☆病熱★ 2

「今日さ。家に帰ったら、舞ねぇがあいつに叫んでたんだ。『どうして、私だけ』って」


 透はこみあげる嗚咽を手で押さえ込むようにしながら、今日目にした景色を僕に映し出してくれた。


 透がいつものように部活を終えて家に帰ると、二歳上のお姉さんにあたる舞さんが、佳子さんと珍しく言い争いをしていたらしい。耳を済ませてみると、舞さんは仲が良い友達と一緒に、都会の大学に行きたいと主張していたそうだ。


 でもそんな余裕、透の家にはなかった。佳子さんはそんな舞さんに今の苦しい家計のことを悲しそうに、けれどもきっぱりと説明した。


 今の家には、かなりの額の借金があること。舞さんが望む大学の授業料をどうしても出してあげられないこと。一人暮らしのための引っ越し代も、家具も、生活費も、なにもかもを舞さんの手で負担しなければいけないこと。


 厳しいけれど、それが透の家の現状だった。舞さんは黙って話を聞き届け、大粒の涙を零しながら訴えた。


「どうして。なにも私たちは悪いことしてない。今までだって良い子にしてきたし、わがままなんて言わなかった。ずっと我慢してきた。それなのに。それなのに初めての我が儘すら、叶えられないの」


 壊れてしまいそうなほどに顔をぎゅっと固めた佳子さんは、舞さんの手を握りながら訴えたそうだ。


「裕章は、あなたや透の生活を支えるために、歯を食いしばりながら頑張ってくれているわ。もちろん私も出来るかぎりの努力をしていているわ。でもね」


 その生活は本当にギリギリのものだっただろう。佳子さんは土日も休みなく働いて、なんとか透や舞さんの当たり前の生活を支えるために働いていたらしい。


 それでも――

 それでも当たり前の生活や幸せに必要な額のお金は、稼げなかった。


 そこで舞さんは、佳子さんの手を乱暴に払った。


「もういい、もういいよ。大学も幸せな生活も、全部全部諦める。こんなことなら……生まれてこなければ良かった」


 舞さんは充血した眼で捨て台詞を吐いて、自分の部屋のドアを乱暴に閉めた。


 生まれてこなければ良かった。


 その舞さんの言葉に、透のなかで張りつめていたなにかが弾けた。透は携帯だけをにぎってアパートを飛び出

し、暗い雨が降る夜の街を彷徨った。そして僕の家に流れついたらしい。


「生まれてこなければ良かったのは、俺だ」


 透の悲痛な魂の叫びに怯みそうになる。でも僕はぐっと背筋を伸ばす。生まれてこなければいい命なんて、あるわけがない。


「そんなことない。そんなことないよ」


 僕はほとんど叫んでいた。だけど透の冷えた心には届かない。


「いや、実際そうなんだよ」


「そんなこと言うなんて、透らしく」


「いいから聞けよ。俺がいなければ裕にぃは高校を止めなかったし、舞ねぇが大学を諦めることもなかったんだ。人って奴は、場所や時間を買うために金が必要なんだ。俺がいなければ兄貴たちは夢を叶えられたんだ」


「そうだとしても、透がいなくていいってことにはならないだろう」


 自暴自棄になる透を、つなぎとめたかった。ほんのすこし。ほんのすこしでも希望があれば、人は生きていける。僕の側にいつだって理沙がいてくれたように。だけど透の暗く沈んだ瞳に希望の光は差さない。


「俺はたらい回しにあったときに、分かっちまったんだよ。自分は生まれてきたらいけなかったことが」


 僕はぎゅっと拳をにぎって、透を傷つけるすべてを憎んだ。こんな仕打ちしか用意できない、理不尽な神様すらも。


「透、僕はね、中学2年生で理沙が透を引っ張ってきたとき、僕に握手を求める不器用な君を見て、僕は確信したんだ。透とは良い友達になれるって。楽しく一緒にいられるって。僕たちはあれからずっと一緒に楽しくやってきたじゃん。透がいなくなるなんてさみしいよ」


「そうか、そんなこともあったな」


 透は僕の肩に頭をもたれかけてきた。透からは雨の匂いしかしない。


「幸せだったよ。理沙や颯太がいてくれて。すっげぇ楽しかった」


 僕と透の彩りある日々は、すでに過去形になっていた。透はもたれていた頭を離す。


「なあ、颯太」


 透は天井を見上げた。天にいるだれかを探しているようだった。


「俺、もう死にたい。もういいんだ」


 “もういい”

 

 僕はたじろいだ。大切な祖母が残した言葉と、こんなところで再会してしまった。最後まで病魔と戦い続けた祖母が吐いた唯一の弱音。生きたくても生きられなかった祖母と、生きることを諦めてしまいそうな透の姿が同じ平面上に並ぶ。


 出口をなくし、僕の胸に眠っていた後悔が頭をもたげる。


「だめだ、透」


 僕は透の手首をつかむ。透を絶対に救ってみせる。そんな思いが僕に芽生えていた。だけど透は打ち拉がれ、僕から離れようとする。


「俺は要らない奴なんだ。生きていても意味がねぇ。さっさとくたばりたい」


「さっさとくたばりたい、だって」


「ああ、そうだよ。俺は要らない奴なんだ。もう放っといてくれよ」


 その言葉を聞いた次の瞬間、僕は握りしめた拳で透の横っ面を本気で殴っていた。


 透はそのままベッドに倒れ込み、頬を押さえながら視線を泳がせる。僕は透のお腹に飛び乗って、その胸のあたりを揺らした。殴ったことなんてなかった僕の右手は赤く脹れあがって、灼熱のように熱かった。


「ふざけんなよ、透。君は僕に勝手に近づいて、勝手にいなくなるのか。お前はまだ生きているじゃないか。まだこうやって、必死であがいているじゃないか」


「もう疲れたんだよ。この世界に」


「まだお前は15歳だろう。ここが世界のすべじゃない。透を必要としている人間はいるよ。今ここに!」


 涙が止まらなかった。僕はさっきまで透の涙を止めたいと思っていたはずなのに。


「僕だけじゃない、理沙だってそうだ。裕章さんや舞さん、佳子さんだって。いっぱいお前のことが好きでお前を必要としている。いっぱいいるんだよ」


「颯太」


「馬鹿で、融通が利かなくて、そのくせ落ち込みやすくて、バスケしているときは俺が最強みたいにドヤ顔の、透が僕は好きなんだ。大切なんだ。だから」


 僕の涙が透の胸に落ちた。


 僕たちはいつだってさびしくて、他人を求める。だけど透。君はもうすでに、形がない『他人』なんてくくりじゃなくて、僕のなかにたった一人しかいない、大切な存在になっているよ。


「僕を置いていかないでよ。残される人がどれだけつらいか、透なら分かっているだろう。僕はそんなのいやだ。透には」


 “生きていてほしい”

 透は僕の言葉のあと、僕の肩に両腕を回して静かに泣いた。




 僕たちはしばらくのあいだ沈黙を共有した。でもひしひしと相手の熱を感じていた。生きている熱。そして僕たちはベッドの奥の壁にもたれるようにしながら、たがいの名前を呼びあうんだ。


「なあ、颯太」


「なに、透」


「俺たちって、似てないよな」


「たしかに、似てない」


「颯太は運動苦手だし」


「透ができすぎなんだよ」


「なよなよしてるし」


「汗ばっか掻いて男臭いし」


「でも、いい奴だ」


「透もね」


 透は横にいる僕を見つめた。僕も透を見つめ返す。なんだかおたがい、真剣だ。


「透。僕は君みたいに速くは走れない、だから僕の分まで走ってよ。一人で頑張れないときとか、どうしても足が止まったときは、応援している僕を思い出して」


 人は一人で生きられない。だからこそ、自分が出来ない部分を大事な人に託す。


 そういう生き方は、なんだかありな気がした。透は真っ赤に充血した眼をゴシゴシこすって、真っ白な歯を覗かせた。


「分かった、颯太の分まで俺が走る。約束する」


 透はそして右手を差し出した。


「これからも、お前だけは側にいてくれよ」


「うん、分かった。ずっと側にいるね」


 そうして僕たちは、初めて出会ったときと同じように握手をした。はじめて握手したときよりも、透の手には力が入っていた。


 でもそれは、透がふたたび走りだそうとしていることをなによりも教えてくれた。透をほんのすこし救うことができた。そう思うとこそばゆかった。


            ☆


「起きて、颯太」


 だれかの声だ。僕は眼を開ける。眼の前にある顔は、おばあちゃんが起こしてくれるときの顔にそっくりだった。僕は眼を見開いて飛び起きる。だけどそれはおばあちゃんではなくて理沙だった。


「颯太、出来たよ」


 ねぼけまなこの僕の背中を、理沙がいたわるように撫でてくれた。すこしずつ夢から覚醒していく。部屋には甘くて懐かしい匂いが立ちこめていた。食欲も眠りから覚めたのか、起きたばかりの僕の口に、気の早い涎が溢れだしていた。


「あ、そうか。理沙がなにか作ってくれていたのか」


「そうよ、ほら」


 理沙は僕の横に置いてある丼のフタを勢いよく開けた。それはうどんだった。しかしその具の中に、懐かしいものがあった。理沙は満足気な顔を浮かべる。


「石川家名物、かしわうどんです」


「……やっぱり」


 僕は一人ごつ。


 理沙はやっぱり祖母に似てきている。遺伝子はその人の子供ではなく、孫に色濃く遺伝する。そんなハカセの話を思い出していた。

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