☆共感覚の消失

 恐れていた日は、あっけなく訪れた。


 よく晴れた土曜日の朝、窓からふりそそぐ優しい木漏れ日が僕に朝を知らせてくれた。体はなんだか澄みわたる感じだった。布団からのそのそ抜け出し、眼をこすって肘の関節をパキパキさせて、ふわーっと欠伸する。


 今日はなにをしようかなぁ。


 僕は一日の予定をぼんやり頭で組み立てていく。透は決勝をかけた準決勝の日だから遊べない。透は自信満々に「決勝までは応援はいらない」って宣言していたから、勝手に見に行ったら逆に怒られるだろう。


 ハカセもおじいちゃんのところに行くと言っていたので遊ぶのはお預けだ。冷は練習試合って言っていたかな。亜弥は僕一人では誘いづらい。みんな忙しいみたいだ。なんだか取り残されちゃった気分。


 そんなことを考えていたらノックの音。その音が部屋の空気を揺らす。


「どうぞ」


 理沙はうつむき加減で部屋に入ってきた。そして僕のところまで来て、ぽふっとベッドに腰かける。表情は垂れ下がった前髪で隠されている。


「どうしたの」


「颯太、あのね」


 僕が理沙の顔を覗き込む。そうして理沙の顔を覗いたとき、すべてを悟った。


 理沙は神様の国を完全に出てしまった。真っ赤に眼を充血させ、自分自身を抱きしめるように両腕を組んでいる。そしてこの世の不幸をすべて受け止めるような顔で、僕に許しを乞う。


「ごめんね、颯太」


「ううん、理沙が謝ることないじゃん」


 そうか、とうとう僕から理沙への共感覚もなくなっちゃったか。


 僕の眼から自然と涙がこぼれた。べつに悲しくはなかった。それでも涙が出たんだ。もう泣くことしか知らないみたいに、次々に涙がこぼれた。


「あれ、なんでかな」


「苦しい、苦しいよ。颯太」理沙が胸に手を寄せる。「もう分からないから。颯太を泣かせるような颯太の胸の痛みも、流れる涙の冷たさも。それが、苦しい」


「そっか、そうだよね。僕たちは今日、別々の人間になったんだ。今日が僕たちの新しい誕生日、なのかな」


 上手に笑いたかったけど、おそらくうまく笑えていないだろう。でも笑う。笑ってみせるんだ。


「颯太、ごめん」


 理沙は僕の体丸ごと、ぎゅっと抱きとめた。その体の熱も、輪郭も、匂いも、もうなにもかもが昔とは違っている。それでも僕は、昔理沙がデパートで迷子になった幼い日のことを思い出していた。


「もう理沙が泣いていても、見つけられないね」


「ううん、もう十分。十分だよ、颯太」


 理沙は僕を抱きしめながら、嗚咽をもらす。その涙が僕の右肩辺りを濡らし、その感覚がじわっと広がる。


 その涙は不思議に温かかった。


 僕たちはそのまま二人で泣いた。僕たちは、はじめて一人で泣いたんだ。そのこぼれおちる涙の思いも冷たさも、きっかり一人分の想いだけが詰まっていた。

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