沙紀
――コンコン。
「誰だ」
部屋の中から沙紀の声が聞こえた。
「奏陽だけど」
「合い言葉は?」
なんだそれ。いつの間に設定されたんだ。
「知らないけど」
カチッと鍵をかけられる。嘘だろ。今度から掃除するとき、いちいちそんなことせにゃならんのか。
「うめぼし」
「違う」
「はちみつ入りの」
「全然違う。今度はもっと酸っぱいのがいい」
突然いちゃもんが入りました。一番悩まなくてよかった沙紀の要望に難癖入りました。
「ヒントくれ」
「ヒントなんてない」
それは合い言葉なんて存在しないからじゃないのか。なんからちがあかなそうなので、一撃必殺の一言を口にするため、息を大きく吸う。
「沙紀姉の枕の下には、あの国民的人気アイドルのあの人があんな顔であんなことをしている写真が……うわっ!」
ドアが勢いよく開き、部屋の中に引きずり込まれた。木目の床にうつ伏せに投げ飛ばされると、沙紀は俺の両足をそれぞれの脇の下に挟み込み、しこでも踏むような格好で俺の背中を反らせる。一言でいえば、プロレス技で言う逆エビ固めだ。
「わかっ……た、わかったから! もう言わないから。もう入れてもらったから。もう言う必要ないから言わないから大丈夫だからそれやめてーー!」
沙紀の振り向きざまの感情の読めない大きな瞳が冷たく俺をさげずむ。
「ごめんなさいがない」
「ごめんなさい!」
ようやく解放された俺は腰をいたわりながら起き上がった。
沙紀の部屋は、三姉の中で最もすっきりしている。逆に言えば、すっきりしすぎている。ミニマリストというのだろうか。必要なもの以外、この部屋にはない。ベッド、机、?笥――6畳の部屋にすっきりと収まっている。
「結局、合い言葉は何だったの?」
「そんなものない。奏陽が何か面白いこと言うかと思って言ってみただけだ」
こうやってクールなフリしてたまに茶目っ気のあることをやってくるのが沙紀らしいといえば沙紀らしい。人間味がまだ残っている証拠でもある。そういうことを言ってみたい年頃のようで、真剣に冗談を言ってくるもんで、それゆえに冗談と感じられないから困るときがある。沙紀なりに姉弟コミュニケーションを図ろうとしてくれているのかもしれないが。
沙紀は一つ年上の絶賛高校三年生で、受験を控えている。俺とは違う高校で、私立の女子校の生徒会長をしている。こういった男勝りの話し方は、そういったかたっ苦しい役職に適任かもしれない。
「それでどうした。何の用だ」
沙紀は椅子に座って足を組んだ。履いているホットパンツが紺色なので、そこから長く伸びる脚の白さが際立つ。沙紀の身長は160cmと高すぎず低すぎずと言った具合であるが、顔が小さく、手足が長くて等身が良いため、身長がそれ以上にあるように見える。三人の中では長女についで2番目に高い。
ずっとおっきい目で無表情に俺の様子を伺っている。そんなに俺の方から訪ねて行くことはないからな。何事かと思っているのかもしれない。意外性をつくにはもってこいな状況というわけだ。さて、やってみるか。自分の未来を切り開くために!
「あのさ、パンツちょうだい」
自然に言った。言えた。なんの躊躇も恥ずかしげもなく言い放ってやった!
沙紀は、俺を見つめたまま固まった。しばらく見てると、なんか瞬きを全くしていないような気がするが気のせいか。
「……それは下着のことか?」
ようやく沙紀が口を開いた。いい加減目が乾いてないか心配になり瞬きを促そうとしたところだった。
「そうそう」
感情を読み取らせないように無表情で答える。無表情と無表情が対峙する。
「奏陽、そこになおれ」
正座という意味である。目線は下がり、沙紀に見下される格好になる。沙紀は足を組みながら、じっと俺を見ている。
「まず、なぜパンツが欲しいんだ?」
「あ、ええっと、それは……」
やべぇ。考えてなかった。意外な言葉を発することばかり考えていて、理由なんて考えてなかった。
「言えない理由なのか?」
「いや、違うんだ! ……いや、違います!」
今の状況に適した言い方に言い換え、機嫌を損ねないようにする。
「男が女性物の下着を欲する場合なんて、いやらしい理由しかないのではないか? 私の下着を一体何に使いたいと言うんだ。言ってみろ」
若干睨まれながら問いただされるこの状況から早くも出たくなってしまった。おっかねえ……。
「私はおまえが道を踏み外さないようにしたいだけだ。別に理由がちゃんとしているのであれば、かわいい弟だ、いくらでも私のパンツなどくれてやる」
「…………」
全く思いつかない。そもそもちゃんとした理由ってなんだ。男が女物のパンツをもらうのに正当な理由があるわけがない。
「女性もののパンツが欲しいなら、奏陽だったらいくらでも手に入れる機会はあるだろう」
はい、そうです。俺が買ってきておりますからね。あなたのパンツも。自分で買えばいいだけの話だ。沙紀のそこはかとなくいぶかしげな顔を直視することもできない俺は、最もらしい理由を見いだすこともできずにただ固く姿勢を正していた。
「もしかして……」
そう言うと、沙紀は席を立ち、俺の目の前にきてこう言った。
「ないのか……? 奏陽が履くパンツ」
………………ん?
思いもよらない言葉をかけられてしまった。いや、よく考えれば普通の解釈か。履くパンツがないからもらう。ごく普通の考え方だ。
「そうか。確かにな……。姉は高級な下着ばかり選ぶからな。奏陽のパンツにお金がまわらなくなるのも頷ける」
沙紀は腕を組んで存分に頭を頷かせている。
「わかった。お前にやろう。私の下着を」
……まじか。
あっけなくもらえそうで、肝心の意外な一面が見れていない。そして、パンツはもらえても、今後の生活に重大な支障をきたしてしまいそうな大きな誤解をされている。このままだと、沙紀からは事あるごとにパンツをプレゼントされるような気がする。使い古した自分のパンツを。いらねえよ。
これまでもらったプレゼントの中で新品のものをもらったことはない。全て自分たちの使い古しだ。あえてお下がりとは言わない。それは使用できる物に対して使う言葉であって、足が入らない靴とか頭が入らない帽子とか、相手のことを考えていない、つまりは自分にとってのゴミを渡されているわけだが、そういう物に対して使う言葉ではないのだ。
「い、いいの……?」
「遠慮するな」
そう言って沙紀は?笥の前に行って引き出しを1つ開けた。
「弟の悩み事を解決するのも姉の努めだ。この引き出しにあるものならどれでも使っていいぞ。なんなら共同利用でもかまわないが」
「共同……」
「どれがいい? 試着してかまわないぞ」
沙紀の隣に行き、引き出しの中を見る。そこには、パンツが一面に敷き詰められていた。俺がアイロンがけまでして部屋の前まで持って行くが、その後は自分たちでしまっているから、こんな光景は見たことがなかった。しかし試着って……。
「これなんかどうだ? 色的にもお前が履いてもおかしくない」
シルク生地で水色のパンツを取り出す沙紀。両手で横に広げながら真面目に俺を見る
「ピンクよりは良さそう……だね」
そういうと、沙紀はパンツを俺の手に半ば強引に渡してきた。
「早く着てみろ。だめなら他にもあるから」
あるだろうけどさ、どれもサイズ一緒だよ。これがだめならどれもだめだよ!
展開が俺にとって非常に芳しくない。早く逃げなければ、なんか、恥ずかしいことになりかねない。
「し、試着はいいよ。これ、もらっていくね」
そう言って後ろを向くと、肩をがしっとつかまれる。
「何言ってるんだ。もしかしたらサイズが全然合わないかもしれないじゃないか。それに、ピンクの方が似合うかもしれないだろう」
捕まった。完全に捕まった。こうなってしまっては、沙紀の考えていることが成就しない限り、解放されることはない。しっかり者だから、最後まで見届けないと気が済まない。
「なにぼーっと突っ立っているんだ。早く着てみろ」
こ、ここ、ここでですかお姉様ー!? 沙紀は腕を組みながら言う。
「い、いやいや、もう大丈夫ですよ。ほら、沙紀姉と腰回りだいたい似たような感じじゃ無い? 大丈夫だよ」
「……つまり、私の腰回りが男っぽいと、太いと言いたいのか?」
声のトーンが一段階下がる。沙紀はゆっくりしゃべりだした。思わず目をそらしてしまった。目に怒りがこもっているこのパターンは、1週間専属召使いの刑になったあの日と似ている。ただでさえ、十分以上の世話をしているのに、1週間つきっきり、まるでメイド、執事の如くこき使われた過去がある。
――――ガチャガチャ。
何やら音がすると思いあたりを見渡すと、自分の真下に沙紀の顔があった。
「ちょ、ちょっと! 何してんの?!!」
俺のベルトを外し、チャックを開けていた。
「お前の腰まわりと私の腰回りを比べるんだ。このままでは女のプライドが許さない」
そう言って沙紀が下にズボンを下ろそうとするのを逆に俺はそれを阻止すべく、上に引っ張って応戦する。
「わかった、わかりましたから! 謝りますからやめてくれ!」
「どうせ試着もするんだから、一石二鳥じゃないか。早くその手をどけろ」
なんという強烈な一石なんだ! なんとか下ろされないように腰元を掴んで今のどっちつかずな状態を保持するのがやっと。沙紀はすでに俺が履いているパンツにまで指をかけ、猛烈な力で一緒に下ろそうとしている。どっからくるんだ、そのバカ力!!!
「さ、沙紀姉、まじで、いいから。ほんとに、大丈夫だから!」
「うるさい。それでは私の気が治まらんのだ」
沙紀の力が急激に高まった。今にも全部見えてしまいそうだ。なにもかもが!
「うわああああああ!」
ズボンをがっちり掴んだまま、俺は沙紀の部屋から逃げだした。水色のシルクのパンツを右手に握りしめたままで……。
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