伊香山物語

夕辺歩

第1話

 憎き賊徒ぞくとやいばに兄上を奪われた八つのときも、時疫じえきに母上と妹の命を取られた十二のときも、ぐっと堪えて涙を流さなかった。そんな私だ。

 数えで十五になる今年、卯月しがつには南の夜空に怪しげな客星が現れ、文月しちがつには神木を掲げた興福寺の僧たちが都に雪崩れ込んだ。だがもちろん、私は心を乱したりはしなかった。天の異変。地の騒擾そうじょう。それがどうした。何だというのだ。

 しかし、尊敬する父上の命までも奪われたとあっては、さすがに平静ではいられなかった。目の当たりにした遺骸に我を忘れ、刀一振りを手に屋敷を飛び出そうとした私を叔父上が羽交い締めにした。

「止さんか武親たけちか! 行って何ができる。そもそもどこへ行く。賊の居所も分かるまいに!」

「離して下され! 叔父上は悔しくないのですか! 二度も身内を奪われて!」

「悔しくないわけがなかろう。行かせんぞ。三度目なぞ真っ平じゃ!」

 屋敷に仕えて久しい小萩が足に取りすがってきた。乳母の頬は涙に濡れていた。

「若様、どうか堪えて下さいまし。安曇あずみの家のため、伊香いかごに住まう皆のためにどうか」

 老女を足蹴あしげになどできなかった。『家のため皆のため』の文句も覿面てきめんに効いた。

 この上さらに私まで命を落とせば、いよいよ民心は離れ、安曇はきっと郡の長ではいられなくなる。

 私は抗うことを止めた。広い土間が静まり返った。いつしか屋敷の外は篠突く雨だった。

 呆然と振り返ると、多病な叔父上の痩躯そうく越し、板張りに横たえられた父上の遺骸が見えた。

 父上が郡内の視察に発ったのは今から五日前。随行した一人が瀕死の体で戻り、賊徒の襲撃を受けて隊が壊滅したと報せたのが二日前だった。

 現地へ向かった男衆が戻ったのはつい先ほど。報せの通り父上の遺骸は崖下に転がり落ちていたが、何しろ草木生い茂る秋の賤ヶ岳、引き上げるのは一苦労だったという。

 私はずっとこの屋敷にいた。事態を報せるべく郡衙ぐんがと遠い勢多の国府へ人を遣わしたくらいで、他には何もできなかった。ほとんど忘我のまま、本当に何一つ手に付かずにいた。

 家人たちが見守る中、私は遺骸の側に寄って膝をついた。父上は額を割られていた。袈裟懸けに斬られてもいた。崖から落ちたお陰で何も剥がされていないらしいことだけが救いと言えば救いだった。

 私は刀を父上に返した。父上がいていたものだったからだ。遠い昔に国守から授かったという累代の宝刀。この刀で賊を根絶やしにできれば父上の無念もきっと晴らせるだろうに――。

 乳母の訴えに一度は鎮まった怒りの炎が、私の中で再び燃え上がった。

 侮られたままではいられない。畜生にも劣る凶賊めら。

 皆殺しだ。八つ裂きだ。この恨み晴らさでおくべきか。

「武親、鞘に貼られているそれは……?」

 叔父上が脇から戸惑い顔を覗かせた。私は言われてやっと気付いた。

 短い螺旋を描くようにして、刀の鞘に一葉の短冊が貼り付けられていた。

 流麗な散らし書き。『いかごやま いかでゆくみの つらからん』と読めた。

 料紙は新しい。貼られて間もないように見える。

 手に見覚えがあった。これは父上が書いたものだ。

 歌の上の句か。どんなお考えがあってのことだろう。

 改めて刀を取り、何気なく柄に触れてみて、はっとした。

 刀身が抜けない。鞘に収められたままぴくりとも動かない。

 叔父上が試しても結果は同じだった。不思議の短冊は爪で剥ぐことさえできない。

 弱り切った私たちが顔を見合わせたとき――。

「御免。伊香いかご郡郡司、安曇忠親ただちか殿の屋敷はこちらか」

 どこか間の抜けたその声は雨の庭先から聞こえてきた。

 ぐっしょりと濡れそぼった直垂ひたたれ姿の、ひょろりと丈高い男が背を丸めて立っていた。

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