☆ライバル

「颯太くん、風邪は大丈夫なの」


「平気平気。ぐっすり寝たら一晩で治っちゃった」


 僕は亜弥を守る騎士のように勇ましく、でも実際はかなり心を踊らせて、図書館へ向かっていた。ご飯を食べ終えた僕は意を決して、一人で勉強している亜弥に切り出したんだ。


「今から図書館に行くんだけど、どうかな。オススメの本を教えるよ」


「ありがとう。私も暇していたの」


 亜弥は握っていたシャーペンを筆箱に収めながら快諾してくれた。そうとなれば『鉄は熱いうちに打て』の格言通り、今から行こうという流れになった。


「私、あんまり本を読まないから、できれば本の初心者でも読みやすいものがいいな」


「そうなんだ。亜弥はどんな本が好みなの。ミステリーとか、恋愛ものとか」


「えっと、面白ければなんでもいい、かな」


 亜弥はちょっと困ったよう口元に手をあてがう。可愛い。いつ見ても可愛い。なにをやっても可愛い。僕はにやけているのをバレないように足を早める。


 亜弥の隣を歩いていると、すれ違う人の視線が痛かった。なんだか通り過ぎる人たちみんなが亜弥を見て、次に僕をうかがって「なんでお前が亜弥の横にいるんだよ」って顔をする。


 分不相応だって言いたげだ。うるさいな、放っておいてよ、って感じだ。


 僕自身は自分で言うのもなんだけど、地味でやる気のない人間だ。それでも学校でいじめられないのは、透や冷、ハカセや理沙、それに亜弥とかと仲が良いからかもしれない。


 亜弥のことにしたってそうだ。亜弥にとって僕は仲良しの理沙の双子で、なんら男子としての心配をしていないから、こうやって一緒に図書館に行こうと誘えるに過ぎないのだ。これって僕の魅力じゃない。


 男としてかなり悔しい。でも僕は透みたいにイケメンじゃない。頭も良くない。運動も出来ない。ポリシーも信念もない。褒められるのは優しいってことだけ。それっていいところがない人の褒め言葉みたいで、なんだか素直に喜べない


 そんな冴えない僕だけど、亜弥が好きな気持ちは真剣だ。ずっと側にいたい。もっと男として見てほしい。だからといって、今の関係を壊すのはとても怖い。意気地なしの僕は、今の現状を受け入れて理沙の双子の役割に甘んじる。そうしていると恋心に身を焦がされそうになるけど、亜弥と一番仲良しの男子でいられた。僕の悲しい特等席だ。


 亜弥は僕のもんもんとした葛藤なんてつゆ知らず、僕の恋心をさらに募らせる。


「宮沢賢治の『恋と病熱』って詩を、颯太くんは知っているかな」


「いや、知らない。どんな詩なの」


「その詩はね、すごく抽象的なんだ」


 亜弥はその詩を小学生の国語の課題として読み、あまりの意味不明さに逆に心地よくなったと教えてくれた。大人になったら分かるようになるんだろうな、と子供心ながらにワクワクしたらしい。


「それでね、この前たまたま『恋と病熱』の解説を読む機会があったの。そしたらあの詩って、恋に悩む宮沢賢治自身と病熱に苦しむ妹さんを書いたものらしいの。なんだかそれを知ってすごく感動してね、本って面白いのかもって。理沙のお兄ちゃんの颯太くんも、『恋と病熱』を読んでみたら、宮沢賢治の気持ちが分かって面白いかも」


「そうだったんだ。今日にでも読んでみようかな」


 僕は亜弥と共通の話題が出来たと、内心しめしめと思っていた。そんなことを語らいながら、てくてく図書館へ向かっていると、購買部の前で男子に呼び止められた。


「おいお前、石川だよな」


 聞き慣れない声だ。振り返ると、そこには僕より背が高くて髪を短く切りそろえた、いかにも運動部ですって感じの男子がズボンをちょっとズリ下げて立っていた。その眼は僕を睨むようにしていて敵意がある。


「あら若松くん。久しぶり」


「佐藤さん、久しぶり」


 亜弥がその男子にこやかに挨拶する。佐藤は亜弥の名字で、若松は誠くんの名字だ。


「ちょっと、石川。二人で話しようぜ」


「え、僕」


 僕はびっくりのあまり自分を指差し、顔を前に突き出した。まさかの展開。ほとんど話したことがない若松くんからラブコールが掛かってしまった。


「ああ、お前だ」


 真剣で有無を言わさない響きが含まれている。


「えっと、亜弥。そんな感じだけど、いいかな」


「分かった。颯太くん、先に図書館に行っているね」


 亜弥は若松くんに不思議そうに眼を向けた。そして若松くんと目線だけでなにかをやりとりし、最後にはうなずいて立ち去っていく。


「場所を移動するぞ」


 亜弥の後ろ姿が消えないうちに、若松くんはぶっきらぼうに呟くと、購買横の自動販売機が置いてあるベンチへ歩いていく。


 せ、せつめいとかないんだ。僕はぶわっと背中から汗が吹き出すのを感じながら、ひとまず若松くんの背中を追っていく。若松くんと透は仲が良かったけど、僕は会話したことがない。同じクラスになったことがなく、ほぼ初対面だ。


 自販機のまえで立ちつくす若松くんに背中側から近づく。彼はズボンの後ろのポケットからジャラジャラと小銭を出し、自販機を顎でしゃくった。


「なんかいるか」


「えっと、じゃあ」


 断る方が怖い雰囲気だったので、僕は紙パックのカフェオレを指差す。図書館より十円高いやつ。


「はいよ」


 そう言ってお金を入れ、ポチッとボタンを押す。自販機の手みたいな部分が動きだし、押したボタンのところではなく、一個隣の場所からカフェオレを下に落下させる。


 このタイプの自販機を見ると、いつも父さんが「俺はこのボタンのところにあるカフェオレが飲みたかったのに」と悔しがる。僕は笑う。理沙は呆れる。母さんは聞いてすらいない。


「ん」


 カフェオレを受け取り口から取り出し、若松くんは僕に無造作に差し出す。


「あ、ありがとう」


 僕はおずおずと受け取る。若松くんはベンチにどかっと座り、横に座れと手で命令してきた。指示通り、横に座る。だけど若松くんは腕組みして、考えごとをしていた。おたがい無言。


 いたたまれない雰囲気をごまかすように、僕はよそ見しながらカフェオレにストローを差し啜っていく。校内に忍び込んだ猫が尻尾を上げて通り過ぎる。女子生徒が可愛いと猫を携帯に収める。カフォオレは甘くて美味しい。甘味に和んでいた矢先、若松くんがずばっと用件を切り出した。


「なあ、透の家って複雑なのか」


 話の突飛さに驚いたせいで、カフェオレを変なタイミングで飲み込んで気管に入ってしまい、思いっきり咳き込んだ。一体彼は見ず知らずの僕から、なにを聞き出そうとしているのだろう。


「大丈夫か」


「う、うん。大丈夫」


 咳が止むのを待って、真意をたしかめるために慎重に尋ね返す。


「複雑ってのは、どういう意味で」


「透ん家、どっちの親もいないんだろ」わりと断定口調だ。


「えっと、そのことをだれから聞いたの」


「透から」


「そ、そうなんだ」


 歯切れの悪い返事になる。

 透から聞いたなら、僕に確認しなくていいじゃないか。やっぱり彼の意図が分からない。それにすこし不気味だ。他人の家のことを聞き出すなんて、どういう用件だろう。


「あいつの家って、やっぱりお金に困っていたりすんのかな」


 若松くんは好奇心や野次馬精神とかじゃなく、真剣そのものだった。僕を見据える瞳には、切迫したなにかがあった。透と若松くんが仲良しなのは知っているし、特別な事情があるのかもしれない。でもだからと言って、ほいほいと簡単に話していい内容ではなかった。


「透の家族のことだし、僕はこれ以上答えられないよ」力になれないことを申し訳なく思った。

「もし透のことを聞きたいなら直接聞いてみて。若松くんほど透と仲良かったら、訳ないだろう」


「それが出来ねぇからお前を呼んだんだよ。それが出来るなら、そもそも話し掛けてないって」


 若松くんは背中を丸め、明らかに肩を落とした。僕はどうして良いか分からず、やっぱりカフェオレを吸うことにした。いじけたようにむくれる彼は、いまいましそうに頭を掻いた。


「いやさ、正直お前には頼りたくなかったんだ。お前と仲良くしだしてから、透の奴、ずいぶんと変わっちまったから。なんか良く分からねぇんだよな。あいつ」


 なんてこの人はまっすぐな人だろう。カフェオレを握っていた手に力が入って、紙パックがべこっとへこむ。彼は僕を目の前にして、堂々と頼りたくなかったと言った。すごい人だ。


「今更聞けない訳よ。二年間も一緒にバスケしてきたのに、俺は知らなかった。透の家がそんな複雑な事情を抱えていたなんて」


「一緒にいても、友達の家の事情までは分からないもんね」


「透は昔から不安定なところがあった。あんなことやこんなこと。いちいちそれを数えていたら寝られなくなっちまってさ。ずっと家族のことで悩んできたのかって」


 若松くんは自分のことのように悔しがり、握った拳をベンチにごんと打ちつけた。きっと側で一緒に頑張ってきた透の力になれないことがつらいのだろう。当たり前のことだけど、透のことを心配しているのは僕たちだけじゃない。


「若松くん、その気持ちだけで十分だよ。透に直接聞いてみて。きっと教えてくれるよ」


 慰めではなく本心からそう伝えた。でも若松くんは硬い表情を崩さない。


「どうかな。透は俺のこと、信頼してくれてねぇのかもしれない」


「そんなことないよ。透は若松くんのこと、いい奴だって言っていたよ」


 でもたまに暑苦しいと言っていたことは、内緒だ。


「そんなこと言っても、きっとお前は透から話を聞いてんだろう」


「えっと、それは」図星だった。


「やっぱりな」若松くんは後ろで手を組んでベンチにゴロンと横になる。「ああ、やってらんね」


 そのあと彼はぶつくさ続ける。


「俺はあいつとずっとコンビ組んでて、なんでも腹を割って話してきたのに。いざってときに頼られねぇことほど、さみしいことはねぇよ」


 晴れない思いがあるのか、彼はじっと緑の雨よけを睨んでいた。まるでそこに透の顔が映っているみたいに。


「一緒にやって来たのは俺なのに。水臭いよ、あいつは」


 じっとしていたかと思うとがばっと起き上がり、ふたたび頭をガシガシ掻きむしった。若松くんは気づいていないだろうけど、僕はなんとなく透の本心が透けて見える気がした。


「若松くん。透が君に話さなかったのはさ、近くにいたからこそじゃないのかな」


「はぁ。なんだよ、それ」


 若松くんが僕に怖い顔を近づける。僕は勇気を奮い立たせる。


「大切な人だからこそ、話せないことがあるよ。言えないことがあるよ。きっと透は若松くんを大切に思ってい

るからこそ、話さなかったんじゃないかな」


 若松くんは黙って聞いていたけれど、すぐに言い返してきた。それは断じて違うと猛烈な勢いだ。


「つらいときを分かち合ってこそ、本当のダチだろう」


 本当のダチ、のところに強いアクセントがあった。彼は本当に、透との友情に熱い。


「それはそうだけどさ」


 僕は彼の怒りを買わないように言葉を選ぶ。彼は会話するごとに苛立ちを積みあげていて、変なことを言ったらなにをされるか分からなかった。


「でもさ。透にとって若松くんは、ずっと一緒だからこそ負けたくないライバルでもあるんだよ」


「それがなんだよ」


「だからね、家の事情を話すことで、若松くんに同情されたくなかったんじゃないかな。若松くんと真のライバ

ルでいたいからこそ、かもしれないよ」


「……そんなもんなのか」


 そこですこしだけ、若松くんの苛立ちが弱まった。


「僕はさ、こんな奴だから透のライバルにはなり得ない。だから透は安心したんだ。だけどいつも一緒にいた若松くんを頼るのは気まずい。そう考えたんじゃないかな」


 彼をなだめるために、僕は自分の卑下を含めてそう伝えた。すべては若松くんと透の関係が良い関係であってほしいと祈っているから。


 だけどその自分で飾ったはずの言葉が、まるで諸刃の剣のように、不思議と自分の心の表面を引っ掻いた。それは眼に見えないほどだけど、確実に僕の心に傷を開け、じくじくと痛みを連れてきた。


 僕は透のライバルになり得ない。


 それがもし真実なら、僕はいったい透のなんなのだろう。ていのいい相談相手だろうか。なぜ透は僕に自分の家庭の事情を話したんだろう。そして僕はなぜ、透とあんな約束をしたんだろう。


「そっか。あいつの中では俺はダチじゃなくて、ライバルなんだな」


 若松くんは水を得た魚みたいに元気を取り戻し、らんらんと眼を輝かせる。それを見ながら思う。結局はこういうことだろうか。なりふり構わず走り続ける透と、いつも止まっている僕。僕たちは決定的に違うから、透は僕を横に置いているのだろうか。


「決めた。俺は知らない振りをする。この問題に関しては石川に任せる」


 彼はすくっと立ち上がりながら、宣戦布告みたいに叫んだ。迷いを振り切った清々しい笑顔。


「いや、任せるって言われても」


「とにかく任せたからな。バスケで無敵だと調子に乗っているあいつと、俺はやっていくんだ。あいつの出過ぎた天狗鼻をへし折ってやるのが俺の役目だよな」


 僕の話なんてちっとも聞かないで、若松くんは一方的に話をまとめていく。


「そうだよ、俺たちはダチじゃなくてライバルなんだ。石川、俺はお前と話せてスッキリしたぜ。なんだかお前のこと、勘違いしてたわ。やっぱり透のダチだけあって、なかなか良い奴だな」


 若松くんは僕の背中を痛いくらいにバンバン叩くと、「じゃあな」と足取り軽く体育館に走っていった。


 僕はなんだかどっと疲れてしまって、足下に視線を落とした。誰かが土足をしたのか、白いアスファルトには土色の足跡がこびりついていた。僕はそれをじっと見つめる。


 亜弥が透を好きなのも、若松くんが透にこだわるのも、透が他人よりも何倍も努力して結果を示しているからだ。だから流す汗が輝く。透は僕の約束を信じ、ずっとまっすぐ走り続けている。


 その傍らで、僕はなにをしてきたのだろう。


 ただただ人の陰に隠れて、なんの努力もしていない。流す汗も輝かない。そんなんだから優しいとしか言ってもらえない。こんな生活を続けていたら、いつか僕は透に愛想を尽かされ、そして――


 寒くもないのに身が震えた。どれだけ外の気温が高くても、心の温度は暖めきれない。このままじゃ、僕は透に置いていかれてしまう。それがたまらなく怖くなった。


 僕は立ち上がる。土色の足跡から逃げるようにベンチから立ち去る。胸のポケットに入れた携帯を手に取って時間を確認する。お昼が終わるまでには、まだ時間があった。図書館では亜弥が待っている。僕は歩くスピードを上げる。


 だけど置いていかれてしまう恐怖は、どこまでも影のようについてきた。僕を苦しい。また歩くスピードを上げる。


 それでも、振りほどけない。

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