☆★約束の彼方に 5

 ☆


 僕は一度家に戻り、ふたたびバスに乗った。次に向かっているのはおばあちゃんのお墓だ。共感覚がなくなってしまったことを報告したかった。


 むかしおばあちゃんと理沙の三人で、バスに乗ってお墓参りしたことがあったから、大体の要領は分かっていた。


 びっしょりと汗で濡れてしまったシャツに、バスの冷風がひんやりと心地いい。僕は腰を丸めて窓に頭をもたれる。


 バスが揺れ、僕の膝のうえのビニール袋がカサカサと音を立てた。そのビニール袋の切れ間から、祖母の好きだったブーゲンビリアが紫の花弁を覗かせている。


 そのビニールには花以外にも缶ビールが一本入っていた。家から黙って拝借したものだ。最初は缶ビールだけのつもりだった。けれど玄関から出て、たまたま視界に入ってきたブーゲンビリアに思わず手が伸びてしまった。


 風にゆれる花たちが、祖母の側に行きたいと駄々をこねているように感じたんだ。


 いつかの祖母の言葉が思い出された。


「ブーゲンビリアの花言葉はね、秘められた思い、だよ」




 バスが目的の場所まで着いた。僕は下車する。


 乳母車を押すお母さんが、バスから降りて来た僕が持っているビニール袋を不思議そうに一瞥した。けれどそれだけだった。


 僕は山間の道に転がる枝や落ち葉を避けながら祖母のお墓へと向かう。日はすこし傾いて、僕の背中に熱い光線を送っている。一人で珍しいね、と言いたげだ。


 そこで見上げた空の景色に、僕は歩むのを忘れて立ち止まる。


 息を飲んだ。午前中はくもりだったけど、すこし時間が立ち、稜線をおおっていた雲間から、無数の太陽の光が地面に降り注いでいた。それらは光のカーテンみたいに柔らかに伸びている。


 天使が舞い降りてきても、きっと驚かないくらいの幻想的な景色だ。いつか理沙と一緒にお天気図鑑で見たことがあった。


「ヤコブの梯子はしごだ」


 一人、そう呟く。


 ヤコブの梯子は聖書に出てくる双子にあたる、ヤコブの名前が由来だったはずだ。たしか兄のイセウと弟のヤコブは、家督を巡って争いをする血なまぐさい話だった。


 理沙と僕はこの話が気に入らなくて「私たちなら二人で仲良くしたのにね」「そうだね、僕たちなら争ったりしないよ」と、二人でうんうん頷きあったものだ。


 このヤコブの梯子を理沙はどこかで見ているかな。うんうん、きっと見ていないよね。透の試合の応援に行っているんだから。僕はさみしく笑った。


 ヤコブの梯子に腰掛ければ、空の向こうに行ける。

 そんな迷信が浮かんだ。だれに笑われてもいい。僕はそれを信じて手をのばした。空の向こうには、僕が慕うおばあちゃんや学さんがいるんだ。


 だけどその光の梯子に指が触れることはなかった。




 それから二十分ほどかけて麓についた。僕は牛舎に隠れるように日陰を歩き、そしてこそこそと山奥に進んでいく。


 烏がバサバサと飛び立っていく羽の音に身をすくめながら、なんとかおばあちゃんの墓前にたどり着く。数週間前にそなえた仏花についたゲジゲジや芋虫を木の枝で落とし、そこにブーゲンビリアを加える。


 そのあとでビールをお墓にトクトクと掛けていく。乾いたお墓にシュワシュワいいながら白い泡が流れていく。ビールはおばあちゃんに会うための必須品だ。これがなければ僕の話を聞いてくれないかもしれないから。


 僕は手を合わせて、心のなかで今までのことを報告していく。それはお墓と言うよりも、僕の横か背後にいるであろう、おばあちゃんの魂に。




 おばあちゃん。


 ついに僕と理沙の共感覚はなくなってしまいました。共感覚なしでみる理沙は、まるで別人みたい。一人で生きるって、こんなにも不安で落ちつかないものなんだね。


 今までは共感覚という魔法で、僕は守られていたのかもしれない。僕はこれからどんなふうに生きればいいのかな。教えて下さい。




 僕は眼を開けた。返事はなかった。だけどそれで十分だった。


「答えは自分で見つけなさい。そういうことだよね、おばあちゃん」


 僕はおばあちゃんにおわかれを告げて、山を下りていった。すると牛舎の近くで、スミヨおばちゃんにばったりと鉢合わせしてしまった。スミヨおばちゃんはタオルを頭に巻き、黒い長靴を履いた姿で、桑を肩に担いでいる。


「あんれま、颯太くん。どうしてここにいるとね」


「あのぉ、えっと」


 スミヨおばちゃんは僕の後ろや牛舎のあたりを見回し、車やほかの人がだれもいないことを確認している。


「颯太くん、一人ね」


「ええ、まあ。ちょっとおばあちゃんのお墓を参りに」


「あらぁ。こんまえも来たのに感心やねぇ。おばあちゃんも喜んじょるよ」


 僕は持ってきたビニール袋をズボンのポケットに突っ込みながら、靴の底でコンクリートを撫でていた。


「そうだと、嬉しいですね」


「どうしたとね。苦虫を潰したような顔をしちょって」


「いや。おばあちゃんは僕たちと暮らして、ほんとうに幸せだったのかなって」


 ずっと僕のなかにあった疑問。僕たちの世話のためにずっと家にいてくれたおばあちゃんは、果たして幸せだったのかな。


 スミヨおばちゃんは肩に掛けた桑を下ろしながら、頭を覆っていたタオルをほどいた。


「颯太くん。あのさぁ。おばあちゃん、亡くなるまえに笑っちょったっちゃない」


「え」


「おばあちゃん、笑っちょったやろう」


 僕がおばあちゃんの想い出にお伺いを立てる。すると血液内科の病室でのおばあちゃんが真っ先に浮かんで、泣いている僕に向けて人工呼吸器のマスクの下で微笑んでいた。


「はい。笑っていました」


「そうやろう。昔の人が言っちょったことやけど、生まれるときの自分はおぎゃあって泣いてまわりの人たちは笑うやろう。そんで死ぬときは逆で、旅立つ自分は笑ってまわりの人が泣くんが理想やとよ。おばあちゃんは颯太くんや理沙ちゃんたちのおかげでそうなれたんよ。それは幸せ以外の、なにもんでもなかとよ」


 そんな考え方があったのか。僕はその言葉の意味をゆっくりゆっくりと噛み締めていた。するとスミヨおばちゃんは眼を糸みたいに細めた。


「颯太くん。墓参りは済んだとね」


「ええ。今から帰ろうとしていたところです」


「それはちょうど良か。私も街に出るところじゃったから、乗ってかんね」


 スミヨおばちゃんが振り返ったさきには、白の軽トラックが山の麓に通じる道の途中に停車してあり、荷台には青いビニールが被せてあった。


「いいんですか」


「ああ、ええよ。ただちょっと待っときよ。桑を置いてくるから」


 僕はスミヨおばさんが倉庫に入っていくのを見ながら、すこしだけ救われた気持ちで空を見あげた。


 ヤコブの椅子はすでに終わりかけていて、残っていた最後の一筋の光が、やわらかな乳白色の雲によって静かに消えていくのを、僕はしっかりと見届けたんだ。

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