☆日常風景

 透の怪我から、一ヶ月経った教室。


 いろいろなことがあって、夏は下り坂になってきていた。それでも暑い日は続いていて、クーラーが入っていない渡り廊下やトイレは億劫で、どうしたものかなって感じだ。そして夏の実力試験も間近に迫り、僕は本格的に勉強を開始することにしたんだ。


           ☆


「ハカセ、ここ教えてよ」


 一番まえの席で頑張るハカセの背中に尋ねる。僕はこのまえの席替えで、ハカセの横の席を希望した。透と冷は「もう颯太とは絶交だ」とからかってきた。


 聞こえているはずなのに無視するハカセの机を、シャーペンでノックする。ハカセは怪訝けげんそうに『ネイチャー』の雑誌を閉じた。


「いい加減にしてくれ。なんでもかんでも教えてやると思うな。自分の頭を使え」


 ハカセはしつこく質問してくる僕に嫌気がさしたのか、最近まともに相手してくれない。まるでハエとか蚊を追い払うみたいに、あっちにいけと門前払いだ。


「そんなこと言わないでよ。僕たち友達じゃん。僕ね、新しい夢が決まったんだ」


「え、なになに、教えて」


 頑張ろうとする僕に恋の女神様が微笑んでくれているのか、今度は僕の後ろの席になった亜弥が覗きこむ。


 その瞳のきらめきといったら、きらきらお星様が反射するみたい。なんだか言いづらいなぁ。


「僕ね、お医者さんになりたいんだ」


「無理だ」ハカセは即答した。

「人の夢と書いて儚いと読む。颯太はその言葉の意味を、良く吟味したほうがいい」


「そんな夢も希望もないこと言わないでよ。、これからは同じ夢を追いかけるライバル同士、仲良くしてよ」


 僕はちゃっかりとハカセの対面に座り、ハカセの雑誌を取りあげる。ノートを一番上に滑り込ませ、上目遣いに伺う。ハカセは研究が上手くいっていない本物のハカセのように苛立った表情だ。


「颯太がライバルだって。寝言は寝て言え」


 ハカセはまったく取り合ってくれない。それどころか席を立って、どこかに行ってしまった。さすがに教室の外まで追いていくのはしつこいと思い、トボトボ自分の席に戻る。


 仕方ない、自分で解き直そう。


「颯太くん、お医者さんになりたいんだ」


 ハカセの席に座る亜弥の声に、僕の胸に夏の大陽が宿ったみたいに熱くなる。


「うん、まだまだ遠い夢だけどね」どうしてもまだ、強くは言えない。「お医者さんになりたいんだ」


「颯太くん、耳かして」


 今度は亜弥に向いている左耳に熱が籠る。そんな僕に亜弥はこっそり耳打ちしてくれた。その行為は恋人同士の特権みたいでドキドキしてしまう。


「私もね、家を継いで女医さんになろうかなって思い始めだんだ。そしたら大学でも一緒だね」


「そっか、亜弥の家ってお医者さんだったね」


「ふふ、私ってこう見えて、頭良いんだよ」


 亜弥は今日配られた模試の成績を、僕の顔の前に広げた。じゃーん、と効果音までついている。亜弥は三百七十人いる学年で三番という成績だった。


 ああ、忘れていた。亜弥って家柄も良くて才色兼備だ。


「ライバルたちが遠すぎるよ」


 僕は慌てて勉強に取りかかろうとした。僕なんか、まだ二百番くらい。これではお医者さんなんて夢のまた夢だ。


 亜弥はどれどれと淡い栗色の髪を耳に掛けながら、問題集にきれいな顔を近づけた。長いまつげがパチパチとはためいて、否が応でも見とれてしまう。


「そういえば」亜弥が顔をあげる。

「もしかして、颯太くんがお医者さんになろうって決めたのは、透くんの膝の怪我が関係しているのかな」


 亜弥は鋭かった。たしかに透のためもある。


「それもあるよ。このまえの試合で透が倒れたとき、僕はオロオロするばかりでなにも出来なかった。透はきっとまた無茶をする。そのときに透を支えられる人になれたらって」


「颯太くんって、本当に透くんが好きなんだね」


 からかうような口調だった。否定したらまた亜弥にいじめられそうだったので、素直に受け取った。けれどそれだけじゃない。僕の胸にある、もう一つの誓いも伝えた。


「それとね、昔大好きだったおばあちゃんを、治してあげたかったっていうのもあるんだ」


「颯太くんの、おばあちゃん」


「うん。小学生のときに亡くなっちゃったんだけどね。それがすごく悲しかったんだ。ただ立ち尽くすしかない自分が、情けなくていやだった。だからね、僕は強い人になりたいって思ったんだ。だれかの痛みや苦しみに寄り添って、その涙を止められる、強い人に」


 僕は歩き出したかった。


 優しいの、そのさきへ。


 自分が泣くのはいい。だけど僕は側にいてくれる人の涙をとめてあげたい。傷ついただれかに救いの手を差しのべられる、優しくて強い人。


 それが僕の理想の自分だった。


 亜弥は眼に涙を浮かべながら、じっと僕の話を聞いてくれていた。そしてすごく感じのいい笑顔になる。


「ほかの人に甘い、颯太くんらしいね。私ね、そんな颯太くんが、すごく好きだよ」


 亜弥は、颯太くんに泣かされちゃったからお手洗いに言ってくるねと告げて、教室を出ていった。


「……え」


 亜弥が、僕のこと、すごく好き?


 恋の魔法が僕に金縛りを掛けてしまって、まったく動けなくなった。頭もさっきまで勉強していた内容なんかポイッと捨てて、真っ白になる。


 亜弥が、僕のこと、すごく好き?


 そこに、空気が読めないことで定評のあるハカセが戻ってきて「やっぱり気が変わった。質問に答えてやる。どうしたんだ颯太。耳が真っ赤だぞ」と、首を傾げていたんだ。


            ☆


「なんでそんな解釈になるんだ。いいか、颯太は文章を読むとき、あまりに感情移入しすぎている。もっと客観的に、構造を意識して問題に取り組むんだ」


「だってー、すごくいい話じゃないか」


 僕はかろうじて涙をこらえ、ズビッと鼻をすする。亜弥は僕の横で、子供をあやすみたいに可笑しそうにティッシュを用意してくれている。


 たまたまハカセに解かされた国語の現代文が感動的で、問題を解くまえに涙があふれ、問題を解くどころじゃなくなってしまっていた。


「颯太くんって感受性豊かだよね。女の子みたい」


「いくら童顔だからって、知能まで子供じゃ困る」ハカセは溜め息をついた。「さきが思いやられる」


 僕はにじむ視界をどうにかしようと、ワイシャツで拭こうとする。


「ちょっと待って」亜弥がティッシュを差し出す「これで拭いて」


 僕は亜弥の優しさに惚れ直しながら、それを受け取って涙を拭う。


「おい、透。なんとか颯太をしてくれ。話にならないぞ」


 ハカセが教室の後ろで、冷とじゃれていた透に声を掛ける。


 透は冷との取っ組み合いをしていて「まあ、気長に頼むよ。浪人覚悟だろうし」とハカセに笑い掛けながら、大根を引っこ抜くみたいに冷の前髪を引っ張っていた。


 すると冷が透をどんと押して、教室の外へ逃げ出した。透は上履きを片手に、逃げた冷の背中を追いかけていた。


 いつも思うんだけど、透たち元気組は、上履を便利な飛び道具だと勘違いしている。


「ということだ、俺と亜弥の後輩になりたくなかったら、しっかり言うことを聞いてもらおうか」


 僕はそのハカセの脅し文句より、ハカセが透に話し掛けたことがびっくりだった。なにがあったか聞きたかったけれど、まあいっか。


 僕の知らないところでも、きっといろいろあるんだよね。


 亜弥もハカセの雰囲気が柔らかくなったことに「なんだかハカセ、とっつきづらさがなくなったね」と驚いていた。


 ハカセは恥ずかしそうに咳払いし「俺も颯太や透に、感化されすぎたか」と漏らした。


「哲学的ゾンビはどうしちゃったの」


「ああ、あれか」ハカセは人差し指で眼鏡のまんなかを押した。

「そもそもの根底が間違っていたから、あの仮説は棄却した。哲学的ゾンビは卒業だ。ほら、無駄口を効いている暇はないぞ。次はここの読解だ」


 ハカセはなにごともなかったかのように、また僕に難しい国語の読解を強いるのだった。


            ☆


「颯太、これじゃあ駄目ね」


「え、自信作だったのに」


 僕は放課後、理沙に英語の自由英作文を見てもらっていた。理沙は英語が得意だ。発音もキレイで、流れるように美しい。


「こことここ、ここも。文法間違いが多いかな」


「うう、書き直してきます」


 僕は自分の席に戻る。するとサッカーの練習着を着た冷が、横から僕の自由英作をかっさらってヒラヒラさせる。


「透の英作文は、文法の自由って意味での自由英作文だな」


「ふん、ちょっとくらい英語が出来るからって」


 僕はむくれながら奪い返す。冷はなぜか英語だけは得意だ。


 冷曰く、「俺にはラテン系の血が流れてんだよ。あれ、英語の語源ってラテンだよな」とのことだった。


 理沙との会話の一部始終を見守っていた亜弥はフォローしてくれた。


「理沙は文法に厳しいからね」


「でも、ちょっと傷ついた」


「そのぶんだけ、まえに進めるよ」


 亜弥の言葉は励みになる。そのとき冷が「おい、おまえら。あれを見ろよ」と、見ては行けないお化けを見たような顔で顎をしゃくった。


 そのさきには、隣の席に座って親しげ話している透と理沙がいた。すると理沙は満面の華が咲いたように顔を綻ばせて、透と一緒に鞄を持って教室を出ていく。


「さいきん、あの二人。仲が良いね」


 亜弥は口角をあげて微笑んでいた。そこに嫉妬はなくて、ただ二人の関係を見守りたいという想いがあった。


「おい、いいのか颯太。理沙が誘拐されてんぞ」


 冷がスクープを見つけた記者のようにニヤニヤしている。僕はそんな冷の胸を小突きながら、嬉しい溜め息をついた。


「そう、理沙が透に誘拐されそうなんだ」


 透、理沙をよろしく頼むよ。僕の大切な妹を。


 冷はなにかを察したらしく、最近は空振りばかりしている自分の恋模様をうれいていた。


「なんだよ、面白くねぇ。もういい、サッカーしてくるわ。俺はサッカーが恋人だし、悔しくなんかねぇし!地の果てまでもボールを蹴り続けてやらぁ」


「ど、どこに行くの」


 僕が聞いたときには、冷はすでに渡り廊下に駆け出していた。


「おい、おまえ。いいところにいたな。サッカーしに行くぞ」


 そしてそのまま露骨に嫌そうな顔をしていた友達を、半ば強引に誘拐していくのだった。

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