☆お母さんの顔

 透がいなくなったあと、僕はなんどもカッターで自分の体を傷つけようとした。だけどいくらそうしても、臆病な僕の体は言うことを聞かなかった。


 僕はカッターをもとのペン立てに戻し、自分と世界との交流を断つように布団を頭から被ってうずくまった。


 こうして僕の自殺は未遂に終わった。


 それからずっと部屋に閉じこもっている。食事も取らず、部屋に引きこもる僕を両親も理沙も心配してくれた。代わり番こに僕の部屋をのぞいては、僕に欲しいものはないかと尋ねつつ生存確認をした。


 父さんなんか僕の部屋に来て開口一番「失恋したのか」と言ってのけた。


「分かるぞ、その気持ち」


 父さんは今までで一番親身になって寄り添ってくれた。男子が泣く理由なんて、女子のことしかないみたいな口調だった。


 僕はその夜、孤独に泣き、自分の弱さに泣き、透を傷つけたことに泣いた。


 そうしていたらいつのまにか、こと切れたように眠ってしまって、次の日には頭が幾分かスッキリして目覚めた。すべてとはいかないまでも、ある程度納まるところに納まったような、そんな朝の目覚めだった。


 部屋の窓を開ける。


 夏の熱をからませた風がカーテンを揺らし、部屋に流れこむ。部屋中に立ちこめていた重い空気が動き始める。僕は眼を細める。換気は大事だ。こうやって空気の入れかえをすると気分まで入れ替わる。


 心と体。


 それらはよく別々に動いて僕たちを戸惑わせるけど、着実に体は大人へと変わっていく。でも、心のほうはどうだろう。


 僕はしっかりしようと自分を戒める。一晩考えて、いかに自分が無神経だったかを思い知った。


 透はきっと試合に勝った喜びを、僕と分かち合おうとしてくれたのに。それなのに、僕は激情と不安に溺れて透を追い返してしまった。


 透はそんな僕に、愛想を尽かしたんだろうな。僕の眼から、もう出ないと思っていた涙が、またあふれた。昨日透に伝えたかった、本当の想いが蘇る。


「いつか透もいなくなるんだろう」

“僕をおいていかないで”


「僕たち双子のことなんて、ちっとも分かってないじゃないか」

“透だけには、僕のことをちゃんと理解して欲しい”


「僕が一人じゃないとか、気安く側にいるとか勝手なこと言うな」

“僕のことをもっと理解してくれよ”


「もう僕のことなんか放っておいて」

“透にはそばにいてほしいんだ”


「僕には無理なんだ」

“それくらい頑張ってきたんだ”


「重荷でしかない」

“それくらい大事に思っている”


 すべて本音の裏返しだ。でも――


「そんなの伝わるわけ、ないじゃん」


 あまりに不器用で身勝手な自分。笑うしかなかった。透にはずっと側にいてほしかったのに。世界が敵に回っても、透には味方でいてほしかった。


 喉が渇いた。


 不意に体が訴えてくる。あまりに泣きすぎて干涸びてしまいそうだった。僕は部屋を出て階段をおりていく。まだ家は眠っているように静かだった。 


 僕は台所に向かい、冷蔵庫から冷えた麦茶を取りだす。食器洗浄機に立て掛けてある透明なグラスに注いで、一気に飲み干した。


 お腹の上あたりに冷たい液体が溜まる感じがして、肌が粟立った。僕はグラスをシンクに置き、冷蔵庫に麦茶をしまって部屋に戻る。


「透のこと、よろしくね」


 佳子さんの言葉が蘇る。僕は耳を塞いで、心の中で佳子さんに謝罪する。

 佳子さん、僕は駄目な奴です。あなたの願いを叶えることは出来そうにありません。


 それは透がケンカして、謹慎になった事件の二日後。

 まだまだ寒い中学三年生の冬だ。


 僕はその日、謹慎になった透のプリントを持ってアパートを訪れていた。理沙がたまたまどうしても外せない用事があった。透たちが住む305号室の扉の前で、枠組みが壊れかけの呼び鈴を鳴らした。


 なんど鳴らしてもだれも出てくれなくて、留守なのだろうと諦めて帰ることにした。枯れ葉散る階段に向かおうと、踵を返したとき、背中からキイっと扉の悲鳴が聞こえた。驚いて振り返る。


 僕がさっきまで呼び鈴を押していた扉が開かれ、悲壮な面持ちと深い皺が刻まれた女性が、申し訳なさそうにこちらを覗いていた。


 僕はとっさのことで「あの、えっと」とまごついていると、その女の人は「あなたは……颯太くん?」と僕の名前を呼んだ。


 そうしてなかに案内され、僕たちはちゃぶ台を挟んで会話した。透は散歩に出かけていないらしかった。


「透くん、学校じゃどうなの。透くん、家だと無口で話してくれないから」


「透は面白くていい奴です。たまに調子乗りすぎるときはありますけど、男子、女

子に関わらず、皆から慕われています」


「そうなんだ、よかった」


 眼の前に出された湯のみからは、白い煙がすうっと天井めがけて昇っていた。佳子さんは暖を取るように、両手で湯のみを包んでいる。


「颯太くんは、透くんの仲良しさんなのよね」


「ええ、透は一番の親友です」


 灰色の毛糸のセーターを着た佳子さんは、ゆっくりとまぶたを閉じた。僕はなんとなく佳子さんから眼をそらして部屋を見渡す。透とは長い付き合いだけど、家にあがったのは初めてだった。


 長い沈黙のあとで、佳子さんは急須でお茶のお代わりを注いでくれた。


「それなら透くんと私の関係も、知っているのね」


「はい、聞かせていただきました」


「やっぱり、颯太くんが一番仲良しなのは本当なのね」


 なんだか僕のことより、佳子さんは透に興味津々って感じだった。どこからどう見ても、やんちゃな息子を心配するお母さんだ。


 佳子さんは穏やかにそれだけ呟き、その口元を湯のみと湯気で覆い隠す。まるで僕に真意を悟らせないように。


 もし――


 もしほんのすこしのタイミングや出会い方が違っていたのなら、佳子さんと透が、こんなにもギスギスすることはなかったんじゃないかな。


「私はきっと、焦りすぎたのね」


 佳子さんからは、覚悟を決めた告白者が神様に罪を打ち明けるような、静かな決意が感じられた。


「透くんたちの気持ちなんて見ようともせず、透くんへのお父さんの愛だけでやっていけると、若い私は信じていた。だけどそんな私の浅はかさを、透くんは見抜いていた」


 もう佳子さんは僕を見てはいなかった。その眼は、僕を通して映る透を射抜いていた。


「透くんのお父さんがいなくなってしまって、私は人としても、透くんの母親としても、してはいけないことをした。お金のこともあったけど、私は透くんのことを恐れていたの。透くんのあの眼が、いつも私を責めているようで」


 そうして向けられた視線には、数えきれないほどの後悔を宿し、自分を責めてきた傷跡が垣間見えた。


「でもね、透くんがたまに話してくれるあなたたちのことを聞いていたら、透くんははちゃんと人を愛し大切に出来る子なんだなって分かった。嬉しかったわ」


 佳子さんに口元に微笑が浮かぶ。


「私は透くんの憩いの場所にはなれない。駄目な継母ね。でもね、透くんには人生を諦めて欲しくない。透くんの人生は、私なんかの考えも及ばないくらい輝かしいものだから」 


 その言葉に、僕は確信する。透はきっと気づいていないんだ。血が繋がっていなくとも、こんなにも透のことを思い、側で支え続けようとする人がいることを。


「透が笑顔でいるために、颯太くんはずっと透くんの側にいてあげて。勝手なお願いかも知れないけど、透のこと、よろしくお願いね」


 佳子さんは頭を下げた。涙は頬を伝ってテーブルに落ちた。

 佳子さんは頭を上げた。その顔は、優しいお母さんの顔だった。

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