第3話

 夜のうちに訪ねてきた浅井の使者が、改めて弔意を伝えると共に選香えりかの身元を請け合った。平選香は紛れもなく近江守様の配下。歴とした官人であるという。

 その上しかも嘘か誠か、と使者は声を潜めた。選香は妖術使いとして悪名高い滝夜叉姫こと五月姫の孫で、取りも直さず、あの平将門の曾孫に当たるというのだ。

 私は聞かなかったことにした。どうでも良い噂に惑わされて人物を見誤りたくない。しかし、そう考える一方で、証を立てられた今の方が信じられない、と思わずにもいられなかった。

 二日酔いだろう、朝餉あさげに呼ばれた選香の細面は蒼白だった。都人らしい洗練された身の取りなしなど望むべくもないどころか、むしろ行儀が悪く、作法に厳しい小萩を苛立たせていた。

「選香殿、何度言わせるつもりですか。椀に箸を渡してはなりません」

「小萩の婆さんは俺の乳母か? そんなことより、吸い物にしじみが入っていないぞ」

「蜆?」

大炊殿おおいどのを訪ねて頼んだだろう。起き抜けに。浅井で出たものが、なぜ隣の伊香いかごで出ない」

「寝ぼけ眼で台所に来てぼそぼそ言ったのは、あれは汁の実に注文をつけていたのですか」

 てっきりかわやと間違えたのかと。呆れ混じりの溜息をつく小萩に、私も叔父上も、場を共にする他の家人たちも失笑を禁じ得なかった。

 この日、主を亡くしたばかりでどれほど暗くなっても仕方ないはずの屋敷が、ほんの少しではあるが、平選香という男によって救われていた。私は後にそう振り返ることになる。

 選香は昼前からあちこち歩き回った。出し抜けに家人を捕まえてはあれこれただしていた。

「好み、でございますか? 亡くなった御館様の?」

「そうだ。何かあるだろう。あれを好いただのこれを嫌っただの」

 そんな漠然とした問いを投げかけられたのは井戸端で洗い物をしていた小鈴だった。

 小鈴は小萩の孫娘。厳しい祖母の薫陶を受けた器量良しのしっかり者。年頃だが身持ちは堅く、言い寄る男をあしらうこともお手の物。ただ、それも向こうが郡内の醜男しこおであればの話だ。

 立場の割に気安い奇特な都人が相手とあっては、さすがの小鈴もたじたじな様子だった。頬を赤くして目は泳ぎっ放し。濡れ手を弾いたり衣の裾を気にしたりと忙しい。

「御館様は、その、歌がお好きで、度々、人を集めて、小さな歌会を開いていらっしゃいました」

「そうか。どのようなみぶりだったろうな。一首くらい聞き覚えてはいないか?」

「ご、ご自身がお詠みになったものではなくて、よくそらんじていらっしゃった歌なら。感化を受けたのだとおっしゃっていましたから」

「それだ。聞かせてみろ」

 ずずいと鼻先を寄せてきた選香にたじろぎながらも、小鈴は咳払いをして、私もよく知るその歌を口ずさんだ。

「『月見れば 千々に物こそ 悲しけれ 我が身一つの 秋にはあらねど』でございます」

「大江千里だな」

 腕組みの選香が深く頷いた。

「たしか白楽天の『燕子楼』に想を得たものだったか。見上げる月。秋の訪れ。移ろう季節の中で様々に物思い、立ち尽くす一人の姿……」

 思えば流されるまま成す術もない木の葉も同然の私たちだな、などと憂い顔で呟く選香を見上げて、小鈴の表情はいつの間にか、夢でも見ているようなうっとりしたものに変わっていた。


「御館様の人となりだぁ?」

「そうだ。主としてというより、同じ人として男として、お前たちの目に映る忠親殿はどのような御方だった?」

 選香は厩番うまやばんや他の下男たちがたむろする中にも平気で乗り込んで行った。

 まだあいの匂うような直垂姿のまま、地に胡坐をかいて彼らと目線を同じくする。

 うちの御館様はそりゃあもう良い男だったさ、と下男の一人が自慢するように言った。

「郡内で起こった諍いを仲裁する手際なんかもう、神懸かってたぜ。噛み付き合う奴らを引き離しておいて、双方の言い分を聞いて、無理の無い落とし所を見つけてびしっと言い渡す」

「なさることはごく当たり前のことなのさ。ただ、親身になって耳を傾けてくださるその姿勢や、態度がな。誰にも分け隔てが無くて、そこが立派でな」

「優しさと厳しさの両方が要る。そう知っていらっしゃったのさ。文親ふみちか様と武親様の喧嘩のときも、なあ」

 そうそう、そうだった、と同意の笑い声が場を賑やかにした。久しぶりに聞く兄上の名は、母屋の陰に隠れて様子を見守る私の胸をひどく締め付けた。

「十も年上の文親様に、武親様が向かっていくだろう? 子供の喧嘩だ。些細な理由さ。けど忠親様はきちんとお二人の話をお聞きになる。道理を言い含めて、仲直りさせて、そして」

「両方に拳骨だ。家の和は郡の和のいしずえと知れ、なんて叱っていらっしゃったっけ」

 あんなこともあった。こんなこともあった。次から次に出てくる思い出話はそのどれもが、父上がいかに慕われていたか、どれほど立派な郡司であり人の親であったかを示していた。

 ひるがえって自分はどうだろうかと、私は考えずにはいられなかった。ただ血筋のみに甘えてる今ではないだろうか。皆に慕ってもらえるだけの何かを、これまで果たしたことがあっただろうか。

 たとえば今の選香と比べてどうだ。ああして皆の和の中に入り、打ち解けて話をしたことがあったか。若様扱いを当然と考えていないだろうか。貰っただけのものを返せているだろうか。

「なるほど。そろそろ忠親殿のことが分かってきたぞ」

 うんうんと選香が頷いて続ける。

「駄目押しに、そうだな、座右の銘といったものでもお持ちではなかったかな。知っている者は?」

「『雄飛の前に必ず雌伏あり』」

 言いつつ姿を見せた私に、家人たちが慌てて姿勢を正そうとした。

 私は片手を上げ、楽にしているよう促した。選香の背後に歩み寄った。

「『労苦を忍ばずして遊楽を得るなかれ』と言うこともありました」

「……そうか。ありがたい。これだけ手掛かりが揃えば俺には十分だ」

 選香は立ち上がった。振り返り、晴れやかな表情で私を見据えた。

「お前はどうだ武親、?」

「下の句?」

「俺はな、割に何でも疑ってかかる方だが、歌の力というものだけは手放しに信じている。思いがると力になるものだ。それは時に天地を動かし、姿無き鬼神の心をも打つ」

 私には選香の言わんとすることがようやく分かった。

「あの上の句に下の句をぐことで、封が解けて刀が抜ける、と?」

「それは同時に、忠親殿の真の心を私たちが知るときでもあるだろう。さあどうだ? 下の句は?」

 選香が首を突き出してきた。気圧されて仰け反る私に彼は眼光を鋭くした。

「しかるべき下の句を接いでみせろ武親。日没までに。それができなければ、あの刀は没収する。近江守藤原知章様から大任を預かる、この平選香の名においてな」

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