第6話 バー・アンカーとトリップマシン
──レッドワールド
カララン。
バー・アンカーのドアが開くと、リホが立っていた。
「来た来た。どうだった? 初日の成果はどうだったかな?」
ジョーはカウンターに座り、ロックグラスの氷をカラカラと回していた。
西新橋にあるバー・アンカーはクラシックなウッドテイストで、カウンターが五席だけの小さな店だ。カウンターの端に、高さ三十センチくらいの赤色の
マスターは、白いシャツに黒のズボン、黒のベストに黒の腰エプロン。年の頃は六十から六十五くらい。グレーの短髪にグレーの口髭と顎髭、ロマンスグレーというやつだ。
「最悪やわ」
「え? 最悪?」
リホはカウンター横に立ったまま、仁王のように睨んでいる。
「ジョー、あんた、親以外は全部同じって言うてたけど、違うやん! 会社行ったら、うち広報部やのに、受付嬢や言われてパニックやったわ。しかも、トウキョウ弁話さなあかんて、そら無いわ。うち、そんなんできひんもん」
「俺が言ったのは、会社も住むところも同じってだけだよ。仕事が同じかどうかまではねぇ」
「それじゃ困るんよ」
「そりゃ贅沢だなぁ。一番の問題だった、家を継ぐことは解決してるんだろ。それで十分じゃないのか?」
「それは……そうなんやけど……」
「ダメなのか?」
リホは少し黙って、そしてニヤッと笑った。
「うっそー。とっても楽しかった。マドンナとも仲良くなったし、かわいい制服着れたし、トウキョウ弁? 標準語? の練習もしたし。”こちらでお待ちください”。どう?」
「どう?……って、普通」
「もう、完璧やろ! ”江上はただいま席を外しております”。きゃー、完璧!」
「……普通だって」
「それに、ショウさんもタクトさんもいい人やったなー。どっちか彼氏になってくれへんかなー」
リホは目をキラキラさせて、お祈りしながら星を見上げるような格好をした。
「それから、今日はこれからここで飲み会なの。四人で。うちとみんなが出会ってから一年目のお祝いなんやて。素敵やわー。この世界、素敵過ぎるわ」
リホは新しい世界に大満足な様子である。ジョーは、それは良かったねと微笑みながら、でもあまり興味のない様子だった。
「そうそう、ここオオサカが首都やないんやね。トウキョウが首都なんてびっくりやわ」
「そうだね」
「……だからパパの苗字が……」
「苗字?」
「ううん、こっちの話。ほんまびっくりやわ。『標準語』言われて、最初なんの話か分からんかってん。トウキョウ弁みたいなもんなんやね」
「ああ、リホの世界は豊臣の世界だからな。それって結構特殊なんだぞ。大抵は徳川の世界からの派生だからさ」
「そうなん!? え? じゃあ、この世界は豊臣が負けた世界やの?」
「そういうこと」
リホは急に暗くなって、カウンター席に腰掛けた。
「そうなんや。そういうの考えたことも無かったわ。……豊臣って、こっちの世界ではどうなってるんかな?」
「豊臣? さあ、どうかな。あんまり聞かないな。何でそんなこと聞くの?」
「別に……いいの、知らなければ」
「マスター、トイレ! どこ?」
リホは急に立ち上がって、カウンターにバンっと手を置き、マスターを凝視した。
「ああ、そこの奥の……」
「奥ね」
マスターが言い終わる前に言葉をさえぎって、リホはずんずんと店の奥に歩き始めた
「……左のドア……ですな……」
マスターは、聞いてないですね、という風に肩をすくめた。そして、ジョーに真面目な顔をして話し出した。
「ジョー、もうちょっときちんとフォローしないとだめですな。いくらトライアルと言ってもお客さんですからな。こういうやり方は初めてなんですからな」
ジョーは、グラスの氷をくるくると指でかき回しながら、ため息をついた。
「シゲさん、分かってますよ。普通はトリップマシンを使ってパラレルワールドに翔ぶ『もう一人の自分をこっそり見に行くプライベートツアー』を勧めるところでしょ。でも今回は入れ替わりだ。リスクも高いよね」
「そうですな。ジョーにしかできないことですからな。あっちもこっちも、両方が満足しないとダメですからな」
「はいはい、ちゃんとやりますよ」
ジョーは、リホが入ったトイレの方に目をやった。トイレの灯りが点いてない。代わりに右側の-Staff Only-と書かれたドアから灯りが漏れていた。
「まずい……」
ぼそりとつぶやいて、ジョーは-Staff Only-のドアに駆け寄り、勢い良く開けた。
「無い」
ジョーが振り向いてつぶやいた。
「シゲさん、トリップマシン……無いよ」
シゲさんは、ふう、と息を吐いて拭いていたグラスをテーブルに置いた。
「それはやっかいですな」
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