第5話

 物寂しい景色の中を女に追われてひた走る。

 誠一は本気で怖いと思った。行けども行けども夕暮れの草原だ。赤く燃え立つ山並みは遠く、鰯雲いわしぐもの空は果てしなく広い。

 しかも、まるで雲でも踏んでいるように足元がおぼつかない。捕まりたくない気持ちとは裏腹に身体が言うことを聞いてくれない。

 女が衣の裾を蹴立てて追ってくる。速い。こら待て不孝者と叫びながらどんどん迫ってくる。

 あ! と思った時には遅かった。誠一は後ろから突き飛ばされて草の海を転がった。


「おや? 誰じゃ、生きたままでここへ何をしにきた」


 聞き覚えのある声に恐る恐る目を開けると、仰向けに倒れた誠一をカヨ婆が見下ろしていた。

 カヨ婆! 起きて抱きつこうとした誠一は、しかしその寸前で踏み留まった。顔は似ているがカヨ婆ではない。薄汚れた白っぽい着物に長い杖。白髪を振り乱したよぼよぼの婆様だ。


「これ、答えんか坊主。さいの河原に生者が何用かと聞いとる」

「賽の河原?」


 気付けば辺りは黒々とした流れに臨む広い河原だった。小石が足の裏に痛くて仕方ない。

 見回してみても、追ってくる女の姿はなかった。水際には杭に結ばれた小舟が一艘。遠いとも近いともつかない向こう岸に目をやると、そちらには一面に靄のようなものがかかって見える。


「ただでさえ困った奴が来とるのに。儂も爺さんも、お前の相手なんかしてはおれんぞ」


 婆様が指さす先には、彼女と同じくらいみすぼらしい格好をした爺様と、その彼に首根っこを掴まれた白い毛玉の姿があった。

 誠一は驚きに目を瞬いた。短い手足をジタバタと動かすそれは紛れもなく――、


「ハチ!」

「知っとるのか。だったらお前、あの犬ころの冥銭を立て替えておやり」

「めいせん?」

「三途の川の渡し賃さ。払って渡らなきゃへは行けないだろう」


 向こうとは死後の世界のことだろうか。誠一はゴクリと唾を飲んだ。


「もし渡らないとどうなるの?」

「渡らないと? 犬なら、そうさねえ」


 婆様はひどく薄気味悪い笑みを浮かべた。


「鬼どもの晩飯かねえ。でもあんなに小さいんじゃ腹の足しにはならないかもねえ」

「払う! 僕が払うよ!」

「よしよし。だけど何だい、手持ちは無さそうじゃないか」


 銭など持たない誠一は、代わりに衣を脱いで手渡すことになった。婆様は衣を掲げて爺様に振って見せる。ハチを抱えた爺様は待ってましたとばかりにみぎわに歩み寄り、を解いて小舟を出した。


「あ、待って!」

「こら餓鬼、危ない! 戻りな!」


 誠一は婆様が止めるのも聞かずにハチを乗せた舟を追いかけ、暗くて冷たい水に勢い良く飛び込んだ。耳元で気泡が籠もった音を立てた。思いがけない深さに焦ってもがくと、ふいに水の底が抜けた。

 誠一は硬い石畳の上にしたたか尻餅をついた。

 混乱に追い打ちをかけるように、雷じみた怒鳴り声が降ってきた。


「そこへ直れ無礼者! 閻魔大王様の御前であるぞ!」


 いつの間にか、周りは見上げるような石柱に囲まれた広大な一間ひとまだった。あちこちで篝火かがりびが焚かれていて煙がひどい。絶えず感じられる地鳴りのような低い振動に胸が悪くなってくる。

 目の前には巨大な机があり、黒地に錦の刺繍も派手派手しい、豪華極まりない衣装を身につけた大男が両脇に獄卒鬼を従えてふんぞり返っていた。どう見ても手代頭の幸吉だった。

 幸吉の顔をした閻魔は右手のしゃくで誠一を指した。


「お前か、あの悪い犬を追って来た小僧というのは」

「悪い犬?」


 閻魔が顎をしゃくると、彼の左斜め後ろ、置いてあった大きな鏡にハチの姿が映し出された。

 誠一は愕然とした。ハチがどことも知れない岩場で獄卒たちに追い回されていたからだ。


「あの犬は摩羅マーラだ。教えを妨げる者。あれのせいで、お前は爺さんの法要に行こうとしない。そうだろう」


 閻魔の眼差しは厳罰も当然とばかりに冷ややかだった。誠一はその場に手を突いて懇願した。


「ごめんなさい! お寺にはきっと行きますから、ハチをいじめないでください!」

「本当か? 約束できるか?」

「はい。だからハチを」

「ならば、何でも良い、約束の証を差し出せ」


 迷っている暇などなかった。誠一は寄ってきた獄卒にはかまを脱いで手渡した。

 とうとう越中えっちゅうふんどし一枚になってしまった。

 しかし今は恥ずかしさも恐ろしさも後回しだ。

 誠一は机に頬杖の幸吉閻魔に向かって一礼し、獄卒鬼に促されるまま、思い切って鏡の中へと飛び込んだ。

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