいものだと思う。申し訳ない限りだが僕はそもそも人と交友が極端に少なくましてや悩みや愚痴を吐露される機会などほとんどないので許してほしい。

 そんな前置きを置いて話したいのはやっぱり言い訳で、僕は言い訳が大好きだなあと思うけれどもそれは置いておくとして、本題は僕もこのエッセイもどきに暗い話を書きすぎたのでなんだかそういう話しか書いてはいけないのではみたいな気分になってきたということだ。まだ一週間も経ってないのに。なんだかよろしくない。すごい明るい話とか書いたら、なんだ元気じゃんとか思われて暗い話を書いたときにうーんって顔をされるような気がする。言ってしまえばただの自意識過剰なのだけれども。

 ただ人目を気にするというのはマナーの面もあって、例えば結婚式場にスーツを着ていくのは自分が恰好良く見られたいからではなくて、新郎新婦のための結婚式という場の雰囲気を壊さないためであり、完全な利他的行為だと僕は思う。自意識過剰かどうかは結局のところ自分のためにやっているか他人のためにやっているかなのかもしれない。

 しかし結婚式場の例えにしたって結婚式というイベントをそつなくこなした自分とか、結婚式場の場の雰囲気づくりの一端になれた自分とか、新郎新婦に祝福の言葉を送り幸せな気分を増してあげることができた自分への満足のためにスーツを着ていく、のだとも思う。結婚式のために少しだけ役に立った自分ってちょっと良くない? という自分への気持ち。

僕の中に完全な利他的行為というものはなくて、全て自分への自己満足に収束する。そしてその自己満足を悪とは思っていなくて、全ての人の全ての自己満足を許して肯定したい。特に誰にも気づかれないような、親切にした相手にもわからないような親切で生まれるような孤独な自己肯定感であればあるほど、僕は褒め称えたい。他人のためと思わないで他人に行動しなければ、少なくとも僕は、不誠実になってしまう。お返しが欲しくなってしまうのだ。今日は奢るから次一緒にご飯を食べるときはそっちが奢ってね、では僕はダメなのだ。今日は奢った。そのことは今日のうちに忘れる。そして一日の最後に、今日の二人の幸せなひと時の為に少しも嫌と思わずお金を出せた自分の気持ちに自分で酔いしれて満足して眠るのだ。それが一番美しいと思っている。もちろんこれは会計を自分が出したということに関してだけで、それは幸せなひと時を過ごしたという大きな出来事のごくごく一面でしかなくて、もっと大きな幸せを噛みしめながら眠るときの漠然とした思考の一端の末端の話であることは強調させてもらいたい。

「人にこれだけ尽くしたのに、相手は自分に尽くしてくれないような気がする。自分はきっと好かれてはいなくて、自分が尽くしているような気になっているのも実は迷惑だろう」という経験から、加えてそれでもその相手と離れがたくて相手の愛を試すようなことをお互いがボロボロになるまでし続けてしまったことから、そう思うようになった。自分は結局自分が一番かわいい。相手も自分が一番大事。それは自己中心的でも自意識過剰でもなくてごくごく当たり前のことで、汚いことでもやましいことでもなくて、人から認められて然るべきこの世の真理で、誰からも否定されてはいけない。「人のため」なんて行動はひとつも無くて、あるとしても僕にとっては「人のためになってる僕って良い奴じゃない?」と自分を褒めて満足するための行為であって、見返りを求めてはいけない。実際の世界のルールがどうなのかは知らないけれども、僕はそういう「自分ルール」を自分に課して生きている。恥ずかしい言葉を使えば僕の人生観とか哲学ということになる。本当に恥ずかしいけれども。この僕の話を聞いた人が自分はこう思うよ、というのがあったら、是非聞いてみたい。

 ただあまり徹底してこれを意識すると人への親切というものがこの世からゼロになり誰も自分には親切にせず誰も人に親切にできないという愛のない地獄のような修羅と世界が化してしまうので、お薦めできない。そう思うとやはり許しが欲しくなって、自己満足のために困ったり辛い気持ちを持っている人の弱みにつけこんで、助けて自己満足に浸る自分を許してくださいという気分になって、言い訳が増える。だから僕は言い訳が好きなのだと思う。

 のだけれども、今回はどうなんだろう。僕のこのエッセイもどきが人から見てダメなのではという気分のことだ。人目を気にするのは自意識過剰? 与える行為ではなくて自分の満足感を突き詰めるための感覚? 僕はそれを肯定すべき? 僕の書き物の質が悪いことで僕が人間的失望を勝ち得てしまうというのは少しショックだし、多分誰もそれを僕にフィードバックしないから僕は一生気付かないだろう。そう考えるとなんだか少し残念だ。けれども今回はとりあえず先送りにして、その日書きたいと思ったことを少なくともひと月分くらいは書こうかなと思う。正直人のエッセイなんて多くても最初の一週間を読んでつまらなかったらもう読まないと思うけれども。

僕は人目を気にする自分って自意識過剰でカッコ悪いとか、単に外見を整えることが面倒くさいと思ったり、そもそも整える力がなかったり、自分では満足するレベルで整えたのにそれでも誰かに否定されてしまったらショックが大きいからとか、そういう理由で人の目線を考えて見た目や振る舞いを取り繕ったりするのは苦手だ。というか得意な人はそう居ないとは思う。大手のライターが「最近は寝間着姿でありのままの自分を見て、というような人が多すぎて、ありのままという言葉を都合よく勘違いしている」という旨の言葉を言っていたので(僕がそう感じ取っただけで本人の意図とは異なる場合がございます、ご留意ください)、もしかしたら僕の世代の人は皆僕と似たように思っているのかもしれないけれど。


 話は変わるけれども、そろそろ小説をひとつ書きたいと思っている。四百字詰め原稿用紙で八十枚から百枚くらいで、できればどこかの小説投稿サイトや出版社の応募にもかけるような、真剣なものをつくりたい。僕は小説というか文章を書くのが下手で、しかも文章にしてまで表出すような価値のある思想やストーリーを思い描く脳みその中身もないけれど、僕の憧れみたいなものを全て詰め込みたい。僕の考える面白いとか美しいとか、そういうものの集合体を僕は自分で見てみたいし、それを人に見てもらって評価してもらってみたい。それが今の僕が一番やりたいと感じることだと、ふと最近思えた。

 僕はいつも何をするにしても一要素でこれをしたい、これを使いたい、という風にしてスタートして全体像がまとまらないことの方が圧倒的に多くて、ほぼ全てそういうパターンになる。例えば「スイカの絵が描きたい」と思ったところでスイカは描けるけれども、そのスイカはキャンバスのどこにどれくらいのサイズで描かれるのか、画材はアクリル水彩か油絵の具か、色の彩度は、影の青みは、そういった緻密な計算と感覚と美意識の集合体としての一枚の「絵」が立派に仕上がったことがない。だから僕の描く絵はいつも「図」なのだ。けれども今回はいつもとは違って全体としてこういうものにしたいといイメージが少しずつできていて、肝心のストーリーの具体的なことはひとつも決まっていないという僕にしてはとても珍しい感じになっていて、これはもしかしたら今までにないくらい自分でも満足できるものが作れるのではないかと少しだけ期待してしまう。まぁ、僕が期待をするときは、人にしろ催しにしろ自分の作品にしろ、大抵良い結果になったことはないけれど。

 どんな小説にしたいか言葉にしてここに雑多に書き連ねて決意表明としたい気持ちはあるけれども、やめておく。それだけで満足してしまうことが、僕には多々あるからだ。

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