★☆約束の彼方に 2
★
「透、ついにこのときが来たな」
裕にぃはさっきから神経質なほどサイドミラーを確認し、忙しなく車のハンド
ルを微調整していた。緊張して眠れなかったのか、パンダも逃げ出すほどのでっかいクマを両眼にこしらえていた。遠足前の小学生じゃねぇんだから。
俺はそれに気づかないふりをしながら、携帯に届いた応援メッセージを巡回していく。
よくもまぁ、こんなに届いたもんだ。我ながら驚いていた。クラスメイトからはもちろんのこと、中学校の担任や他校の連中からも来ていた。ちょっとした有名人だ。
「こんだけ応援されたら勝つしかねぇな」
「頼もしい弟だ」
「今日の俺の活躍、
冗談を口走っていると、握っていた携帯がまた震えた。ディスプレイに理沙の名前。俺は裕にぃから見えないように携帯を斜めにして内容を確認する。
内容はなんてことはない。昨日の夜の報告通り、颯太は
「なぁ、透」
裕にぃはこれから結婚発表をするかのように、口元を震わせた。裕にぃの体から不思議な緊張感が漂いだす。
「どうしたんだよ、急に」
「いや、その」
「なんだよ、改まって」
「その、なんだ。佳子さんを、試合に連れてきてもいいか」
そこで沈黙になり、車のタイヤが砂利を巻き込む音が車内に轟いた。それが契機になったのか、裕にぃは口を早める。
「嫌ならいいんだ。透の大事な試合だから。だけど佳子さんだって透の活躍する
姿を見たいかなぁ、なんて。いきなりですまん。驚いちゃうよな、こんなこと、いきなり言われたら」
「いいよ」
「えっ」
裕にぃは驚きで車のハンドルをすこし切り損ねた。車が線路を超えて蛇行する。こんなに動揺するなんて、よっぽど望み薄だと考えていたんだろうな。
「連れて来なよ、俺は構わない」
待ちに待った大一番だ。俺の心も体も、すでにスポットライトが照りつける決勝の舞台に立っている。その応援席に“あいつ”が紛れていたところで、有象無象の観客に変わりない。
「いいのか、本当に」
「『俺の優勝を見に来い』って伝えて」
「透」
裕にぃはなにかを噛み締めているようだった。そしてアクセルを傾ける。すると俺の右手のミサンガが小刻みに揺れた。俺はミサンガが震えないように、左手でぎゅっと手首ごとにぎりしめる。
颯太が俺を裏切ったとしても、お前だけは俺を信じていてくれよ、理沙。
昨日の夜、木室さんと一緒に飯を食うことになり、学校の近くにあったラーメン屋に入った。木室さんがポツポツと話をし、俺がたまに突っ込んだり相づちを打ったりした。それなりに楽しい時間だった。
ラーメンは木室さんの
俺はラーメン屋で木室さんと別れ、チャリで帰った。
太陽が引っ込んでも暑い夜で、ペダルを漕いでいるだけで背中と太股に汗が噴きてくる。早く寝ないと疲れがとれない。ペダルにさらに力を込める。
駐輪場でチャリを止めてアパート入口に向かうと、入口の暗がりにだれかがうろついていた。そいつは訪問者なのか、戸惑うようにしている。なんだよ、怪しい奴だな。そう思いながら横を通ったとき、たがいの言葉が揃った。
「あ」「あ」
そこにいたのは私服の理沙だった。
「なにやってんだよ」
「ご、ごめん。こんな遅い時間に」理沙はおろおろと視線を泳がす。
「ちょっと渡したいものがあって」
「渡したいものって」
すると上の扉がガチャリと開いて、家族連れの賑やかな声が降ってきた。じろじろ見られるのが嫌で、「ちょっと理沙、こっち来いよ」と近くの公園へと案内する。
「あ、うん」
気後れしている理沙を連れて、隣のアパートとの境にある小さな公園に向かう。俺は亀の形をした椅子に座り、理沙が隣の象の椅子に座る。ベンチを照らす街灯は切れかけなのか、明かりはたよりなく点滅していた。
「それで、どうしたんだよ」
「明日、決勝戦だね」
理沙はなにを言いだそうか迷ったふうで、そんなふうに切り出した。
「ああ、やっとだ」
「とおるくんはすごいね。私たちの誇りだよ」
その言葉だけで、俺はじんわりと心に余韻が残った。理沙の言葉は魔法だ。
「試合、見に来てくれるよな」
「張り切っていくよ」
「サンキュー。明日必ず、優勝するから」
俺は自分の手を握りしめ、理沙に気の早いガッツポーズを披露した。理沙は「とおるくんなら大丈夫だよ」と保証してくれた。それだけで明日自分の活躍が約束された気がしてくる。
「そうだ、これ」
理沙は「これを渡すために来たの」と付け足しながら、ずっと手に持っていたポーチをゴソゴソして、ひものようなものを取りだした。しかしあたりが暗すぎて、なんなのか判別できない。
「なんかのひもか」
「違うよ、ほら」
理沙が携帯のディスプレーでそれを照らし出す。そしたらそれがなんなのかすぐに分かった。
「あ、ミサンガ」
理沙の掌にコテッと横たわるミサンガは、えらくカラフルだった。
「なになに。俺にくれんの」
「もちろん。そのために作ったんだから」
「まじか。ありがとう、理沙。愛してるって、あ」
俺は勢い余って、男子のノリで『愛してる』を口走ってしまった。だけど理沙は照れる様子もなく「どういたしまして」と口元を綻ばせただけだった。なんだかつれない。
「しかしこんなカラフルなミサンガ、見たことねぇ」
はじめてシュートを決めたみたいに興奮して、親指と人差し指でつまんでみる。すべすべしていい手触りだ。
「それね、五本の糸で編んでいるの。普通は三、四本なんだけど」
「それって難しいんじゃね」
「難しいってよりは、手間が掛かるって感じだね」理沙はミサンガを愛おしそうに眺めた。
「はぁ、さすがは裁縫が得意な理沙だ」
理沙はまんざらでもなさそうに微笑んだ。そしてミサンガを俺の手から取って「右手を貸して」と提案した。
「付けてくれるのか」俺の心臓がバクバク速まる。
「うん、もちろん。ミサンガって自分だとつけにくいからね」
「そ、それじゃあ」
俺は眼をつむって右手をピンと突きだす。つけるところをまじまじと見ていたら、にやけてしまいそうだ。理沙がくすりと笑う音が聞こえ、そのあと手首にやわらかい糸の感触がする。
「とおるくんが明日の試合で大活躍しますように」おまじないを掛けたあとで理沙が言う。「とおるくん、この色たちに見覚えがあったりしないかな」
「色に見覚えだって」
俺は薄く眼を開く。だけど暗くてよく分からない。
「ごめん、暗くて見えない」
「よし、出来た」
理沙が俺の手首とミサンガのあいだの空間に、指をするりと入れてきた。ミサンガの結びがキツくないかをたしかめるためだ。だけどそのなまめかしさに、思わずぞわっとする。
「それじゃあ、当ててみて」
理沙がこれでよしと満足げに指を引っこめると、携帯で俺の右手首を照らす。俺の手首には赤、青、黄、橙、そして紫の糸で紡がれたミサンガが括りつけてあった。
「あ」
「気づいてくれたかな」
覚えがあった。どっかの意気地なし野郎が語っていた話だ。
「颯太の五色の夢」
「そう、当たり」理沙はこくこく頷く。
「苦しくても私たちがそばにいるから。五人皆が応援しているから」
「いや、それはどうかな」
贈りものには満足していた。けれど颯太の話になると、つい意地になってしまう。
「颯太はそう思ってねぇよ。あいつはこのミサンガのなかにいない」
「いるよ、私と同じ黄色だよ」
理沙はすぐさまそれを否定したが、俺は声を荒げる。
「違う、それは理沙の色だ。颯太はいない。あいつは俺のことを応援してやしないんだ。あいつはそういう奴なんだよ」
「……やっぱり、なにかあったんだね」
しまった、つい八つ当たりしちまった。明らかに声を落とした理沙に、俺は慌てて弁解する。
「いや、大したことじゃないんだ。でも」
「ずっと塞ぎがちだったけど、今日は更にひどかったから。なにを聞いても答えてくれないし、なにかあったのかなと思っていたんだけど、やっぱりなんだ」
「ご、ごめん」
俺はみるみるちいさくなる理沙に、忍びなくて謝った。そうしないと理沙は二度と笑ってくれない気がした。理沙の表情は穏やかだが、物思いに沈んでいる。
「とおるくん。颯太はね、すごく苦しんでいる。自分がどうすればいいか分からなくて、ずっと泣いている」
俺は黙って話を聞くしかできない。理沙がこんなにも思い詰めているんだ。受け止めてやりたい。
「颯太は大人になろうともがいている。でもなかなか上手くいかない。もしとお
るくんが颯太のせいで傷ついたなら、私が代わりに謝らせて。ほんとうにごめんなさい」
「そんなことない」俺はでかい声で否定した。
「俺も言い過ぎたかも」
「もしこのまま颯太が落ちこみ続けたら、とおるくんの試合の応援に行けないかもしれない。それでも恨まないであげてね」
「ああ、恨んだりしないよ」
そこで理沙は安心したように、胸に手を当てた。
「ありがとう。私も頑張って説得してみるから」
「期待はしないでおくよ」
「もう、意地っ張り」
そこで俺たちは笑みを交わした。そしたら頃合いを見計らったかのように、携帯が騒ぎはじめた。舞ねぇからだった。ついでに見えた時間は二十三時過ぎ。かなり遅くなった。
「いっけねぇ、もう帰んないと。ミサンガ、最高に嬉しかった。明日は頑張れそうだ」
「ごめんね、こんな時間に」
「送ってくよ」
「大丈夫。私はゆっくり帰るから」
「でも、理沙一人じゃあぶねぇし」
「大丈夫」理沙は象の背中から立ちあがり、お尻の当たりを軽く払った。
「一人で平気」
「……分かった、それじゃあ」
俺は言葉に甘えて、先に帰らせてもらうことにした。ユニフォームを石けんにつけたり、足をアイシングしたりと、明日の準備で忙しかった。もらったミサンガがすげぇ嬉しくて、小走りしていたら「とおるくん」と理沙から引き止められた。
振り返ったけれど、暗闇で理沙の姿は確認できない。俺は闇の向こうに叫ぶ。
「どうしたんだ」
「とおるくんからしたらね、颯太には色がなくて、じれったく感じるかもしれない。でもね」
理沙の意志が籠った声が、闇を切り裂いて俺の耳に届く。
「颯太はいずれ、自分だけの色を見つける。だからもうすこしだけ、待っていてあげて」
「え、なんだよ」
それは突然の言葉だった。理沙はそれっきりなにも言わなかった。俺は返事が出来ず立ち尽くし、どういう意味かと聞き返すために理沙のところに戻った。しかしそこに理沙はいなかった。雲隠れみたいだ。
いったい、理沙はなにを伝えたかったのだろう。
しばらくぼんやり考えたけれど分かるはずもなく、俺はそのまま自分のアパートまで駆けていった。
「着いたぞ」
裕にぃの言葉で現実に戻される。車はバスのロータリーで止まっていた。車のサイドウィンドの向こうには、部活のジャージを着た奴らや父兄やらが大勢詰めかける県立体育館があった。俺たちの決戦の舞台だ。
「これから佳子さんと舞を連れてくる。先に行っといてくれ」
「サンキュー、兄貴」
俺はドアを開けて一歩を踏み出す。
やるべきことはすべてやってきた。さあ、気合いを入れて試合に望もうか。
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