第4話

 浜北誠右衛門は一家を成した後の名乗りで、初代は元の名を誠吉せいきちといったらしい。

 誠吉は伊勢、鈴鹿に生まれた小紋の型紙を彫る型彫師だ。

 数多くの斬新な意匠を考案して江戸小紋の流行を支えた職人の一人であり、諸藩からの声掛かりを断り続け、生涯どこの御職人にもならなかった孤高不恭ここうふきょうの匠としても名高い。

 そんな先祖にまつわる数々の逸話の中で、誠一が特に好もしく思うものがある。

 江戸での活躍を期して故郷を旅立った若き誠吉が、道中、いたずら好きな狐たちに化かされてしまう話だ。

 菅笠すげがさ縞柄しまがら半合羽はんがっぱ。振り分け荷物に筒脚絆つつきゃはん旅装りょそうの青年誠吉は中山道を江戸へと向かう道すがら、立ち寄った善光寺の門前で物乞いの老婆と行き合う。


 ――寒いのう。寒いのう。何か恵んでおくれでないか。


 誠吉は菅笠と半合羽、薬の類もあるだけ出して快く渡す。

 また行くと、今度は往来で貧しげな子供たちに取りすがられる。


 ――ひもじいよう。ひもじいよう。兄さん何かおくれよう。


 誠吉はめいめいに飴をねぶらせ、旅費の半分、二貫文もの銭を分けて握らせる。

 さらに行くと、今度は藪の向こうに、数人の野盗に囲まれて泣き顔の若い女を見つける。


 ――堪忍してください。堪忍してください。赤ん坊が帰りを待っているんです。


 誠吉は彼らの間に割って入り、衣も荷物も旅費の残りも、すべて差し出して女を逃がしてやる。

 とうとうふんどし一枚になってしまった誠吉を取り巻いて、野盗の無頼漢どもが大いに笑う。


 ――素寒貧すかんぴんだなぁ兄さんよ。まったく、神も仏もありゃしねえ。そう思うだろう?


 いいやちっとも、と誠吉の表情はなぜか清々しい。彼は軽く握った拳を目の前に掲げてこう返す。


 ――俺は型彫りだ。この腕一本で生き抜いて行けと、神様仏様、かえって目をかけて下さってるのさ。


 その言葉を聞いた途端、野盗たちは揃って狐の正体を表す。逆境にもめげない誠吉の男っぷりに感じ入った狐たちは、彼に向かって平身低頭、非礼を幾重にも詫びて藪の中へと去っていく。

 狐たちが消えた後には、誠吉が手放したはずの品々が笠から銭まですべて残っていた。はじめに会った老婆も次の子供たちも、助けた若い女も、実は狐が化けたものだったのだ。

 誠吉が困り事に遭うと狐が現れて助けてくれたなど、他にも狐が出てくる話は多い。

 型紙作りから生地の染め、さらに縫製へと家業の軸足を移していく中で、浜北の家はいつしか祠を建立して狐を祀り、やがて『稲荷屋』の屋号を掲げるようになった。

 狐とは、だからとても縁が深い家なんだよ。誠一も親たちからそう聞かされたものだが――。

 目を覚まし、上体を起こした誠一は驚きに口を開けたまま固まった。

 狐の面を被った女がすぐ目の前に立っていた。紅葉柄の小紋を着た丈高い女だ。

 女は夕映えを背にしていた。いつの間にか周囲はどことも知れない野っ原に変わっていた。

 冷やりとした秋の風が野面のづらを撫でて吹き過ぎ、混乱しきりの誠一を芯から震えさせた。


「何だいその泣きそうな面は。まったく。情けない男は嫌われるよ」


 女はおもむろに面を脱いだ。現れたのは、やや吊り目がちな、ほっそり整った瓜実顔。たいへんな美貌だ。

 誠一は状況も忘れて女の優しい微笑みに見とれた。――ところがだった。

 えへんと咳払いを一つ、女は誠一を睨みつけて急に荒っぽい声を出した。


「誠一、お前は蔵に隠れて誠太郎の大祥忌だいしょうきをすっぽかすつもりでいるな」


 死んだ祖父の名が出てきた。誠一は総身が粟立つのを感じた。


「ぼ、僕は……、別に、その」

「不孝者め。そんな子は浜北の家に相応しくない。私が食ってやろう」


 十指を鉤形かぎがたに曲げた女が、美しい顔に凄絶な笑みを浮かべて迫ってきた。

 悲鳴が喉まで出かかった。女に背を向けた誠一は脱兎のごとく逃げ出した。

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