☆★約束の彼方に 3
☆
「次は小学校前。小学校前です。お降りになる方は、ボタンを押してお知らせください」
家からすぐのバス停でバスに乗り、そのままゆられること、十分あまり。僕は一人掛け用の青い座席から降車ボタンを押した。とても愉快な音が、つり革がゆれている車内に響いた。
僕以外の席には、お辞儀しているみたいに腰が曲がったおばあさんとぐっすり寝ているお爺さんしかいない。街の中心地から反対に走るこのバスは、平日でも一杯になることはない。
僕は真っすぐを見つめたまま、バスのゆれに身を任せていた。
いつもと違って文庫本も読まなければ、携帯もいじらない。ただまえを見ていた。いや、正確には見てすらいない。大きな正面ガラスの向こうに広がる景色は、僕の両眼の表面を滑るように流れ、意識されることなく消えていく。
バスは速度をゆるめ、見慣れたバス停へ大きな車体を寄せていく。僕のてのなかでしめった乗車券と小銭を投入口に入れて、バスの段差を下りた。
外の空気に肌が触れると、熱気がへばりついてくる。制服で来たことを後悔しながら、かつて通っていた小学校の校門へと一歩ずつ近づいていく。
久しぶりに再会した校門は、ずいぶんと物々しくなっていた。胴色のシャッターに、銀色に鈍く光るチェーンが何重にもまかれている。真横の電灯には監視カメラまでもが取りつけてある。
警備は万全。とても入れそうにない。なんとなくシャッターにそっと手を触れると、太陽の熱でびっくりするほど熱かった。反射的に手を離し、そして立ち尽くす。
これじゃあ、どうしようもないな。
通学靴で爪先立ちしながら、シャッター越しに校内を覗いてみる。校門の左手に体育館の入口が見える。
僕の真正面には、四段ほどのちいさい階段と手すりのついたスロープがあり、たしかその先は事務室だったはずだ。
右手は駐輪場になっていた。学校がお休みで自転車は二台しか置いていない。その二台もおんぼろで、くたびれて動かなそうだ。
全体的にどの建物も黒ずんでいる。なんだか学校全体がちいさい。僕の記憶のなかにある学校を箱庭で作ったみたいだ。
しばらく校舎を眺めていると「おい、なにをしている」と、野太い声が耳に突き刺さった。僕は思わずびくっと首をすくめた。
すると青いつなぎを着た警備員のおじさんが、自転車小屋からぬっと姿を現した。深く被った黄色のヘルメットが、いかつい顔をさらに引き立てている。
「いえ、怪しい者ではないんです」咄嗟のことで僕の声は高く裏返る。
「懐かしいなって」
「まさか、忍びこんでワルさしようって訳じゃないよな」
「違います。ただ、見たいものがあっただけで」
「校内に入って、なにを見ようってんだ」
おじさんはいぶかしげに睨みながら、尋問してくる。僕はおじさんの左頬のほくろを見つめていた。
「百葉箱と焼却炉です」
「は?」
予期せぬ答えに、おじさんはきつねにつままれたように頬をぴくっと動かした。ただでさえ怖いおじさんの眉がさらにつりあがる。その顔はまるで日本史の教科書に乗っている、怒った阿修羅像みたいだ。
「そんなものを見て、なにをしようってんだ」
「なにをって、見て懐かしむだけです」
「それだけか」
「はい」
僕は廊下に立たされて怒られている感覚におそわれる。昔は理沙とふざけすぎて、よくこうやって怒られたっけ。眉間にしわを寄せていたおじさんは、そこで表情を緩め、ガハハと笑い出した。
「そんなものが見たいなんて、お前変わっているな」
「ええ、よく言われます」ほっと胸を撫で下ろす。
「昔から変わったものが好きで」
「本当に、なにも悪さはしないんだな」
「はい、ここの卒業生の名にかけて」
「そうか、ちょっと待っていろ」
おじさんはなんだか愉快そうに口元をゆるませて、校門のチェーンに近づいた。そして腰に下げてあったキーケースをジャラジャラいわせながら、太い指で鍵を探す。つなぎの袖から覗く肌は浅黒い。
「えっと、これだな」
一本の鍵を手に取り、チェーンを止めていた鍵を外してくれた。そのチェーンを校門の脇にとぐろをまくへびのようにして置いて、シャッターを開けてくれた。
「入れ、特別だぞ」
「いいんですか」
「俺がいいって言ったんだ。いいに決まっている」
四の五の言うなとおじさんの眼が輝く。なかなか味のある人だ。
「お前、この学校の卒業生なんだろう」
「はい、そうです」
おじさんと一緒に、校舎とグラウンドをつなぐ砂利道をとぼとぼ歩く。
「そうか。なら俺の後輩だな」
「そうなんですか。ということは、おじさんもこの小学校の出身なんですか」
「ああ。二度と戻ってくることはないと思っていたがな」
おじさんは僕が悪さをしないのを後ろから見張るのを条件に、校内に入れてくれた。僕たちはできるだけ建物の影を伝いながら、百葉箱があった場所に向かう。たしか百葉箱も焼却炉も運動場奥の草むらの近くにあった。
好きなものって近くにあることが多い。
しばらく歩くと、校舎から給食の調理場に続く渡り廊下が見えてきた。この渡り廊下は給食当番や鬼ごっこでよく通ったっけ。そこを横切るのが、運動場の近道なんだ。
渡り廊下には土足用に黄色い線が垂直に引いてあり、子供たちに踏まれすぎて塗装がはげていた。たしかその線を上履きで踏まないように、ジャンプして渡ったんだ。懐かしい思い出だ。
渡り廊下を通ってしばらく砂利道を進むと、
運動場の周囲のトラックを仕切る黒いテープが姿を現した。小学生のときに運動会をずる休みしたことを自然と思い出す。
どうでもいい思い出のほうが、自分のあり方をよく表している気がする。なんだか情けないなぁ。僕の胸に穏やかな風が吹く。
運動場を横切りながら、百葉箱のある草むらに近づいていく。
しかし見る限り、百葉箱らしきものは見当たらない。というかそこは、草むらですらなかった。そこは畑のようになっていた。名前も分からない緑の葉っぱが等間隔で植えられていて、そのまわりを赤いレンガが囲っている。
「あら、百葉箱らしきものは見えねぇな」
「たしかに、ここにあったはずなんですけどね」
祈る気持ちで、焼却炉があった場所に視線を移す。やはりそこにも、それらしき姿はなかった。僕は口を
近くで見てみると、レンガに囲まれた畑には緑の濃い雑草がいくつか生えていた。焼却炉のあった場所も煤けて灰色にくすんでいるだけ。
僕たちを見守ってくれた百葉箱も、かくれんぼで大活躍の焼却炉も、もうそこにはなかった。
「満足したか」
おじさんはいたわりの声と供に、肩をポンと叩いた。僕の胸にいくばくもの想いが駆け巡って、さよならの手を振った。
すべてのものは移ろいでしまう。
それを百葉箱や焼却炉が身を呈して、僕に教えてくれているようだった。
「ええ、満足です」おじさんにお礼を告げる。
僕は帰ることにした。
校門をくぐると、おじさんはふたたびぐるぐるとチェーンを校門に巻きつけて鍵をした。それは重労働で、僕のためにわざわざしてくれたことだと思うと、感謝の言葉もない。
「本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。おじさんは照れくさそうに背中をボリボリ掻いていた。
「いやいや、俺も新鮮だった。世のなかがお前みたいに人畜無害な奴ばっかりなら、このチェーンも監視カメラも要らないのにな」
おじさんは最後に歯を見せて笑ったあと、背中を向けて仕事に戻っていった。腰につけたキーケースを、ジャラジャラと熊よけの鈴のように鳴らしていた。
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