第6話

 上も下も分からない、静まり返った真っ暗闇の世界に放り出された。

 自分の手さえ見えない暗黒の中を、誠一は胎児のように丸くなってしばし漂った。


「地獄? 極楽? 知らんな。お前は見たことがあるのか? 私はない」


 どこからともなく響いてきたそれは父の声に似ていた。いかにも言いそうなことでもあった。


「結局、すべて命は輪になって巡る。それだけのことだろう。……ただ、何しろ意思あるもののことだからな、思いがこうじれば、その輪から外れてしまうこともあるようだ。あんなふうに」


 遠い星のように、闇に小さくハチの姿が灯った。


「後に残してきたお前のことが、よほど気にかかっているらしい。ハチはを離れてしまった」

「そんな」

「お前の傍に近付くこともできず、このまま永劫の闇をさまよい続けることだろう」

「そんなの駄目だ」


 誠一はどこにいるとも知れない何者かに向かって声を張り上げた。


「ハチを助けてください! 何でもしますから!」

「そうか。では、お前が持っているものを差し出すがいい」


 持っているもの。

 ああそうか、と誠一は得心した。これを手放さなければならないのだ。

 硬く握り締めていた右手を開くと、ハチの小さな牙は、いびつな真珠のようにきらきらと輝いていた。

 光に誘われたのだろうか、ハチが遠くから駆けてきて目の前で立ち止まった。

 胸が切なく痛んだ。しかし迷いは刹那だった。誠一は牙を摘んでハチに見せた。


「ほら。返すよ、ハチ。行っておいで」


 ハチが小首を傾げる。

 笑え、と誠一は自分を励ました。笑え。ハチが安心して行けるように。


「大丈夫だから。僕、大丈夫だから」


 誠一は牙を放った。

 牙は宙に光の帯を引き、ハチのすぐ後ろに落ちて光の輪になった。

 ハチがちらりと鼻先を向ける。

 誠一が頷くと、ハチは迷うことなく光の中へと走って行った。

 ハチを受け入れた瞬間から、光の渦は急速にその大きさを増していった。広がる純白の渦はやがて誠一の身体をも飲み込み、目を開けていられないような眩さですべてを包んだ。

 父に似たあの声が、どこからともなくまた響いてきた。


「胸にめておくといい。あらゆるものが等しく負った『流転るてんの定め』に照らしてみるとき、いつか吹く風がかつてハチだったことを誰にも否定したりはできない」


 教え諭すような、慰めるような、何とはなしに不器用な感じのする声だった。お前が強く信じるとき、ハチはきっといつもすぐ側にいる。誠一は、声の主が伝えようとしたことを頭ではなく心で理解した。

 ぱん、と音がして純白の世界に細かなヒビが入った。砕けて足元が抜けた。

 次に投げ出されたのは無数の輝きと暗黒の海だった。

 誠一は目をみはった。いつか本で見た『宇宙』そのままの光景がそこにあったからだ。

 暗い宇宙の端から見ればちりに過ぎない小さな光たちの中を、誠一は真っ直ぐに飛んで行く。光はどれも銀河だった。近づけば近付くほど光の帯は太く大きくなった。

 光の帯を形作る、赤や青、色とりどりの瞬き。銀河の砂粒にしか見えないものはすべて巨大な星だった。やがてその中の一つが不思議に懐かしい青さで誠一の目を奪った。

 雲を纏った青い星が近付いてくる。大地を薄く覆った、遠目にはかびにしか見えないものは広大な緑の森だった。これが自分の暮らす星だ、と誠一は直感した。

 遠い宇宙からの旅を終え、小高い丘に降り立った。大きな深呼吸をすると、海に陸に空に、地の底に、無数の命が感じられる気がした。

 誠一は循環する生と死を思い、これまでとこれからの間にまたたく自分という命を思った。その一瞬のうちに偶然巡り会い、そして別れたハチという命を思った。

 世界は欠けてなどいなかった。ほんの少し、その有りようを変えただけだった。

 見上げれば満天の星。

 じっと見守るうちに、それらの星々が整然と並ぶ数限りない光の集合になり、やがて小紋に染め抜かれた紅葉の柄へと姿を変えた。

 大きく広げていた片袖を、女がゆっくりとその身に引き寄せた。

 誠一は我に返った。辺りは再びあの夕暮れの野原に戻っていた。

 女はもう、怖い顔で追いかけて誠一のことを脅かそうとしてはいなかった。

 それどころか、慈しみ深い、女神のような微笑みをたたえてこちらを見ている。


「誠一、後でほこらの裏を見てごらん。小さな塚がこしらえてあるから」

「……塚?」

「誠吾が作った、新しいハチのお墓さ。庭をならす前に骨を掘り出して、埋め直したんだ」

「ハチの墓を、お父さんが?」

「聞いてなかっただろう。言い忘れてたみたいだよ。あれは忘れっぽくて良くないね」


 肩をすくめる女につられて誠一も笑った。


「じゃあまたね。ちゃんとお寺に行くんだよ」


 そんな言葉を最後に、女も夕焼け空も白く薄らいで消えていった。

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