第3話

 誠一は寝転がってただぼんやりしていた。

 誰にも見つからないよう、窓は裏手にあたる西側だけを開けてある。

 そろそろ暮れ方近い、斜めに差すの光が、少年の着物と袴を照らしている。今朝刈られたばかりの坊主頭の下で、どんぐり眼は薄暗い天井を見上げている。

 型彫師かたほりし浜北誠右衛門はまきたせいえもんを祖に持つ浜北家が、庭に二棟ふたむね有する白壁の土蔵。その一方の二階に彼はいた。

 盆暮れにしかてされないそちら側の蔵の窓の一つが、実は外からも容易に開けられることを、誠一は今年の盆に知った。細い針金を隙間に差し入れてやると緩い掛金があっさり持ち上がるのだ。

 正面扉の鍵を管理するのは父の誠吾。なので、入り込んでしまいさえすれば、蔵の中に人がいるなどとは家人の誰もまず考えない。今日、そんな秘密の隠れ家へと上手く忍び入った誠一の心は、しかし、少しも晴れずにいた。

 母屋の増築にあたって、ハチの墓だった庭の隅が均されてから二日が経っていた。

 神社の石段の前で拾ったのが去年の今頃だから――、と誠一は懐かしく思い出す。ハチとの付き合いはたったの半年。考えてみるとえらく短かったのだ。

 それなのにどうしてこんなに哀しいのだろう。不思議だった。ハチが門前で車に轢かれたときと同じ涙を、半年が過ぎた今になっても、誠一は流そうと思えばいくらでも流すことができた。

 黒土の中から見つけ出したあの牙を目の前にかざした。


『死んだらどうなるかもお前が決めてやれ』


 父からの言葉に、誠一は心細いような不安な気持ちを覚えた。分からないのだから決めようがないじゃないか、と思う。気塞ぎな心は、ともすれば良くない考えばかりを脳裏に描かせた。

 地獄も極楽もない、どこまでも続く無限の闇をとぼとぼと歩く白い子犬の後ろ姿。

 死が、終わりのない虚無への入り口だったらどうしよう。

 誠一は恐ろしくなって、小さな牙をきつく胸に抱いた。

 こんな気持ちのままでお寺になど行って良いわけがない。死んでしまった祖父を素直に悼むことが、今のままではきっとできない。こうして蔵に隠れたのは、何も家人を困らせたいからではないのだった。


「お祖父様は、死んでどうなったんだろう」


 二つの時に死んだ祖父のことを誠一は覚えていないが、写真で見る限りとても怖そうな人だ。

 厳しい人だった、と誰に聞いても同じ答えが返ってくる。浜北の者は血縁も使用人も、誰もが皆、先代様の教えを受けて一人前になった、と。今でも夢に見るほど怖いという者もいた。

 それだけ人に辛くあたったお祖父様は、死んだ後、どうなったのだろう。

 ハチは誰にも嫌な思いなどさせなかった。むしろ、誠一のことを毎日楽しい気持ちにしてくれた。庭先を一緒に転がり回る誠一とハチを見るたび、誰もが、あの滅多に笑わない父でさえ微笑んだものだ。

 けれど今は――。気持ちが一気に沈む。ハチのことを、思えば思うほど辛くなる。

 誠一をこんな暗い気分にさせることは、車の前に飛び出したハチの罪だろうか。轢いた運転手の罪だろうか。それとも心を強く持てない誠一自身の罪だろうか。よく分からなかった。

 その時、ふとそれに気が付いて、誠一は暗い思案の海から蔵の二階に舞い戻った。

 所狭しと置かれた中身の知れない行李や用箪笥、種々雑多な道具類。それら黴臭い品々を梁の高みから見下ろす、秘密めいたある物を見つけたのだ。薄暗い天井を縦横に走る立派な梁の上にそれはあった。どうやら平たい木箱のようだった。

 誠一は手に取ってみずにはいられなくなった。重ねた行李を踏んで手を伸ばした。

 その薄い桐箱は、袋織りの赤い真田紐さなだひもからげられていた。埃も構わず紐を解き、蓋を取る。

 現れたのは、丁寧に額装された、見るからに古い渋紙しぶがみだった。


型紙かたがみだ」


 小紋の型染めに用いられる型紙だ。

 今は販売専門の『稲荷屋はまきた』だが、近年まで着物の縫製も請け負っていた。それ以前には生地の染色を手掛けた時代もあり、さらにさかのぼると、江戸では珍しく型紙の製造から自家で行っていたという。

 添え書きも何もないが、当時の、何か特別な一枚をこうして保管しているのに違いなかった。

 誠一は我知らず感嘆の溜息をついた。あちこち汚斑おはんの浮いた年代物らしいその型紙には、呆れるほど細かな彫り込み方で、規則正しく、これでもかとばかりに紅葉もみじが敷き詰められていた。

 爪の欠片よりも小さな隙間の集合が意匠となり、その不断の連続が物語を描くかのように見える。これを機械ではなく人の手が作り出したのだという事実に、誠一の胸には言い知れない感動が湧いてきた。

 いったいどの一彫りから仕事を始めたのだろう。端からか、中央からか。のみを使ったのか、それとも小刀か。何にせよ膨大な手間と熱意、根気と努力でもって彫られたことは疑いようもない。

 この型紙を生地に当てて糊を置き、地色を染めて蒸した後に洗い上げるのだ。色により布により、またあつらえ方により着る人により、世に現れる小紋の姿は様々。無限だと言ってもいい。

 まるで満天の星を眺めている気分だった。誠一はささくれ立っていた心が次第にいでいくのを感じた。

 何の前触れもなく、どこか遠くで犬が吠えた。

 型紙の額をそっと床に置き、陶然とした気持ちのまま、誠一は窓際に寄って外を眺めた。

 暮れなずむ秋空の下、稲荷の祠がある林を挟んで、すぐ向こうに川が見えた。

 江戸の昔には『はまきた』の職人たちが腰まで浸かって反物たんものをしごいたという、幅のある流れだ。

 生前のハチを思い出して、誠一はまた胸が苦しくなった。よく一緒に歩いた川縁。駆け出しては立ち止まり、そのたびに振り返ったハチ。喧嘩が弱かったハチ。揺れる巻尾のハチ。


「……会いたいなあ」

「おやまあ。甘えん坊だね」


 突如、すぐ後ろから響いた女の声。

 弾かれたように振り向いた誠一は、鼻が触れるほど間近に迫った狐の面を目にして、驚きと恐ろしさのあまり、すうっと気を失ってしまった。

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