★のばしたこの手をつかんでくれ

 俺の胸は緊張ではち切れそうだった。決勝戦の千倍、いや、万倍緊張する。


 病院の屋上まで理沙を無理矢理言いくるめて連れてきたものの、いざとなると勇気が出ない。ああ、勇気が欲しい。


「どうしたの、とおるくん」


 理沙は戯けた顔。なんでそんなに可愛いんだよ。鼓動が早くなる。そんな眼で見つめないでくれよ。


「いや、あの」


 好きな気持ちを押さえられなかった。昨日帰り道に颯太が「理沙も透のこと好きだよ、間違いなく」なんて言いやがるから本気にしたけれど、間違っていたらどうしてくれるんだ。


 それで「あの、なんか、二人で話したくなった」なんて、外堀を埋めるみたいなことしか言えない。ああ、なんだよそれ。


「なあに、おかしなとおるくん」


 理沙は笑う。今日の理沙はツインテールで、すっげぇ似合っている。


 俺たちは患者の灰色のガウンや、ベッドカバーや枕カバーなどのリネンが干されている屋上を進んでいく。端と端に置かれた物干し竿から緑のロープが伸びる。


 そのロープにピンクの洗濯バサミで止められた洗い物は、風に吹かれたたこのように揺れている。俺たちはそれらを避けながら、屋上を囲んでいる落下防止のフェンスまで歩いていく。


「来てくれてありがとうな」


「うん。リハビリで通院しないといけないから大変だね」


「そうだな。バスケに戻るためには、まだまだ時間が掛かる」


 俺はそのフェンスに顎を乗っける。理沙は俺の横で面白がって真似をする。なんだかいつもよりあどけない感じが、さらに男心をくすぐってくる。


 ああもう、じれったい。


「颯太に、なんであのメダルをくれたの」


 どこから攻めようか考えていたら、理沙に先制されてしまった。秋を感じさせるもの悲しい風を額に受けて、ふわっと理沙の前髪が捲きあがる。


「ああ、あれ」俺は頬をポリポリ掻いた。


 メダルとは全国大会予選で優勝したときにもらったもので、優勝校の生徒全員に与えられたものだった。首から下げるリボンが付いた、割と本格的な奴。


「颯太のおかげで取れたから。俺、高校を卒業したらこの街を出て働くことにした。だから俺の生きた証を、あいつに預けとこうと思って」


「そうなんだ。とおるくん、この街を出ちゃうんだ」


 理沙は風を感じるように眼を閉じ、感慨深そうにする。そんなさみしい声を聞いたら、いてもたってもいられない。俺は理沙から距離を取った。


 ああ、緊張する。颯太。もし振られたら、明日はリンチだからな。


 俺は適当な距離を開けて振り返り「理沙!」と叫んだ。理沙が不思議そうにこちらを振り返る。長い髪が風に踊っている。


 俺はそこでコンクリートの地面に膝をつく。以前テレビでやっていた、海外での愛の告白をする格好だ。


「俺は高校を卒業したらこの街を出る。そして一生懸命働いて、お金を稼ぐ。そして何年後、何十年後かに、またこの街に帰ってくる。一人前の、かっこよくて、立派な男になって。だから、それまで俺のこと、待っていてほしい。俺は理沙のことが好きなんだ。だから」


 俺は理沙に向けて眼一杯に腕を伸ばす。その手には、理沙がくれた五色のミサンガがつけられている。


「もし俺を待っていてくれるなら、のばしたこの手をつかんでくれ。そしたら俺は、一生懸命理沙のことを思いながら働く。そしていつか」


 そしていつか。俺たちは家族になる。おたがいが「ただいま」って帰ってくる場所になるんだ。


「俺と理沙が、『ただいま』って帰ってきたくなるような、そんな家族に、いや、まだ家族ってわけじゃなくて。最初はその、ああくそ、まずはカップルとして。そうだ、カップルとしてだ。おたがいの場所が帰る場所にしよう。いや、してください」


 差し出した手のミサンガが風でふるえている。


 唾液が出てこなくて口はカラカラ、うまく息が出来ねぇ。足が自分のじゃないみたいにふるえてやがる。だけど俺は辛抱して待った。理沙の返事を。


「……嫌」


「え」


 俺の体から力が抜ける。

 嫌、だって。今、そう言ったのか。


「もう待つのは嫌。ずっと……我慢してたんだから」


 理沙は俺にまっすぐ近づいてくる。


「いつ逢えなくなるか分からないから。ねえ、私も連れて行って。とおるくんの側にいたい。それにとおるくんって寂しがり屋さんだもん。私とか颯太がいなかったら、きっと頑張れない。だから」


 理沙は俺の手をつかんでくれた。そしてそのまま俺の頭を優しく抱きしめてくれる。理沙のお腹のあたりに俺の顔。俺は理沙の匂いに抱きしめられていた。


「遠慮なんかしないで。一緒にいたい。私も透くんが好きだから」


 理沙は俺の頭をよしよしと赤ん坊みたいになでる。俺はなされるがままで、空いた手でガッツポーズを取る。


「うん、分かった、理沙。俺がかならず幸せにしてみせる」


 俺はどうしようもない子供だ。だけどこの想いだけは、嘘なんかじゃない。


 理沙は「私たち、ヒコクミンになっちゃたね」と困ったように眉を下げた。


「ヒコクミン?」


 耳慣れない言葉に聞き返すと、理沙は俺の鎖骨の辺りまで屈んで、ゆっくりと抱きしめながら呟いた。


「そっか、透くんは知らないよね。あのね、ヒコクミンっていうのはね」


            ★


 それから俺は理沙と付き合うことにしたその日のうちに、いつかのカフェに裕にぃを呼び出した。


 仕事が忙しいから駄目もとだったが、兄ちゃんは意外にも大丈夫だと返事をくれた。今度は時間通りに着いた裕にぃは、アイロンの掛かったシャツをビシっと着ていて、まえよりはマシな格好で安心した。


「裕にぃ、俺、高校卒業したらこの街を出る。働くことにしたんだ」


 裕にぃは無言でコーヒーを啜った。俺の決意と裕にぃの思いが交錯する。


「どうしたんだ、急に」


 裕にぃは普段より低い声だ。俺は決意が揺らがないように膝の装具に手を据え、足をぎゅっと地面に押しつける。


「俺、今まで育ててもらった裕にぃや佳子さんに恩返ししたい。やっとそう思えるようになったんだ」


 俺は押し黙る裕にぃに自分の決意を投げかける。


「幸せにしたい奴が出来たんだ。そいつがいたから、俺は今こうして笑っていられる。今の俺がある。俺はそいつと一緒に生きていきたい。そいつと二人でこの街を出る。もうそいつの手を、離したくない」


 それにいつまでも、颯太の傍にいて精神的に甘えているのを卒業したかった。あいつといると、つい頼りたくなっちまうから。でもそれは言葉にはしない。俺だけの秘密だ。


 裕にぃはこれまでになく、厳しい眼差しだ。


「透、お前が思ているほど世の中は甘くない」そうきっぱりと断言して「おまえはまだ子供だ。もうすこし俺たちの側にいろ」と言ってきた。


 俺は肩の力が抜けた。やっぱりだ。やっぱり裕にぃはそう言うと思った。


「なにを笑っている」裕にぃは軽く睨んできた。

「それって、俺がどうこうっていうことじゃなくて裕にぃがさみしいからじゃないの」


 俺は笑いながら、意地悪く訊ねてみた。裕にぃは自分の本心が見抜かれて狼狽ろうばいしながらコーヒーを啜る。


「なんでもいいだろう。とにかく、俺は反対だ。おまえはまだなにも分かっちゃいない。いきなり縁もゆかりもないところに飛びだして、一人でやっていけるほど、社会は簡単には出来ていない」


「そう言うけどさ、裕にぃは俺と同じ高二のときに家を出たんだ。それと一緒だよ」


「一緒じゃない」


「あのね、裕にぃ」


 俺は自分の思いを言葉にしたためていく。


「裕にぃの言うとおりだ。人は一人じゃ生きられない。だからさ、だれかと約束すんだよ。だれかに自分のことを必要としてほしいからさ」


 俺が颯太の分まで走ると約束したように。


 だが俺たちは悲しいかな、季節が巡るに連れてすこしずつ変わっていく。結んだ約束も形を変えていく。それは悪いことじゃない。


 だけど一つの約束だけじゃ、ずっとは頑張れない。だから色々な奴に出会って、新しい約束を結んでいく。そうすれば、つらい世の中でも生きていけるんだ。


 俺は裕にぃの眼を見据える。


「裕にぃは俺に約束してくれたよな。俺が高校を出るまで支えるって。幸せな生活を保証するって。俺は十分幸せだ。裕にぃは百点満点で約束を果たしてくれた。だから」


 だからさ、裕にぃ。

 新しい約束を結ぼう。このくだらない世界を、一緒に笑い飛ばしてやろうぜ。


「約束しようぜ。今度は俺と裕にぃの幸せ対決だ。どっちがより可愛い彼女を見つけてイチャイチャして、金を一杯稼いで、世のなかを渡っていくか。裕にぃが出ていったときみたいに、一方的に結ばれる約束は、なしにしてよ」


 裕にぃはその場で顔を覆ってしまった。俺たちの幸せのために、どれほどの重圧を背負い、日々の幸せを犠牲にしてきたのだろう。だけどもうすぐ、その責任から解放される。


 裕にぃ。弟ってのはな、兄貴も幸せになって欲しいと願う生き物なんだぜ。


「そうか。お前はもう出て行くって、決めたんだな」


「うん、笑って見送ってよ」


 裕にぃは顔を上げ、泣き笑いになる。俺もその笑顔に答える。裕にぃの目尻に光るものは、見なかったことにしておいた。

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