第2話
日が暮れる頃には雨も止んだ。時折、縁からの湿った風が座敷の灯りを揺らした。
私が彼とまともに話せたのは、父上の弔いを終えて菩提寺を引き上げた後のことだった。
「俺は
古くは都氏に
だがそれにしても『えりか』とは――。広い世の中には変わった名の持ち主がいるものだ。
十五の私より一回りは年上だろうか、紺の大袖と
砕けた、気取りの無い、いっそ横柄とも取れそうな雰囲気を纏っているが、それもむべなるかな、ふんぞり返った彼はこちらが驚くような言葉をさらりと続けた。
「ただの濡れ鼠に見えて都からの密使。近江守、藤原知章様の使いだ。そのつもりで接してもらいたい」
密使。しかも近江守様の? 眉を寄せた私に、選香は眠たげな半眼を細くして微笑んだ。
「書状もあるから後で見せよう。ともあれ、まずは浅井殿の伝言からだな。『早まるな』」
「……それだけ、ですか?」
「面倒だから端折らせてもらった。忠親殿の死を悼む言葉に始まって、実際はもっと仰々しかったし、長ったらしかった。国府へ早馬を遣っただろう? それが浅井にも寄ったんだ」
そうせよと命じてはいなかったが、何しろ通り道、気を利かせたらしい。涙ながらに父上の死を報せて駆け去ったという。
隣郡浅井の郡司である信頼殿と父上とは古くから親交があった。妹を浅井に嫁がせる話もあったほどの付き合いだった。
小萩が置いていったささやかな饗応の膳に目を落とし、選香は酒杯を取った。
「『兄ばかりか父親までも凶刃に奪われた、その心中は察する。だが安曇二郎武親、早まるな』」
歌うように言って一息に酒を乾すと、破顔一笑、杯を膳に戻した。
「家人に説き伏せられて思い止まったそうだな。何よりだった」
「まだ賊徒への報復を諦めたわけではありません」
「私怨はきっぱり忘れてもらおう」
選香は手酌で杯を満たした。無体な物言いに目を丸くする私を、彼は見ようともしない。
「実は、本来の俺の用も賊徒に関わるという点では同じでな。二郡の一方に足並みを乱されては計画に支障をきたす。勝手をされては迷惑だ」
「し、失礼ながら、密使殿はいったい、儂らに何のお話を? 計画とは何のことでしょう」
恐る恐るといった調子でそう尋ねたのは、私の隣でずっと黙っていた叔父上だった。
まだ一杯しか飲まないはずの選香だが、弱いらしい、早くも虚ろな目で私たちを見た。
「何ヶ月か前に突然現れた、あの赤い客星。知っているな」
「存じております。噂では、都の陰陽師も吉凶を判じかねているとか」
私は応えて頷いた。件の星は今も空に輝いている。いやに明るいのは確かだが、ただの星だ。それが何だというのだろう。
「かの客星の出現を受けて、末世の到来だと派手に騒ぎ始めた者たちがいる。その中の一部が成らず者共を煽り、数を集めて組織し、あちこちで汚い仕事をさせている。しかもそこから歩合で小金を掠めている」
「馬鹿な……。賊徒の上前を撥ねる商売を始めた者がいる、と?」
「馬鹿ばかりさ。じきに滅びる世の中だ、今のうちに好き勝手をしよう、と
世情の乱れに乗じ、不安な心に付け入って踊らせる。何とも悪質なやり口だ。
「利に聡い者は何でも上手く使う」
選香は皮肉っぽくそう呟いた。酒を呷った。
「でな、中心的な役割を担う馬鹿者の一人が、この湖北一帯を縄張りにする賊徒の一団に潜んでいるらしいと分かった。そこで賤ヶ岳を中心に大規模な山狩りをして、奴らを一網打尽にしたい」
「伊香と浅井、両郡で力を合わせて、というわけですな」
さも得心がいったように叔父上が頷いた。選香は私のことを上目遣いに見つめた。
「こう言っては何だが、誰あろう郡司を殺めてのけたことで、賊徒は勢い付いたはず。そこに油断も生まれるだろう。今度のことは一つの契機だ。無駄にして良い一件ではない」
「私の父の死を喜ばしいことのように言わないでいただきたい」
「おいおい熱くなるな。そうだな、今のは謝る。結果そのような言い方もできるというだけに過ぎん」
なるほど、と私は納得した。利に聡い者は何でも上手く使う。
私の中の私、宝刀を手に駆け出そうとした私が、この男の言いなりには絶対になるなと大きな声で叫んでいた。
不合理だと嗤われようと、無分別だと罵られようと、譲るわけにはいかないときがある。心が是と言わないときだ。
私は選香に向かって深く頭を下げた。立ち上がって言った。
「協力は惜しみません。家人たちにも、郡の男たちにもきっとそうさせましょう」
「助かる」
「勝手をするのは私一人です」
武親! と叔父上が鋭く、諫めるように囁いた。私は聞き流した。
「何となれば私の死も利用していただいて結構」
「ほほう。ではこの安曇の家はどうなる。遺された郡の者たちは?」
小萩が訴えたことを選香も口にした。酔眼はいよいよ険しくなった。
「次代の長たる立場を踏まえての言葉か? 餓鬼の我儘ではないのか?」
「長にはこちらの、叔父の政親がなります。私はその器ではなかったようです」
「何を言い出すか武親!」
「申し訳ありません叔父上」
「明日をも知れん儂を捕まえて、お前という奴は!」
「父の無念をこの手で晴らしたいのです。どうしても」
「武親!」
「ああもう良いもう良い。分かった分かった。好きにしろ」
だがな武親、と選香は私を呼び捨てにした。片膝を立てて酒杯でこちらを指した。顔はもう真っ赤、言葉も乱れに乱れていた。
「『父の無念』だと? 忠親殿の霊は、仇を討ってほしいと思っていると、お前はそう考えるわけか。あ? では家宝の刀を封じた歌の意味をどう取る。なぜあの刀は抜けない。え?」
『いかごやま いかでゆくみの つらからん』
刀を封じた歌――。鞘に貼られた短冊の、あの歌のことを言うらしい。
家の誰かに聞いたのか。すっかり忘れていた話をひょいと持ち出されて、私は返事に窮した。
どう取るんだよ! と選香はもう一度、放り投げるように言った。杯を取り落とした。
「…………なあおい、武親、だったらこうしよう。一日だけ、俺に時をよこせ。一日経ったら、……仇討ちでも何でも、お前の好きに、していい、から……」
言いながら後ろに倒れて、選香はそのまま
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