★おたがいの幸せのために
「つまんねぇな」
ずっとベッドで寝っころがってばかりの病院は、暇で暇でしょうがなかった。
負傷した俺はストレッチャーで退場し、人生初の救急車に乗せられて大学病院へと搬送された。裕にぃと“あいつ”が救急車に同伴し、舞ねぇは裕にぃの車であとからやってきた。
病院まで運ばれた俺は、すぐさま赤いランプが回る救急部に連れていかれた。そこでゴリラみたいな整形外科医の奴らに囲まれる。奴らは俺の脹れた膝をあっちこっちに動かしやがる。
こっちが脂汗を掻きながら痛がっているのに、奴らは機械みたいに冷徹に膝を観察していやがった。医師ってのはおっかねぇ。
そして診察室の次は、MRIとかいうドーナッツ型の機械が設置してある部屋に運ばれる。
「画像撮影をしますから、動かないで」
痛みに耐えながら数十分待ち続け、そして説明があるということで診察室に戻された。車椅子に乗った俺と裕にぃに告げられた診断は、『前十字靱帯断裂』なるものだった。
「ひとまずは絶対安静にして、腫れと痛みが引くのを待ちましょう」
そういう成り行きがあり、俺は即日入院となった。あれから一週間経って、だいぶ痛みはマシになったものの、装具を外させない膝は不安定でろくに体を動かすことも出来ない。
それに共同の四人部屋に入院しているのも、転倒やらヘルニアやらで入院している爺ばっかで、颯太たちが遊びに来なかったら話し相手もいない。学校やら部活からの喧噪から遠のき、社会から追いやられた気分だ。
あーあ、つまんねぇ。やっぱ病院なんて、来ないのが一番だ。
俺は窓側に寝返りを打った。そこには配膳やら薬やら置くための机があり、そこに立派な優勝カップが、遮光カーテンの金色の細い光のなかで輝いていた。
頂点には、ドリブルするプレイヤーの姿を象った金色のモニュメントがある。その足にこれまでの優勝高校の名前が書かれたペナントが束になって取り付けられている。
その一番上に付けられた新品のペナントには、吉本先輩の達筆で、俺たちの学校名である秀和高校の文字がある。
それだけで退屈は吹っ飛んでいくようだった。いつ見てもにやけてしまう。
ペナントをめくる。裏には在籍する部員全員の名前があり、俺の名前もしっかり確認できる。今までの努力が報われた瞬間だった。
★
試合が終わった三日後、俺の部屋にバスケ部の奴らがなだれ込んできた。
「透、大丈夫かぁ。俺たち、優勝したんだぞ」
誠が病室で俺を抱きしめながら、おいおいと男泣きだ。
「誠、分かったから離れてくれよ。暑苦しい」
動けない俺の代わりに、椎葉先輩が誠をどかしてくれた。
「本当によくやってくれた」吉本先輩はやりきったように晴れ晴れとした顔だ。「お前のあの最後のシュートが、決勝点だった」
「守ってあげられなくて、ごめんねぇー」長友先輩はしゅんとしていた。
「おまえの眼を覚まさせた俺を誉めろ」椎葉先輩は誇らしげだった。
「約束通りディープキスをくれてやろう」渕上先輩は変なことだけ覚えていた。
俺は先輩方の励まそうとしてくれていることに感謝しながら「本当に、おめでとうございます」と一人一人と握手した。
先輩たちの後ろで息を殺していた木室さんが、沈痛な面持ちで俺の前に立った。負傷した膝から伸びるドレーンチューブの先、ベッドの冊に掛けてあった赤い排液バッグに眼を向け、さらに眉間の皺を深くする。
「透、おまえを怪我させた俺を許してくれ」
木室さんは眼鏡が落ちる勢いで頭を下げた。皆の憧れの人にそうさせてしまった、自分の膝が憎い。
「俺の怪我は俺の責任です。木室さんのせいじゃないっす」
「申し訳なかった。無理をさせたな」
「謝らないでください。後悔してないっすから」
「そうだ、あれを」木室さんが剣持先輩を促す。「剣持から渡してやれ」
そう促されると、手に優勝トロフィーを抱いた剣持先輩が近づいてきた。
「約束したからな。優勝するって」
「……さすがは、剣持先輩っす」
受け取ろうとしたが、剣持先輩はそのトロフィーを手放そうとはしなかった。
「剣持先輩、どうしたんすか」
「……背番号3は、お前に開けておく」そう言って顔を背ける。
「さっさとリハビリして、さっさと戻ってこい。先輩命令だ」
相変わらず素直じゃないその人は、最後には押し付けるように、優勝トロフィーを俺に渡してくれた。
★
「剣持先輩も、不器用だよなぁ」
優勝トロフィーに似合わない、その不器用さに笑っていた。そしたカーテンの向こうに人影が現れた。
「うおっ」
「なんだ、人を化物みたいに」
現れたのは、ガリガリの体に青い眼鏡を掛けた男だった。
「ずいぶんハカセに似たドクターだな。新しい検査でもするのかよ」
「理学所見を取らせてくれるのなら嬉しいが、まだ医学部に入学していないんでね。それに似ているんじゃなくて、本物だ」
「え、まじかよ」
俺は上体を起こした。ハカセが一人で俺に会いにくるなんて、夢にも思わなかった。
「どういう魂胆だよ」
「なにが」
「なにがって、おまえ。俺を煙たがっていたんじゃなかったのかよ」
「そんなことはない。接点がなかっただけだ」
ハカセは抑揚のない喋り方だ。なんでここに来たんだよ。俺は混乱していた。
「一人で、見舞いにきたのかよ」
「そうだ」
「相変わらずよく分かんねぇ奴だな。まあいいや。そこに座れよ」
俺はバスケ部連中が差し入れで持って来た、いかがわしい本を退けて、来客用の丸椅子に座らせる。ハカセはいそいそと座った。
「今日一人で見舞いに来たのは、透に尋ねたいことがあったからだ」
「なんだ」
「颯太はなぜあの試合のとき、『一緒に生きよう』なんて叫んだんだ」
至極真っ当な質問だ。たしかに疑問に思わないわけがねぇよな。俺はどう伝えたものかと頭を掻いた。
出来るだけ家の話は避けたかった。当たり障りのない程度に話すことにした。
「ああ、それはな。俺はちょいと家庭環境が複雑なんだよ。颯太はそのことをいつも心配してくれていた」
ハカセはフムフムと頷いている。
しかしどこまで話したものか。喋る内容をあれこれ組み立てようとしたが、もう喋っちまっているんだし、思いつくまま突き進むことにした。
「生きることに絶望していた時期があってな。死んだら楽なんだろうなって、あいつに泣きついたことがあったんだ。そしたらそれを聞いていたあいつに、殴られたんだよ」
「颯太に、殴られただって」
「そう。驚きだよな。そんときにあいつが言ったんだ。『生きていてほしい』って。それで俺はあいつに依存するようになっちまったんだよ。でも決勝の試合前日に色々あって、喧嘩別れした。俺はカッカして自暴自棄になった。俺はあいつがいなくなって腑抜けちまった。だけどあいつもなにかあって、俺のもとに帰ってきてくれたんだ。それでよく分かんねぇけど、叫んでくれたんだよ。『一緒に生きよう』ってな」
言葉にしてみると陳腐な話だ。
だけど俺にとっては、もう一度走ってみようと思えるほどに意味がある。一緒に生きようと、颯太が言ってくれたんだから。
「そうか、そうだったんだな」
ハカセは取り乱す様子も面白がる様子もなく、淡々としていた。まるでなにかを確認しているようだった。ハカセは俺をじっと見つめ「透は颯太を見つけた。颯太も、きっと透を見つけたんだ」と、なにかの暗示のように呟いた。
「意味分かんねぇ」
「意味はそこにあるものじゃない。人間がそれぞれの内世界によって、外世界に附随するものだ。そういう意味合いに於いて、透。このまえの試合は素晴らしかった」
難解を極める説教のあと、ハカセからの初めての褒め言葉があった。
「あ、ありがとうな」
「あの試合は、俺に革命を巻き起こした。感情を排した完全な客観を追いかけることは、間違いなのかもしれない。そもそも俺は『正しい』を見誤っていた可能性がある。『正しい』は絶対的なものではなく、人間の意志や感情、あるいは想いが作りだす、相対的な概念なのかもしれない」
「あの、いきなり宇宙語で喋られても、困るんですけど」
「つまり『正しい』は、感情抜きでは語れないということだ」
いきなりハカセが訳分からんことを喋り始めたので、うすら寒くなった。こいつは想像以上にやべぇ。間違いなく変人奇人の類いだ。
「そういう観点からすれば」ハカセは自分の論を締める。
「颯太が俺たちの不和に心を痛めているのに、俺たちがこのまま譲り合わないのは『正しい』ことではないと、俺の心は命じている。つまりなにが言いたいかというと、そうだな。俺たちは俺たちで友好を結ぶべきだ」
俺は絶句した。急に意味の分かることを喋ったかと思えば、颯太のために、俺とハカセで仲良くしようぜってことなのか。
「そんなことを言いたいために、こんな回りくどい話をしたのかよ」
あまりの痛快さに噴き出してしまった。
「ハカセ、おまえって頭よすぎて、逆に馬鹿なんじゃねぇの」
「そうかもしれない。しかしこれが俺という人間なんだ」
ハカセはぶっきらぼうにそう言って、眉間にシワを寄せて俺の足下に視線を落とした。
「ふふ、っぷ」
俺はそれからゲラゲラと声をあげて、ベッドのシーツのうえを転げ回った。幸い俺以外の大部屋の住人はリハビリやら検査やらでおらず、発狂したと心配されることはなかった。
「ひぃひぃ。勘弁してくれよ。ああ、腹がいてぇ」
「なにがおかしいんだ」
「いやいや、最高だって」
笑いの発作が収まってから、俺もハカセに話をしようと考えていたことを切り出すことにした。いまここにはだれもない。秘密の話をするにはもってこいのシチュエーションだ。
「いいぜ、ハカセ。こっから仲良くしようぜ。そしてそんな俺から頼みがある」
「なんだ」
颯太の未来を託すべき奴は、やっぱりハカセだな。俺は確信し、ハカセに颯太を託す。
「颯太の勉強を見てやって欲しいんだ」
ハカセは言葉の間合いを測るように眼を細める。
「颯太に勉強。どういう風の吹き回しだ」
俺は颯太が語ってくれた将来の進路の話をした。まったく高校二年生にもなって、あいつはとんでもない目標を立てたもんだ。
「颯太がさ、三日前に俺のところに来て言いだしたんだ。『透、僕はお医者さんになる』って。俺は絶対無理だから諦めろって言ったんだけど、珍しく強情でさ。どこまで本気か分からねぇけど、今から一人で成し遂げるにはちと無理がある。だから優秀な奴の力がいる」
今のままじゃ天変地異が十回起きても、颯太は医者にはなれないだろう。
どこかにいる万年学年トップで、勉強に関しては一騎当千って奴を、家庭教師につけない限りはな。
「だから俺、なのか」
「そうだ」俺は頷く。「ハカセは信頼できそうな奴だ。それじゃあ、ほい。友情の証だ」
俺はハカセのまえに手を差し出した。するとハカセはこの手はなんだと、俺の掌に浮く血管を採決するかのようにまじまじと見つめる。
「これが友情の証、なのか」
「握手だよ。握手」
「そういうことか」
俺たちは握手をかわし、友情の始まりをここに宣言した。
「これからよろしく。ハカセ」
ハカセはそそくさと手を引っ込めながら言う。
「透、お前って変な奴だな」
俺はそっくりそのまま打ち返す。「ハカセがな」
★
そうしてハカセが帰ったあとで、一卵性双生児のペアが遊びにきた。
「失礼します」「とおるくん、お見舞いに来たよ」
楽しそうな二人の双子の声が、カーテン越しに見舞う。
カーテンを開くと、理沙が木網のカゴを抱えているのが見えた。カゴからは俺の好物のぶどうの房が覗いている。近くで眺めると、まるまる一粒一粒が太っていて紫色の光沢を放っていた。
病室の窓から吹き込む風が理沙の匂いをふわっと運ぶ。学校とは違って薄く化粧をしているのか、いつもより肌が透き通っていた。それがなんだか背伸びしている女の子らしくて、眼が離せない。
「理沙、今日も可愛いな」
「バカ」
理沙は照れながら、近くの丸い椅子に座った。なんとなく俺の勝ちのような気がした。そのうしろから颯太がやってくる。颯太は憂いを帯びた眼で装具付きの膝を見つめている。
「透、膝の調子はどう」
「おう、ぼちぼちだな」
「それは良かった。でもここで油断しちゃ駄目だよ、透。看護師さんや先生の言うことをちゃんと聞いて安静にするんだよ。それから味が薄いって文句ばっかり言ってないで、三食好き嫌いせずに食べるんだ。あと同室のお爺ちゃんたちには愛想良くね」
「分かった分かった。おまえは俺の父さんか。いっぺんに言うな」
そうやって颯太や理沙と俺がいない学校での一週間や、病院の愚痴をわちゃわちゃ話していると、茶髪をお団子にした中年の看護師が入ってきた。
「透くんはいるの」
「あ、こんにちは」「お邪魔しています」
理沙と亜弥の顔を窺うと、「あらあら、これまた可愛いお客さんで。透くんは人気者ねぇ」と眼を細めた。そして思い出したように手を叩く。
「そうだ。今ね、透くんのお母さんがいらっしゃって、ここまで案内したところなの。お母さんが『入っていいか、聞いてください』って。入れていいわよね」
颯太と理沙に緊張が走る。そんな二人の様子に、なにか失言でもしたのかと看護師の顔が硬くなる。
俺は今まではこうやって、他人に散々心配をかけてきたんだな。それを最近になって肌で感じるようになった。いつまでもこのままじゃいられねぇな。
「二人ともすまん。ちょっと席を外してくれ」
俺の言葉に二人が頷く。二人を見送ったあと、看護師さんに“あいつ”に入ってくれるように伝えた。
クリーム色の渡り廊下から現れた “あいつ”は、看護師に命の恩人みたいにぺこぺこ頭を下げ、ハカセが数時間まえに座っていた丸椅子に遠慮がちに腰かける。お尻をすこし乗せるくらいの浅い座り方だ。
「お友達が来ていたのに。ごめんなさい」
「べつにいい」
「なにか困ったことはないかしら。ペットボトルの水が無いとか、お菓子がなくなったとか」
「大丈夫。水は面談室で二十四時間飲めるし、菓子は舞ねぇの差し入れで山盛りある」
そこで沈黙。自分で苦笑してしまう。なんて素っ気ない言い方だよ。
俺たちの会話はいつもこんな感じだ。相手の世界を傷つけるのが怖くて、たがいの世界の端っこからギリギリ相手に届くようにボールを投げ合う。
四年も一緒に暮らしているのに、俺たちの距離は一年分も深まっていない。眼のまえの彼女は、落ちつきなくなんども髪を耳に掛け、貧乏揺すりをする。
彼女は家に来てから、ずいぶんと老けこんでいた。
たった四年のはずなのに、もう二十年も経ってしまったようだ。苦労を知ると、人はこんなにも早く老いさらばえていくのか。
眼のまえにいる彼女が、どんな思いで俺を育ててくれたのかは分からない。俺のことを激しく憎み、父さんに置いていかれて涙する歳月だったのかもしれない。それは分からない。
だけど俺はそろそろ彼女を、楽にさせてあげなくてはいけない。彼女が俺たちに縛られる必要は、もうないのだ。
「一つ、決めたことがある」
「え、なぁに」
彼女の肩がびくっと跳ねる。彼女はいつだって俺に怯えている。
なぜ気づいてやれなかったんだろうな。だれも支えてくれる人がいないなか、この人は、必死に俺と舞ねぇを養ってくれたのだ。血の繋がっていない、俺たちを。
「俺、高校を卒業したら家を出る。そして遠くに行く。どこに行くかは決めてないけど、精一杯働く」
「そっか。透くんも、遠くにいっちゃうんだね」
俺の決断を聞き届けて彼女は笑った。その笑みは泣いているようでもあった。俺がいなくなるのが嬉しいのか、悲しいのか。俺には分からない。
俺はこの人が笑顔を形作るとき、どんな感情をこめる人なのか、まるで知らなかった。いまさら都合良く、母さんなんて呼べるはずがない。
俺たちの四年間は、そういうふうな大団円にはならない。
だけど、伝えるべきことがあった。
「二つだけ、我が儘を言っていいかな」
「なぁに、二つって」
「一つは前十字靱帯断裂の再建術を、早いうちに受けさせて欲しい」
俺は医師から聞いた説明を思い出す。
前十字靱帯断裂の治療は二つ。保存療法か手術療法。
バスケを断念するのなら、全身麻酔を掛けて膝にメスをいれるような手術療法はせずに、保存療法を選択することもできる。リハビリで筋トレやストレッチをしながら、すこしずつ筋肉を付けて、可動域を広げることで日常生活に戻れるようになる。
ただ保存療法では、一度切れた靱帯は戻ることはない。再発する危険性のために、激しい運動はできないとのことだった。特にバスケのようなスポーツは。
「はっきりって、手術はやりたくねぇ。それに金が掛かることも聞いた。だけど俺からバスケを取ったらなにも残らねぇ。こんなところで終わりにしたくねぇんだ」
「私も透くんなら、そう言うだろうと思っていたわ」
「また家に負担を掛けて、ごめん」
「良いのよ。甘えてくれて」
そう、甘えるということ。俺はそれをずっとしてこなかった。ひたすらに心を閉ざし、彼女を邪険に扱ってきた。俺は彼女を苦しめる加害者だった。自分の心を守るのに必死過ぎたんだ。
だけどかつての颯太は言った。きらいだと思うと本当にそうなると。その言葉を逆手に取れば、もし俺の心が変わるのなら、相手の心も変わるはずだ。
俺はぎゅっと膝かけに置いた手に力を込める。
おそれず飛びこんじまえ。相手の懐に。
「それで、もう一つは」
「もう一つは。やっぱり、修学旅行に行かせて欲しいんだ」
「え」
彼女は口を半開きにしている。俺は認めざるを得なかった。自分の視界が曇っていたことを。
俺は眼のまえにいる彼女や他人を攻撃することで、自分を保っていたに過ぎなかった。まるで俺を攻撃することで自分を慰めていた、昔の剣持先輩のように。だけど剣持先輩、あんたは立ちあがったんだよ。その姿勢が教えてくれたんだ。
恵まれないのを他人のせいにするんじゃなくて、自分でどうにかしてやるって
思えたのなら、俺たちは窮屈な自分から自由になれるんだよ。
「俺さ、諦めていたんだよ。修学旅行は金が掛かるからって。だけどさ、そんな甘えたことを喚いてないで、自分で働けば良かったんだ」
「でも、その足じゃ」
「足が動かなくても手が動くじゃん。これなら広告入れの内職は手伝える。自分のことは自分でやる。なんでこんな簡単なことに気付かずに、うじうじしていたんだろうな」
俺は個人ロッカーの取っ手に掛けられている、色とりどりに折られた千羽鶴を見た。金曜日の昨日、誠たちバスケ部が持ってきてくれたものだ。
病気の治癒を祈って鶴を折るように、修学旅行を夢見て広告をポケットティッシュに入れ続ければいい。そうすれば一個に付き一円が手に入る。それを繰り返していれば、ちりも積もれば山となるように、一円硬貨も万札に変わってくれる。
俺はそうして修学旅行までの日数を考えてみる。ほぼ百日。七万円必要だとして一日七百個の広告入れか。今は暇だから出来るかもしれないが、学校登校を再開したらほぼ不可能だ。
「広告入れをどんだけ頑張っても、一日で七百個はできねぇよな。参ったな、他の代案を考えねぇと」
「まさか、自分の修学旅行のお金を自分で稼ごうとしているの」
「そう。佳子さんに、もう迷惑を掛けられねぇかな」
「迷惑だなんて、え」佳子さんは俺の呼称の変化に気付いた。「私の名前を」
俺の全身が映っちまうくらいに見開かれる瞳。
俺は照れくさくて、反対に眼を背けた。そこには肌色というか、日に焼けてくすんだカーテンがあるだけだ。
「いやさ。今までも渋々手伝ってはいたけど、それは納入期限に間に合わなくて、舞ねぇに強要されたときだけったし。だけどこれからは違う。自分の欲しいものを手に入れるために、俺の意志でやるんだ。自分が言うのもなんだけど、ちったぁ大人になったわけっすよ」
「……そんなこと、気にしないでいいのに」
「俺はやるぜ。止められてでも」
佳子さんは瞳を潤まして、俺に現実的な提案をする。
「それなら、一日百個ね。それを毎日欠かさずしてくれるなら、足りない分は私たちが負担するわ」
「オッケー。正直、そう言ってくれるのを期待してたんすよ」
なんだか空回りしている。太股がふわふわと浮き足立って、腹の下がもぞもぞと動いている。だけどこれでいいんだ。最初からうまくいくはずがない。
だけど俺は、そろそろ自分の世界だけで完結するのを、やめることにするよ。
「今まで育ててくれてありがとう。高校が終わりなる、あと一年とすこしだけ、よろしくお願いします」
やっと言えた、胸につっかえていた感謝の言葉。
俺はぎゅっと眼をつぶって頭を下げた。そして顔をあげて佳子さんを窺うと、
彼女は俯いたまま無機質な床を眺めていた。
そこに一筋の雫が落ちたあと、見たこともないほどの土砂降りの雨が、屋根のある室内に降ったんだ。
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