★亀裂

 俺ははやる気持ちを押さえられなかった。裕にぃに颯太の家までぶっ飛ばしてもらうと、転げ落ちるように車から下り、颯太の家に駆けていく。


 勝った。ついに決勝戦だ。俺は今回も二十四点をあげる大活躍だった。今の俺は無敵だ。だれにも負ける気がしない。


 花壇に囲まれた小道は玄関へと通じる。玄関横のベルを鳴らすが応答はない。もう一度ベルを押す。やはり反応はない。こんなときに留守かよ。


 俺は乱暴に玄関の銀ノブに手を掛けた。開いているわけないよなと手前に引いてみる。すると予想に反して、玄関は抵抗もなく開いた。俺は玄関を勢いよく開け放つ。


「颯太。聞こえるか!」


 叫びながら玄関で靴を脱ぎ捨て、颯太への部屋へと繋がる階段を駆けあがる。


 俺たちは勝った、明日は決勝戦だ。お前との約束を果たし、先輩たちの努力が報われる日だ。やっと証明できる。俺たちは二人揃えば無敵だって。


 じわじわと胸一杯に広がっていく喜びや充実感を、一番に颯太と分かち合いたかった。颯太はきっと眼を丸くして「すごいよ、透。本当におめでとう」なんて、いつものふやけた笑顔で褒めてくれるはずだ。


 興奮で高鳴る鼓動と、乳酸がたまってだる重い体。すべてが心地いい。


 俺は颯太の部屋の前にたどりつき、扉を開け放つ。そこに待っているであろう、颯太の笑顔に会うために。


「颯太、勝ったぞ」


 叫んだと同時に、部屋の異変に気づいた。


 空気が淀んでいた。

 その淀んだ部屋の端で、颯太はベッドの上に両足を抱えるようにして、窓越しに外を眺めていた。夕方の傾いた太陽は水平線のギリギリの彼方から、最後の残光を颯太に届ける。その光が颯太の体で遮られ、部屋に暗い影を落としている。

 

 もうこんな時間にも関わらず、颯太は寝間着のまんまだ。

 

 颯太は一向にこちらを見ようとはしない。まるで魂が体から切り離され、体だけがそこにあるみたいだ。


「颯太」


「透、ごめんね。今日は帰ってくれないかな。今はだれとも、話したくないんだ」


 さっきまでの喜びが嘘のように萎んでいく。その声に聞き覚えがあった。昔、自分がこの世に必要とされないと悟ったときの声と、そっくりだ。


「な、なにを言っているんだよ」


 俺は訳が分からず、フラフラと颯太に近づこうとした。


「来るな!」


 颯太がそう叫んで、鈍色の鋭い切っ先を俺に向けた。眼を疑った。颯太はカッターを手に持っていた。とろんと疲れた瞼からのぞく眼は赤く、悲壮感が漂っている。


「もう疲れた。僕はもういいんだ。すべておしまいだ」


 颯太は言い終わるやいなや、ケタケタ笑い出した。その笑みはゆがんでいて壊れたおもちゃみたいだ。


「理沙も僕を置いて行ってしまった。そしていつか透もいなくなる。そうだろう」


 あまりの颯太の変わりように、俺はたじろいでしまう。


「なに言ってやがんだ、颯太。俺はお前を見捨てたりしねぇよ。どうしたんだよ、お前らしくもない」


 俺はいつもの颯太に訴えかける。


 こんな颯太は見たことがなかった。いつもみたいにへらへらして、世界は今日も平和ですみたいな雰囲気とは、似ても似つかない。眼の前のこいつは、得体の知れないなにかに捕われているみたいだ。


 俺は冷静になるよう自分に言い聞かせる。

 あのカッターをどうにかしないと。なにをしでかすか分からない。俺は手に握ったものを離すように説得する。


 しかし颯太は俺の説得なんてどこ吹く風、鬼気迫る表情だ。


「うるさいよ。僕はもう一人なんだ。これからずっと一人で生きていかなくちゃいけないんだ。今浮かれている透には、僕の置いていかれる気持ちなんか分かるわけない」


 なんだよ、それ。


 俺は自嘲気味に笑うしかなかった。俺はお前のすべてなんて分んねぇよ。でも俺はお前が普通の颯太じゃねぇことくらい、分かってんだよ。だからどうにかしてやりてんだよ。


 怒りがふつふつと沸き上がってきたが踏み止まる。


 颯太の側から離れる訳にはいかない。今の颯太の気持ちが分かってやれるのは、きっと俺しかいない。だって颯太は震えている。なにがあったかは分からないが、一人で寂しいと震えている。


「颯太、お前になにがあったかは分からない。でも俺がいる。お前は一人じゃない。だからそんな物騒なものから手を離せ。お前は俺を救ってくれた、命の恩人じゃないか」


 颯太はこちらを睨みつけた。颯太の表情はさっきから万華鏡のように次から次へと変わって、どれが本当の颯太なのかが分からない。


「透は僕たち双子のことなんてちっとも分かってないじゃないか。それなのに、僕が一人じゃないとか、気安く側にいるとか、勝手なこと言うなよ。もう僕のことなんか放っておいて、さっさと帰ってよ」


「……は?」


 ここで俺は、プッツンしてしまった。


 たしかに俺はこのとき、試合終わりで神経を高ぶらせていた。疲れていたのもあるんだろう。そんな俺に、そもそも颯太の説得なんて余裕はなかったんだ。そんでもって、颯太の弱音を真正面から受け止めてしまった。


「なんだよ、それ」


 思いっきり舌打ちしながら颯太に近づき、その肩を鷲掴みにする。


 颯太はあからさまに体を硬直させた。俺はその手から強引にカッターをむしり取って、床に投げつける。カッターは床にうざったいくらいに派手な音で転がった。


「俺にはお前のすべてなんか分んねぇよ。それなのにいきなりなんだよ。ふざけやがって」


 ふつふつと怒りが沸き起こる。


 ざけんじゃねぇよ。お前がいたから俺はここにいるんだよ。なのになんだよ、今のお前は。


 俺は颯太の細い両肩を乱暴につかんで揺さぶる。颯太はなされるがままだ。颯太は惚けてしまったかのように俺をじっと見つめた。その眼はまるでガラス玉のように、ただただ虚しく蛍光灯の輪っかを反射していた。


「透。僕には無理なんだ。僕は透みたいに強くない」


 それはどこかで聞き覚えのある言葉だった。


「なにが無理なんだ。なに言ってんだよ」


「今まで僕はなにも頑張れなかった。なにも。僕には無理なんだ」


 こいつは本当に颯太なのかよ。

 眼の前にいるこいつが、颯太だと信じられなかった。いつも馬鹿面で、頭のなかにはお花畑があって、基本ぽんこつだけど、自分を卑下するような奴じゃなかった。


 俺の知っている颯太はどこまでも人に甘くて、一生懸命で、誰にでも好かれる憎めない奴だ。


「どうしたんだよ、颯太。お前、変だぞ。俺たちには約束があるじゃえぇか。お前がそんなんで、約束はどうなっちまうんだよ」


 俺は自分のなかに大事に仕舞われている約束を、颯太の眼の前に広げた。それがいつもの颯太に戻ってくれる道しるべになると信じて。


「あの約束か。あのね、透」


 今まで以上に暗い声で、自分でも吐き出すのが苦しそうに颯太は顔を歪めた。


「僕たちは別々の人間なんだ。おたがいの人生を分け合うなんて、出来ないんだ。はっきり言って透との約束は、僕にとって重荷でしかない」


 重荷でしかない、だと。

 俺はよろよろと後ずさりした。ずっと俺が道しるべにしてきた希望の聖火が消える。俺を支えてきた根っこが砂塵と化していく。


「重荷って、お前」


 颯太だけは、どんなことがあっても俺を受け入れてくれると信じていたからこそ、ここまで来れたんだ。だけどそれも、大きな勘違いだったのか。颯太と俺の約束は、本当に、颯太にとって重荷でしかなかったのか。


「う、嘘だろう。嘘って言えよ。なぁ」


 颯太は無表情のまま。


 そこで俺がずっと振り切れなかった過去が、大きな口をがぱりと開けて、今の俺を飲み込んだ。


 ああ、そうか。

 やっぱり俺は今でも、だれにも必要とされない、要らない奴のままなんだ。颯太の瞳に映るのは今の俺じゃなくて、中学二年の自分だった。そいつはニタニタしながら俺に顔を近づけてささやいてきた。


「お前ごときがだれかに必要とされると、本気で思っていたのか」


 背筋が凍った。


 いてもたってもいられなくなって、そんでもって颯太から、自分自身から、逃げ出した。颯太の部屋から飛び出して玄関を駆けおりる。馬鹿だな、俺。救いようのない馬鹿だ。


 玄関で靴を引っ掛け、踵を踏んづけながら、からまる足で外に出る。


 颯太にとって俺は特別な存在。そう信じていた。だがそれは勘違いしていただけだ。とんだ勘違い野郎だ。


 外に出ると夕日はもう沈んでいて、暗闇の世界が俺を手招きしていた。そこはまったく知らない世界で、どちらに進めばいいか分からず途方に暮れる。暗闇が俺の輪郭は溶かす。


「だから言ったんだ。自分以外の人間に期待するなって」


 暗闇から声が聞こえてきた。それは自分の声に似ていた。


「……うるせえよ」


 いつも自分を裏切っていく世界に、俺は吼える。


 裕にぃはそんな俺に「どうしたんだ」と優しい声を掛けた。俺はなにも言えず、黙って車の後部座席に体を滑りこませた。

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