☆病熱★ 1

「まったく、やんなっちゃうな」


「颯太って体が弱いのね。昨日水をかぶったのは私だったのに」


 理沙はベッドの枕元に腰かけて、洗面器からおしぼりをしぼって額に当ててくれる。僕はプール掃除の翌日に風邪を引き、学校を休む羽目になった。あんまり水には触れていなかったはずなのに、おかしいなぁ。


熱っぽくてふわふわする頭に、おしぼり型の優しさがひんやりと嬉しい。きっと焼けたアスファルトも、打ち水される瞬間は快感だろうなぁ。


「理沙も熱っぽい感じはするの」


 理沙は自分の額に手を当てて、うーんと悩んだ。


「熱っぽさとかはないかな。体はちょっとだるいかも」


「喉の痛みは」


「あんまりないかな」


「なんだか面白くないな。共感覚も名ばかりになってきたのかな」


「どうかなぁ。よく分かんない」


 理沙は曖昧に微笑んでいた。あ-あ、つまんない。そんなことを考えていたら、双子でも恥ずかしくなるくらいにお腹の虫が鳴いた。僕はとっさに咳でごまかす。


理沙は眉を持ちあげながら「お昼からなにも食べてないの」と、僕の耳たぶを人差し指でつんつんしていた。


「うん、母さんも理沙もいなかったからね」


「当たり前でしょ、学校があったんだから」理沙がむくれる。


「冗談だよ」


「でもそれだと夕飯までひもじいわよね。待っていて。なにか作るから」


 理沙は洗面器の水を零さないように、慎重な足取りで部屋を出ていった。トントンと階段を降りていく音が小気味よくて、なんだか安心する。


風邪とか引いて体が弱っていると、だれかが側にいてほしいのは人類共通なのかな。なんだかこんなこと言ったら、冷や透には笑われそうだけど。


 僕はカーテンが薄く開いている窓か外を覗く。屋根越しに見える空は、まだ日が落ちる時間じゃないのにかなり暗い。水分を吸っていかにも悪そうな黒い雲。


 僕は重い瞼を閉じる。一階にいる理沙の物音がかすかに聞こえる。だれかがいてくれる安心からか、しばらくするとすっと眠ってしまった。だれかが僕のために料理を作ってくれている。すごく温かい気持ちだ。



 懐かしい夢を見た。

 僕は高校一年生で、部屋でパズルをしていた。たしか母さんが町内会の抽選会で引き当てたムーミンのパズルだ。ミイとスナフキンとムーミンが、楽しそうに踊っているやつ。

 

 外は土砂降りの雨だ。しばらくこの秋雨は停滞しそうだと、夕飯のときに見ていたテレビのキャスターは言った。母さんはその人が悪いと言いたげに画面を睨んでいた。


 それはそうと、パズルに集中していたら玄関のベルが鳴った。僕は耳を疑う。時計の針を確認する。もう二十三時を超えていた。家族みんなはもう眠っているはずだから、このベルは家族以外のだれかが鳴らしたものだった。


 気のせいかな。


 僕はそう結論づけ、パズルに意識を戻す。その途端に四隅のピースを発見して幸せになる。


 また、ベルが鳴った。ピンポンという陽気な音は、すぐに雨が窓を叩く音でかき消されてしまった。

 

 こんな時間にだれだろう。回覧板のわけないようなと、僕はおそるおそる階段を降りる。玄関のガラス越しの向こうにだれかの影がわだかまってじっとしている。不安にかられ「すみません、どなたですか」と尋ねてみた。すると「颯太、俺だよ。透だ」と玄関越しの影がゆれた。


「透ってあの、池永 透かい」


「ほかにだれがいるんだよ」


 その声で間違いなく透だと確信し、裸足のまま玄関に降りて鍵を開けた。


「いったいこんな夜中にどう、したの」


 ドアを開けた僕は、そこで言葉がうまく出てこなくなった。


 透はずぶ濡れだった。そのころ透は髪を伸ばしていて、長く伸びた髪が顔に張りついて表情を隠してしまっていた。服は全身ずぶ濡れで、玄関にじわっと黒い水滴が広がっていく。この大雨にも傘を持っていなかったみたいだ。


「携帯で連絡したんがな。悪い、雨宿りさせてくれないか」


「ご、ごめん。気付かなかったんだ」


 僕は身震いした。それは雨にずぶ濡れだったことじゃなくて、急に押し掛けてきた透の眼に悲しい光しか宿っていなかったからだ。こんなに悲しい眼をした透を今まで見たことがなかった。


「ちょっと待っていて。バスタオルと着替えを持ってくる」


 僕は急いで洗面所に行ってバスタオルを二、三枚つかんで透に投げる。そのまま自分の部屋に戻り、すこし大きめの服を取って下に駆けおりた。


「これ、よかったら着て」


「うん、サンキュー」


「こっち」


 玄関で滴っていた透のパーカーを受けとりながら、洗面所に引っ張って連れて行く。そこで僕の服に着替えさせた。濡れた服は空の洗濯機に投げる。透はなにも言わず、黙って頭や体を拭いていた。


 ずいぶん雨に打たれたのか、透の唇は紫で、肌はぶつぶつと鳥肌が立っていた。その日の学校では、僕を校舎の端から端まで追い掛けてくるくらいに元気だったのに、今は冗談一つ言わない。まるで透に別の人格が乗り移ったみたいだ。


 僕は着替え終わった透を自分の部屋へ案内する。嘘みたいに静かな透は、部屋に入るといつものようにベッド中央に腰を下ろした。


 そのまま両膝を組んで体育座りみたいにして、その両足のくぼみに沈んだ顔を埋めた。取り返しのつかないなにかが、透を責め立てているみたいだ。


「透、どうしたの。元気ないね」


 僕は持って来たバスタオルで、水分で毛先がまとまる透の髪を乾かしていく。透はなにも言わない。僕はその背中にそっと手を添えながら、ベッドの反対側のタンスをじっと眺めていた。


 きっとなにかあったんだろうな。


 ふたたび透を見て、僕はぎょっとした。顔をあげた透の眼から涙が流れていた。だけど別のことを考えているのか、その涙に気づいていないようだった。


「透、泣いているよ」


「え」


 透は不思議そうに右の頬をさすって、はじめてそれに気づいたように首をすくめた。


「本当だな。外でずっと濡れていたから、感覚がおかしくなったかも」


 やぶれかぶれというか、ひとまず笑っておきましたというのがありありの笑みが、痛々しかった。


「透、また家でなにかあったの」


「やっぱり理沙や颯太にはお見通しなんだな」透はふたたび足のくぼみに顔を持っていく。「やりきれなくて、家を飛び出してきた」


「そうなんだ」


 僕はなにも聞かなかった。


 僕は中学三年生の時に透が起こした事件のあとに、透本人から直々に大体の事情は聞いていた。


 お母さんを物心つく前に亡くしていること。今のお母さんは継母さんのこと。お父さんが中学二年生以来行方不明なこと。透の引き取りを巡って、親戚中にたらい回しにあったこと。深く傷ついたこと。透のために裕章さんが高校を中退して働きに出たこと。透は今でも継母にあたる佳子さんを、“あいつ”と呼んでいて、打ち解けられないままでいること。


 透が語るどれもこれもが、僕にとっては信じられないくらい衝撃的で、どこか違う世界の遠い話のように思えた。だけどそれは僕のクラスメイトであり、大事な親友に起きた出来事で。


 そんな過酷な人生を受け止め、透は歯を食いしばって生きていた。

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