☆青夏の訪れ(後編) 2
「おえ、気持ち悪い」
皆がプール掃除をしているなか、ハカセと僕はプールに備えつけてある簡易テントで休んでいた。テントもずいぶん年期が入っていて、根元の骨組は黒く腐食していた。
なぜ僕たちは休憩しているかというと、調子に乗った男子になんども胴上げされたハカセが、吐き気を催したためだ。そのハカセの背中を優しくさすってあげる。僕はそういう役目を先生から仰せつかったんだ。
「大丈夫、ハカセ」
「ああ、多分」
はんぺんみたいにぐったりしたハカセの横で、プール掃除に右往左往するみんなを見渡していく。
ホース係の冷は、上半身裸の男子集団を率いてプールの真ん中にいた。
元気組の先頭に立って水を巻き、セミに勝るとも劣らない大声で夏メロを熱唱している。なんだか夏が逃げだしそうな勢いだ。曲のリズムに合わせて動くデッキブラシが、新しい生き物みたいに勝手気ままに動いて楽しい。
しかしもう一組、男子のうるさいメンバーが集まる場所があった。そこはプールの淵で、やっぱり上半身裸の透とラグビー部が集まっていた。
男子が代わる代わるに一発芸を披露しては手を叩いて抱腹絶倒笑し、タオルみたいに丸めた上着をライブ会場のようにブンブン振り回している。
なんだかそこには、なにをやっても滑らないように一致団結して盛りあげる、男子の底力があった。見ていてアットホームなのがいい。そのなかで透も生き生きしていて、なんだかこっちまで愉快になる。
亜弥や理沙もそんな男子たちに負けじと、照りつける太陽に遜色ないくらいに、輝かしい笑顔を振りまいてプールサイドを磨いている。
ああ、こんなキラキラした毎日が続けばいいのに。僕は夏の熱に浮かされていた。
空の蒼さとプールの青さに挟まれた僕らは、おたがいの輪郭をなくしていく。そしてただ楽しいだけの感覚でつながっていく。楽しさが僕たち一人一人からこぼれるように溢れ、それがまた隣の人たちに伝わって輪を広げていく。
それは青い夏だけが、僕たちにくれる奇跡の感覚だ。
「
掃除もそろそろたけなわ、理沙と亜弥がテントにやってきてハカセの容態を尋ねる。亜弥はハカセのことをちゃんと名前で呼ぶ。こういうところが家柄がいい由縁だろうな。
「だいぶ回復してきた。だけどあいつら覚えとけ。絶対に許さん」
ハカセが怒りをあらわにした瞬間、また気持ち悪そうに口を押さえた。すると細貝先生がタイミングよく戻ってきて「すまん、探すのに手間が掛かった」と、職員室から持ってきたらしいビニール袋をハカセに手渡す。
ハカセは素直に受け取ろうとしたけれど手を止めて、先生に一瞥をくれる。
「そういえば胴上げされているときに助けを求めたんですが、先生が一番楽しそうでしたよ」
「ありゃ、バレてたか」
先生は悪戯がばれた子供のように舌を出した。不信な表情のハカセに無理矢理袋を手渡すと話を強引に逸らす。
「しかし、これだけの人数がいると、あっというまにキレイになるな」
「ですねぇ」
僕は感慨深く頷く。
プールサイドは女子たちの頑張りで見違えるようにキレイになり、よりいっそう太陽の照り返しがキツくなった。プール槽の掃除も佳境に入り「そーれ、そーれ」と男子たちは一列に並んで仕上げに入る。冷のホースから流れる水を頼りに、軍隊のように足並みをそろえて磨いていた。
そのまわりを女子たちはとり囲み、仲良し同士でおしゃべりしている。ツルツル滑るプール床で鬼ごっこを楽しんでいる人たちもいる。
僕は冷に大声で尋ねる「冷、そろそろ終わりそう」
「あとすこし」
冷は手を振りながら叫び返してくれた。遠目にはよさそうだけど、近くで見ると気になる汚れがあるらしく、男子数人が重点的に、デッキブラシで擦っていた。
「しかしあの悪ガキ、今日はやんちゃしなかったな」
先生はプールの端に眼をやる。そこには側溝を磨く、けなげな透の姿があった。透は手を酷使しすぎたのか、器用にたわしを足にはさんでいる。その背中がはしゃぎ疲れたと語っていた。
「さて、これくらいにするか」
細貝先生は手に腰をあて、プール掃除の終わりを告げるホイッスルを鳴らそうとした。そこで別の先生がプール入口から顔を覗かせた。
「細貝先生。お電話ですよ」
なにやら急用らしい。
細貝先生はくわえていたホイッスルを外し、呼びにきた先生とプールの端で二言、三言言葉を交わす。そのあと生徒全員に向かって、手でメガホンの形を作りながら大声を張り上げる。
「用事が出来たから、俺は先に職員室に戻る。冷、亜弥。お前たちを中心に片付けして、各自昼休みに入るように。俺がいないからって遊ぶなよ」
そう言い残して先生二人は出ていった。僕はその場でつま先立ちになり、うーんと伸びをした。楽しかったプール掃除もこれで終わりか。そう油断したときだ。
「おい、こら、止めろ」
だれかの慌てた声がプールの中頃から響いた。どうしたんだろう注目してみると、冷とだれかがホースの奪い合いをしている。次の瞬間、冷がそのだれかの足払いで派手に転ばされた。その拍子に、そのだれかは冷の手からホースを奪いとる。
「よっし。こっからが本番だ」
おとなしく猫の皮を被っていた透が勝利の雄叫びがあがった。
その顔には、今まで大人しくしていたから覚悟しろよという、不敵な笑みがあった。透はホースの先をしぼりながら辺り構わず次から次へと、近くにいた人に向けて放水していく。男女問わずほとんどの生徒がプール槽のなかにいた。
「おい、止めろ」「だれか、透を押さえつけろ」「きゃあぁぁぁ」
逃げ惑うクラスメイト。水が捲かれたプールはツルツルすべりやすくなっていて、あちらこちらで転ける人たちが続出。不覚にも、逃げまどうみんなの姿に僕は笑ってしまった。
だけど透の悪ふざけに便乗し、だれかがホースがつないでいる蛇口を目一杯解放する。透のホースと僕たちのすぐ近くの女子が持っていたホースから、凄まじい勢いの水が噴出し、女子の手を離れたホースは暴れ馬のように跳ねている。
「おい、透、止めろ」
なんとか立ち上がって止めようとする冷にも、透は「さっきはよくもやってくれたな」と集中放水する。あまりの水圧に、冷はなすすべなく撤退する。こうなってはだれも透を止められない。僕は側溝まで歩み出て大声で叫んだ。
「おい、透。それ以上は危ないよ」
叫んだあとですぐに後悔した。透は気付いてしまった。僕や理沙、亜弥、ハカセの四人がプールサイドにいることに。
「颯太、チェックメイトだ」
透は巧みに滑るように走りながら僕たちにホースの先端を向けた。押し寄せる水しぶき。僕は反射的に眼をつむって身をかがめた。
ビシャッ
僕の身に、すさまじい水の圧力と冷たさが襲いかかってきた。僕は尻餅をついて仰け反った。すると横から女の子の悲鳴があがる。
僕はそのまま数秒間、かがんだままだった。しばらくそのままでいると後ろから「理沙、大丈夫」という亜弥の切迫した声が聞こえた。
あれ、どういうこと。
うっすら眼を開ける。見る限り、僕の体は濡れていなかった。たしかに水の感覚がしたはずなのに。そこではっとする。
共感覚だ。
それに気づいて後ろを振り返る。そこにはびしょ濡れで床にうずくまる理沙がいた。僕がしゃがんだせいで、透の放った水は後ろにいた理沙に直撃してしまったのだ。
「理沙」
「理沙、怪我とかしてないよね」
僕と亜弥がずぶぬれの理沙にかけよる。理沙は顔を伏せ、なにも言わない。顔や髪から水が滴り落ちていて体操服もびしょ濡れだ。
「もう、許せない」亜弥が烈火のごとく透を叱りつける。「ふざけるのもいい加減にしてよ」
透は「え、あ、いや」とパニックみたいに慌てる。僕もさすがの透でも、許せなかった。
「透、冗談じゃすまないぞ」「悪ふざけも大概にしなさいよね」
僕たちは怒りの矛先を透にぶつける。透は「そんなつもりじゃ」と険しい顔。そのとき理沙が呟いた。
「……はは」
「大丈夫、理沙」「頭を打ったんじゃないのかい」
理沙は顔を上げ、可笑しそうに手を叩いた。僕と亜弥はそれを呆然として見ていた。ひとしきり笑ったあと、理沙は顔を洗うみたいに水を手で拭っていく。
「私なら大丈夫よ。亜弥、ごめん。ちょっと立たせてくれる」
「あ、うん」
亜弥は理沙を立たせる。そして理沙は透に屈託のない笑顔を輝かせる。
「もう、とおるくんってば、最低!」
その顔は全然怒っていない。
透は怒られると覚悟していたのに怒られなかったことで、びっくりして口をパクパクさせている。そこに冷が後ろから透に忍び寄り、お返しと言わんばかりに足を払って転けさせる。
透は派手に転んだ拍子に後頭部を打って、悶絶していた。冷は透からホースを奪い返しながら、「よくもやったな」と、お返しに透の顔目掛けて放水した。のたうちまわる透を見て気が済んだのか、冷はホースを空に向けて終わりを宣言する。
「よし。悪者も退散したし、片付けすっか」
その冷の握ったホースから出た水が空に駆け上がり、太陽の光をプリズムのように反射させた。その向こうには鮮やかな虹が掛かっている。みんなでこのプール掃除の楽しさを分かち合いながら、わいわいその虹の下を皆でくぐる。
僕たちの熱い、青い夏がやってきた。
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