第4話

『文武両道』は安曇の家訓。私も幼い頃からそのようにあるべしと躾けられてきた。

 ただ、名は体を表すと言えば言い訳になるだろうか、文よりも武の方がずっと向いている自覚はあって、恥ずかしながら長じるほど後者に傾いてきていた。

 濡れ縁に据えた宝刀を前に、私は胡坐をかいて瞑目し続けた。

 いかごやま いかでゆくみの つらからん――。

『伊香山 いかで行く身の 辛からん』だろう。

 初句の『伊香山』は二句目の『いかで』を導くと共に父上が命を落とした賤ヶ岳近辺を示している。

「どうして死に行く我が身が辛くなどあるだろうか」

 いいや辛くはない、と父上は言うのだ。

 いったいなぜ? 分からない。ただ焦りばかりが募った。

 日が山の端にかかり始めた頃、選香が庭に悠然と現れた。稽古用の木剣を二振り携えていた。

「どうやらお前には親の心が少しも汲めないらしいな」

 微笑んだままそんなことを言う。

 かっとなった私は思わず片膝を立てた。選香は平気なものだ。

「無理もないか。家人たちを放って仇を討ちに行くなどという愚かな言葉を平気で吐く、どうしようもない餓鬼なのだからな」

「兄を殺され、父を殺されて、それでも黙っていろと? そんなものが……、そんなものが男だと呼べるか!」

「ならぬ我慢をそれでもするのが男というものだろう。ことにお前の両肩には、安曇の家人たちばかりではない、伊香に住む民の行く末もかかっている。そこをわきまえろと言っている」

 選香は木剣の片方を私に放ってよこした。来い、と笑みを浮かべた。

不憫ふびんでならん。俺から一本でも取れたなら、家宝の刀は持たせておいてやろう」

 私は身中に青い火柱が立つのを感じた。

 この男をきっと後悔させてみせる。

 裸足のまま、濡れ縁から庭へと飛び降りる勢いに任せて打ち掛かった。

 選香は細い見た目とは裏腹な膂力りょりょくで初撃を受けきった。

 私は選香に休みなく仕掛けた。満身の力で上段から打ち下ろし、弾かれればすぐさま肩口を狙った。避けられれば踏み込み、突いては薙ぎ、薙いでは突いた。

 西日の庭で咆哮するのは私一人だった。二人の間に歴然たる力の差があることに、垣を成して見守る家人たちは気付いたことだろう。私自身、すぐに気が付いた。

 選香は恐ろしく強かった。やがて彼は反撃に転じた。僅かな足運びだけで驚くほど間合いを詰めたかと思うと、咄嗟に身を引こうとした私の鳩尾に柄頭を叩き込んできた。

 私は堪らず膝をついた。

 木刀を取り落とし、咳き込み、痛みと苦しさに激しく悶えた。

「他愛もない。もう終わりか?」

「ま、……まだまだっ!」

 私は木剣を掴んだ。立ち上がり、足を踏み出しながら斬り上げた剣は宙を切った。

 いなされ、かわされ、受け流される度に痛烈な一撃を見舞われる。その繰り返しだった。

 まだまだ、を繰り返すほど私はぼろぼろになっていった。打ち身が熱を持ち、肌には血が滲んだ。

「頑丈な上に頑迷。救いようのない奴だ」

 苦笑いの選香に私は尚も挑みかかる。満身創痍、もはや勝負になどならないことは明白だが、衝き上げる思いのままに立ち向かった。悔しくて仕方がなかった。情けなくてならなかった。負けを認めたくなかった。何よりも、諦めてしまうことそれ自体が恐ろしかった。

 ついに木剣さえ取り落とし、よろめくように素手で掴みかかった私の首筋を、するりとたいを入れ替えざまに選香が手刀で打った。私は倒れ伏した。

「たとえば忠親殿が大樹なら、お前は芽すら出さない種も同然だな」

 選香はそう言うと、私を放ったまま縁に向かった。

 弾かれたように駆け寄ってきた小萩と小鈴が私を抱え起こしてくれた。

 選香は抜けない宝刀を手に取り、めつすがめつしながら私に語りかける。

「忠親殿は常に均衡を重んじ、何においても調和を乱すということがなかった。言うは易いが難しいことだ。彼にそれができたのはなぜだと思う?」

 私はその問いに答えることができなかった。選香は続けた。

「大樹の高みから、物事を遙か先まで見渡すことができたからだ。……武親、痛みを恐れるな。縮こまらずに枝葉を伸ばさなければ、いつまで経っても父親のようにはなれないぞ」

 私が痛みを恐れている? 縮こまっている? 謎めいた言葉の後で選香は微笑んだ。

「ただ一点、『照応』へのこだわりについては、忠親殿にも過剰なところがあったらしい。頑なさは血のようだな」

「……照応?」

「相応じた二つのもの、という意味だ。たとえば文と武、また群と家、厳しさと優しさ……。座右の銘に出てきた雄飛と雌伏も、労苦と遊楽もそうだろう」

 選香はつらつらと例を挙げた。私には気付けなかった父上のこだわり。

「俺が忠親殿ならこう続ける。『いかごやま いかでゆくみの つらからん』」

 おもむろに宝刀を掲げると、選香は下の句を接いだ。

「『とまるこころは なほとおもへば』」


 伊香山 いかで行く身の 辛からん 留まる心は 尚と思へば


 どうして死に行く我が身が辛くなどあるだろう。後に残された者の心の方がもっと辛いことを思えば。

 鞘に貼り付いていた短冊が音もなく剥がれ落ちた。遠巻きにしていた家人たちがどよめいた。

 刀が問題なく抜けることを確かめた選香は、まだ唖然としている私の前に屈み込んだ。宝刀を無造作に押し付け、私の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「もう一度、よく考えろ武親。刀を封じた父親の心を。一人残されたお前にどうあってほしいと思っているかを」

 私は宝刀を強く胸に抱いた。

 兄を奪われても、母と妹を亡くしても、父を喪っても流さなかった涙が頬を伝った。

 えず零れ落ちる涙は、打ち据えられてひび割れた心の殻の隙間から染み入り、悲しみなどかつて寄せ付けなかった私の中を温かく濡らすようだった。

 泣きながら、私は決めた。この痛みを抱えて行こう。恐れず怯えず悲しみを受け止め、涙の雨を浴びる。いつか父上のような、深く茂らせた枝葉の陰に皆を憩わせる大樹となるために。

「改めて請う」

 選香が立ち上がり、手を差し伸べてきた。

 私を見下ろす彼の眼差しは強く、また優しかった。

「安曇二郎武親殿、どうか力を貸してほしい」  了

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伊香山物語 夕辺歩 @ayumu_yube

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