辻橋女子高等学校⑧ ― 弟愛が強いのかサディストなのかは紙一重
誰だ俺を坊やと呼ぶやつは!!!
…………なんて言いません。言いませんとも。もうそんなのいわずもがなだわ。確かにこの人は口数少ないけど、毎日話してんだから嫌でも脳細胞に記録されちゃってるわ。秒でわかるわ、秒で。
っていうかそんなことより―――。
「姉御! なにしてんだよ!!!」
「ん?よく私だとわかったな。褒めてつかわすぞ」
「褒めなくていいから。今褒められてもなにも嬉しくならないから。嬉しくなるものもならないから。心にちょっと生まれた喜びがすぐ痛みでかき消されてるから!!!早く下ろせ!何なんだこの状況は!!!」
「なんだと言われてもな。ただお前が私の脚と腕に乗っかり、いつもより少しばかり天井に近づいているだけだ。すこーしな。すこーーーし」
「俺が自ら進んでやってるみたいな言い方するな!寝込みを襲うなんてフェアじゃねーぞ!!そしてなんだその少し少しアピールは!!!」
なんだなんだ?
今日の次女は絶好調にして上機嫌なご様子ですこと。
ま、あれだけ騒げばストレスがはけるわな……。
「何をいう。お前が私を起こしに来ないからどうしたのかと思って心配して来てやっているのだぞ。そして寝ているお前を起こしてやろうとちょっと体をゆすってやったら、いきなり「……吊り天井……やって」と、お前の方からせがんできたんだぞ。だからこうして私はかわいい弟が望むことをかなえてあげたいからこうして私が自ら下敷きになって、土台となってやっているのだぞ」
吊り天井というのはプロレスで使われる関節技の一つ。ロメロスペシャルだ。技をかける方が下になり、両脚と両腕で相手を持ち上げる。かけられている方は両腕両脚が体の後ろに向けて固定される。わかりやすく言えば、空中でブリッチしているような格好という表現が今の俺の状態に近いイメージを作りやすいかもしれない。
「んなことあるわけねえぇぇだろうがぁ!こちとら爆睡してたんだぞ爆睡!爆発の爆に睡眠の睡!爆発があっても起きないほど寝てるってことだぞ。そんな誰かさんじゃあるまいし寝ている間に勝手に動き出したりしねーよ!」
「ん? 誰のことだそれは。全然ピンとこないぞ」
こいつ……マジで言ってやがる。
弟の俺にはわかる。姉が本気で言っているのか、とぼけているのか―――微妙な話し方の違いというのはあるものだ。その差異を知っている俺の本気orおとぼけ判別レーダーが反応し、沙紀は本当に俺の言葉にピンときていないという結果がでている。
言うまでもなく、俺の言う誰かさんは沙紀のことだ。
人間の脳というものは、睡眠と深い関わりがあるらしい。むしろ脳が欲するから、睡眠をとらなければならないのだろう。体力が十分にあるなら、脳がそのまま活動できるのなら、そのまま起きることができるはずなのだから。それができなくて必要だから、我々人間は体を倒し、横になってある程度の時間を睡眠に費やしているのである。
しかし、どっかの誰かさんは違う。
沙紀の睡眠は、一般的に言われている人間がとる睡眠時間よりも少ないかもしれない。
言い方を変えれば、ベッドや布団に横になって目をつむって意識を失い、長時間無防備な状態を晒すということが普通の人よりは少ないと言うことができると思う。
夕食を食べて、風呂に入って、パジャマに着替えて自分の部屋で眠りに着く―――この一連の行動は確かに行っている。学校で学んだのであろういろいろなお上品なご作法とやらを見せびらかし……もといしっかりと行い、それはそれはおしとやかにご就寝なさる―――ここまでが‘沙紀の身体’が行う日課のようなものだ。
そしてその‘沙紀の身体’は、眠ったかと思ったのも束の間、ものの数分でもう布団の中にはいない―――なんていうことが、年に何回かある。それがたまたま昨日―――いや今日だったという話だ。
―――まあこの件に関して、今は多くは言わないでおこう。疲れを引きずったまま、ロメロスペシャルをくらいながら昨夜のことを話すなんていう余裕は今の俺にはない。
今俺を持ち上げているこの無表情にして実はかなりこの状況を楽しんでいるに違いないこの女は、たぶんまた数分しかベッドに入ってないだろう。ドアノブに魚眼レンズを通したような沙紀の顔が映っているが、すでにいつでも登校できる状態に仕上がっているのがわかる。
通常、ここまで仕立て上げてやるのにちょうど三十分くらいかかる。昨夜のようなことがあった時は、このように自ら準備をするなんていう、もはや奇怪と呼んでもいいくらいの寝起きを見せるが、こんな特別じゃない日は、深い眠りに落ちているようで起こすのに相当苦労している。その沙紀を起こすので十五分かかり、その後は制服へのドレスアップへと移る。その間に、沙紀を無理やり起こしたことによって、そのわずかな時間に蓄積されたイライラをひと時のチョークスリーパーをかけることで瞬時にストレスを発散する。かけられているのは言うまでもなく俺だ。気を済ませた後、沙紀は着替えを始める。学校の指導方針で何かといろいろあるらしく、高校に入ってから俺に自分の世話をさせることが減った。ゼロではない。確か「すばらしい淑女になるために」みたいな感じの理念を掲げている女子高だったから、日常生活の基本的なところは自分でやろうと思っているのだろう。
……その思い―――自分でやるという思いは、まぁ伝わってはくる。
でもそれは弟の俺だから伝わるのであって、他人ではきっと、お片づけを命じられてやると返事をしたのにもかかわらず一向に片付けようとしない子供みたいに見えるかもしれない。
よくある展開はこうだ。
沙紀を起こす。締め技または関節技を決められる。どうして自分が起こされたのか問い詰められる。冷静に諭し、自分が今おかれている状況を理解してもらう。一分一秒を争っていること。少しでも遅れれば学校に遅刻するということ。自分は生徒会長という立場にあること。生徒会長が遅刻すれば、他の生徒に示しがつかないこと―――。事態を飲み込む。着替えるから出て行けと言われ、出て行く。数分後、ドサッと物音がなる。中に入るとその物音の原因がなんだったのかが一目瞭然の光景がそこにはある。それは、ドレッサーにうつ伏しているだったり、そもそもそのイスに座れずにこけていたり、ベッドに再び戻ろうとしているだったりと様々。スムーズに着替えまで終わっている方がめずらしい。俺は再びたたき起こし、今度はたたき起こしながらパジャマを脱がせ、着替えさせる。女子高生なら別に化粧なんてしなくていいだろうに、わざわざしていく。学校側は淑女になるための化粧のみ認めているらしく、ギャルに見られる派手だったり厚かったりする塗り方は校則違反らしい。生徒のほとんどが化粧しているらしく、沙紀もしないわけにはいかないのだそうだ。近年稀にみる校則だが、確かに将来的には淑女になるためにはそういう技術も必要だろうから一理あるなとは思う。仕立て上げてもふらふらしている沙紀。どこで目がさめるのかと言えば、食卓に座らせ、コーヒーを口に含んだとき。おいしさで目が覚めるのだ。めんどくさい。雑な入れ方をして味を落とせば一向にシャキッとしないのだから。
つまるところ、このことだけ切り取ってみれば、うちの次女は口だけ女ということができるだろう。口達者なのは間違いないけどね。
学校では有言実行で名高い沙紀だが、家ではなんたる実現力の無さか。毎日三十分で送り出すことができるのはもはや神業といっていいのではないかと思っている。自分で言うのもなんだけど。学校の教えに従い、自分のことはなるべく自分でしたいと思っている沙紀だが、朝に関してだけ言えば、それは果たしていつ達成できるのか、生きている間にそんな姿を、沙紀が自分でベッドから起きて着替えて朝食を自分で作って食べて「行ってきます」と言って外出する日がくるのかはなはだ疑問符が大量に浮かんでしまうところなのだが―――。
そのはずなのだが―――。
「おい、姉御! いい加減下ろしてくれ!!! 息がしにくくてしんどいよ、このサディストが!」
そういうと、沙紀は突然俺を宙に放り投げた。
そして着地先は沙紀の肩の上だった。
二人でまるでかかしの組体操でもしているようだ。
「ところで、今日のジュニアの機嫌はどうだ?」
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