8月3日 歪んだエゴ


 僕は明日、日付的には今日、ひとつの挑戦をするつもりだ。自分ひとりで勝手に決めたことだ。本当は話し合って決めなければいけないんだろうけれど、そうすることもできないので仕方ない。受験みたいに自分で選んだとは言え社会的にあるいは事実上強制されたコースへ向かって行く「自分で決めた」でもない。これは本当に僕が一人で勝手に考えて勝手に決めたことだ。

自殺する友達を説得する。

自分のこととはあまり話したがらない人だ。プライドが高く優しくて繊細な人だ。女性である。僕とは高校生のときから七年来の付き合いになる。彼女は先月の下旬、自殺しようとして失敗した。僕といつもは一緒に下校する大学のゼミの帰り道、僕が睡眠障害にかこつけて出席をさぼった日の帰り、本当は寄るはずのない帰路で登下校にはあまりに不似合いなロープを鞄に忍ばせ、彼女は真っ暗闇の山の中で首を吊ろうとした。

「あまり大袈裟にとらないで、軽い気持ちで聞いてくださいね」

「こういうのって本人の意志は別に専門機関へ相談してくださいとかって言いますけど、そういうのは抜きでお願いします」

 そんな前置きを置いて、僕に教えてくれた。自殺しようとしてできなかったこと、意訳すれば、死にたいほど辛いことがあること。

 試しに首を吊ろうとしたことがあるみたいな話はその一月前くらいに聞いたことがあった。首吊りは苦しくない、致死率が高い、そしてシミュレーションができるという三点からもっとも優れた自殺と言われる。言うなればそのシミュレーション。僕も「気管を締めず頸動脈(厳密には異なり、頸動脈洞とか椎骨動脈とかあるけれども)を締めれば苦しまずに意識を失いそのまま絶命できる」というのはいかほどかと、いざ時分が死ぬときのために確かめる気分で首にビニールテープを巻いて結び方や長さを調節したり場所を変えたりしたことがあったので、彼女の話を最初に聞いたときはそういうものかと思った。(余談だが僕のときは何度やっても結局気道が苦しくて意識喪失より先に窒息する塩梅にしかならなかったため今のところ自殺の目途は立っていない。場所も悪いが縄に問題があると思う)

だが今回は違う。本気だった。練習ではなく実践だった。大袈裟にとって心配してしまうとそれこそ彼女の負担になってしまい、今後僕にそういった話をしてくれることは無くなる。それが怖かったからか、彼女がそうすることを心から望んでいないことがわかっていたからか、僕の感受性や感性が乏しいのか、軽薄な人間なのか、僕はその話を聞いたときは平静な態度をとって反応することができたと思う。けれども焦燥感はじわじわ積もり重なり、三日後には何も落ち着いて手に着かなくなっていた。

彼女は僕が二年半前に学校へ行かなくなり家に引きこもり始めたときに一番話し相手になってくれた相手だった。僕の悩みを嫌な顔ひとつせずに聞いてくれて、僕がうだうだと悩んでいることを魔法の言葉でとるに足らない下らないことのように思わせてくれた。どうしてこんなつまらないことで悩んでいたんだろうと、驚くような速さで思わせてくれた。それが今でも嬉しくて、僕は彼女に一生かけても返しきれないほどの恩を感じている。


それなのに死んでしまわれると、僕としては困る。というか僕が死んでしまう。彼女を死に追いやる辛さを取り除けないなら、僕はこの二十三年何のために生きてきたかわからない。僕の人生はまったく無価値で無意味なものだったと言っても良い。学者が親が哲学者が他人が友達が辛い思いを乗り越えた人が、誰がなんと言おうと無価値な人生だ。絶対だ。僕は彼女にどうしても死んでほしくない。それが彼女の望むところではなく、彼女は死んだ方が良いのだと神様が彼女が生まれる前から決めていた運命だとしても、生きていてほしい。これは僕のエゴであって、彼女のためではない。まったくない。完全にない。彼女を救えなかった自分が、彼女が死ななければならなかった世界で生きていくなんて地獄だ。死ぬより辛いかもしれない。それはそれで一周回って楽しいかもしれないけれど。


だから、僕は明日彼女と話さなければならない。大学は夏休みになって終わってしまった。彼女と会える期間は明日しかないし、自殺と言うものは長期の休暇が明けるタイミングが一番多いと聞いたことがある。もしかしたら、明日が彼女に会う最後になるかもしれない。そもそも明日までに彼女が死んでいるんじゃないかとすら心配していた。彼女と僕の間には八月下旬に大切な約束があって彼女もそれを楽しみにしていたはずなのに、その話をした三週間後に彼女は自殺しようとした。もう何があってもおかしくないと思った。

僕が目標とするところは、直接的には彼女の自殺を止めるというか、もっと言えば彼女が自殺したいと思う程の辛さを消し去ることだ。そのためにはその辛さを知る必要がある。彼女はプライドも高く他人に心配をかけることを好まず、まして僕は今まで彼女に負担ばかりかけていたメンタル弱者であり、頼りなさでは恐らく彼女の知人の中でもトップクラスに入る。つまりは信用がない。僕に負担をかけることで僕が潰れてしまうのではないかを心配されてしまうが故に、頼ってもらえないということだ。頼ってもらえなければ辛さを話してもらうことができない。信頼関係なしに僕が彼女の根深い辛さを解消できる術は事実上ないのだろう。

つまりは僕は彼女に僕のことを頼ってくれるよう説得する必要がある。何度も言うが僕は二年半前に大学を中心とした人間関係のトラブルや社会生活上の問題が重なったのをきっかけに精神を病み人間不信になって学校に行けなくなり自殺を考えながら家に引きこもる生活を始めた人間だ(途中彼女自身のおかげで何度か良くなって社会復帰したりもしていたが、今は事実上引きこもりに戻っている)。非常に困難である。正直成功するかと言われれば、ほぼほぼしないと思う。

それでもやる分には、まず彼女に心を開いてもらうために、僕が精一杯心を開こうと思う。僕は彼女が好きで、生きていてほしくて、彼女の辛さを取り除くためならどんなことでもするということを、真摯に伝えようと思う。好感のない異性から向けられる過剰な好意やアプローチは時に威圧的・驚異的に、あるいは普通に気持ち悪く映るものなので、そうなったら諦めるしかない。あるいは僕の下心を悟られてはならない。彼女のためなら自分は生きられるのではないか? 反対に、彼女の説得に失敗し彼女が死んでしまえば、僕に思い残すことはなく清々しく死ねるのでは? そういう思惑が僕にはある。それを否定することはできない。純粋に彼女を助けたいと思う気持ちとは裏腹の、汚く捻じ曲がったおぞましく気味悪い最低最悪なエゴ、でもそれを認めないと人間が生きていけないような、エゴ。抱くだけならギリギリ許されると思っている。けれども少しでも表に出そうものならそれは単なる重い罪になる。僕の人生の責任を他人に委ねてはいけない。ましてや生きていてほしいと願う大切な人に。だからそういう気持ちを悟られるようなこと、もっと実際に即して言うなら「重い言葉」を使ってはいけない。

そして軽すぎてもいけない。真摯さが伝わらなければ「嫌だなあそんな重くうけとらないでください」と言って、彼女はもう僕に心配をかけるまいと自分の話をしなくなるだろう。思いをますます閉じ込めるようになり、孤独は深まって、一人の中だけでの思考の堂々巡りはどんどん沈んで行く。他人に迷惑をかけたくない、という彼女のプライドがある。だから僕は本当に適切な言葉とタイミングと、それから喋るときのジェスチャーやら表情やら声のトーンやらを選択していかなければならない。僕には特殊な技能も正しい臨床心理学的なアプローチの知識もない。相手からの信頼もあるかどうかわからない。まして僕が人を支えられるほど自立した人間であると思ってもらえることはまずなく、実際にもそんなことはない。これから頑張るから、と言って誰が信じるだろう。「君を支えるためなら引き籠りだってすぐやめるさ!」とか。


だからこれは彼女のためにやるのではない。僕がもし彼女か僕が死んだ時に思い残すことのないようにやることだ。断じて彼女のためではないのだ。僕のエゴ。そう割り切らなければ、きっと不誠実になる。そうやってあくまで誠実さを追い求めて、できもしない虚言妄言を吐き連ね彼女を支えたいとか口にするのだ。矛盾だ。シュールだ。今から悲しくなってきた。

もしかしたらこんなにも整理して決意して覚悟もしているつもりなのに明日はあっさりとタイミングを掴めず何も言えないまま別れるかもしれない。こんなに大袈裟に言っておきながら。僕の甲斐性はそれくらい無い。


けれども僕はやるのだ。もし失敗したら、帰りのJRで僕だけ飛び込むとかどうだろう。目の前で実際に自殺で凄惨な死に方をする近しい人の死を見たら、考えを改めてくれるかもしれない。最後の言葉は「生きて、〇〇さん」小説っぽくて良いと思う。そういう馬鹿馬鹿しいことをわざとするのが僕は昔好きだった。左耳のピアスの穴もそうやって空けた。

もちろんそのことが彼女の心を更に疲れさせてしまうだろうことは想像に難くないし、例えその行動が自殺の抑制に確実に効果的だと言われたとしても僕にそれを実行できる甲斐性はやっぱりないだろうけれど。でも僕のゴミみたいな人生のお陰で誰かが自殺を思いとどまってくれるなら、それは普通に素晴らしいことだと思うし、できれば命も投げ出したいと思う。できれば、だけれども。


 生きるため、死ぬため、両方に後悔しませんように。






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