残空

@zan-ku

1:選択

「アサクラジュリさん、次のお部屋へどうぞ」受付の女性の無機質な声が響いた。


そして、それが私の名だと気づいた。樹里という、いかにも西洋かぶれで、行動的な人物を連想させるような名前には未だに慣れない。もしかすると、一生、慣れることはないのかもしれない。墓石に<朝倉樹里>と刻まれて、その下の土の中で眠っている白骨の私ですら違和感を覚えているのかもしれない、と思った。


とにもかくにも次の部屋へ進むことになっている。なら進もう。

私は観葉植物の脇を抜けて、次への扉に手をかけた。スチールのドアノブをひねると、なんのことはなく扉は開いた。大丈夫、ここまでは問題ない。これまでにも何度もやってきたことのはずだ。今更失敗することもない。誰だって出来ることだ。


扉を開けると、白を基調とした現代的な空間が目の前に出現した。そこは狭くて、どこかのホテルの中に密やかにありそうな場所だと思った。たぶん、そのホテルの中で最も注目されない場所だろうなと思った。


廊下についてはあまり語ることはなかった。単なる過程としての役割を全うしていた。きっとこれでいいのだろう。それよりも私の注意を引きつけて止まないのは、奥にある2つの扉だった。もしかするともっと他にも気にしなければならないことがあったのかもしれないが、私の目はその扉に釘付けになっていた。


その扉を見た瞬間、どちらかを選択しなければならないと思った。誰だってそう思うだろう。私だけが何らかの失敗をしているわけではないはず。どちらを選ぶのか、それが問題だ。でも選択は今の1回だけとは限らないのかもしれないし、時間制限があるのかもしれない。何もかもが白い霧の中だった。


しかし、私はその2つの扉を恐怖のあまり直視できなかった。一瞥しただけですくみ上がってしまったのだ。私はここに来るまでに、もうすでに、傷つきすぎていた。耐えられないのだ。心当たりのある、ろくでもない何人かの顔が思い浮かんだ。そして、ふと受付の女性の顔を思い出した。顔の特徴の細部までは思い出せなかったが、職業的な笑みを浮かべていて、感じは悪くなかったが、今の私にとっては助けにならないと思った。ここは、一人で決めなければならない。


覚悟を決めて扉を見た。2つとも似たような白い扉に見えた。


私はこの空間のあまりの白さに、自分が色を認識する能力を失ったのではないかと疑った。しかし、前の部屋ではそんなことはなかったので大丈夫なはずだ。色々なものを捨てて、失ってはきたけど、色くらいはまだわかる。私は残された力を振り絞って、どこかにあるはずの安住の地にたどり着きたいのだ。そこに着きさえすれば、きっと私の欠点の幾分かは解決されて、なんとかなるのだろう。少なくともそう信じている。そうでなければもう、倒れて地に伏すくらいしか出来ることは残されていない。いや、それすらもうまく出来ないのかもしれない。


ああ、しかしもう、うまく集中できないんだ。目の前の景色が地獄絵図と重なる。でもそういうことによって、よりクリアに見えてくる部分もあるんだよ。誰か信じてくれ。

こうしている間にも、私の胸は軋んでいた。苛まれていた。ギイイイイ、ギイイイイ、と。古い木造家屋のようだ。また私を非難する誰かの声が脳裏に浮かんだ。続いて本意ではない行動をしている自分の姿が浮かんだ。なんであんなことを言ったんだろう。口にしたいと思わない言葉ばかりがあふれ出してくる。どうしようもないな。本当に。



結局、私は左の扉を選んだ。その理由は、今朝のニュース番組の占いで左利きの男性がラッキーパーソンだとあったからだ。その程度のこと。少しでもましな選択をしようと必死になった結果がこれ。ろくでもない。

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