☆青夏の訪れ(後編) 1

 今日はなんだか、みんな浮かれていた。


 透や冷は時計を一分おきくらいに確認して、まだかまだかと時計の針をせかす。プール掃除と聞いて最初はだるそうにしていたクラスメイトたちも、なんだかんだ言って、早く授業終わんないかなぁって顔だ。


 数学の先生も、生徒の眼の輝きが別のところにあるのを知っていながら、黒板に必要なことを板書し続けて素知らぬふりをしている。外では蝉がうるさいくらいに声を張り上げていて「早くおいでよ」と、自由な夏へ僕たちを招待していた。


 僕は横の席に眼をやる。そこには愛しい亜弥がいて、ノートにさらさらとメモを取っていた。


 じつはこのまえ、新しい月の席替えがあり、僕はまさかの亜弥の隣になった。それからというもの、僕はウキウキしながら学校に登校していた。可愛い子が隣だと、どうしてこんなにも日々は輝き出すのかな。


 そんな僕の浮かれ具合を見て「最近、颯太浮かれすぎじゃない」と理沙がいぶかしんだことは、まあ、夏のせいってことで片付けてしまおう。亜弥は僕の浮かれ具合を知ってか知らずか、なにやら手紙らしきものを僕にそっと渡してきた。僕はそれを緊張しながら受け取る。ラブレターならいいな。


 今日のプール掃除、楽しみだね!


 真っ白な紙に赤い蛍光ペンで、それだけ書かれていた。まあ、楽しみに違いはなかった。違いないんだけどな

ぁ。


 そして二限目の終わりを告げるチャイムが響き渡る。クラス中のウキウキが爆発したように、みんな慌ただしく立ち上がった。ついにプール掃除の時間が到来した。


「おーい、お前ら。さっさと更衣室で着替えろよ」


 細貝先生は隣の授業だったらしく、回収した宿題を片手に教室に顔を出した。その胸元にはホイッスルがぶらさげてあって、先生も待ちきれなかったのかなぁと僕は苦笑い。


「よ〜し、着替えるぞ」「颯太、行くぞ」


 僕が体操服を入れたビニールバックを手に持った途端、冷と透がイノシシみたいに突っ込んできた。透が僕の背中から羽交い締めを決める。


「ちょ、え」


「颯太、連行しまーす」「協力しまーす」


 そのまま僕はズルズルと引きずられる。シューズが床と擦れて悲鳴をあげる。安定感のない羽交い締めが怖くて、僕はそばにいたハカセの背中をとっさにつかむ。


「おい、颯太。離せ」


「いやだ、このままだと拉致される」


「諦めろ、年貢の納めどきだ」「往生際が悪いぞ」


 女子たちはそんな僕たちのふざけあいを見て笑っていた。


「颯太くん、可愛い」「なんだか弟みたい」「あいつらって、本当に仲がいいわね」


 そんな声で僕は恥ずかしくなった。男なのに可愛いって。すると僕の親愛なる妹が冷と透に近づいてきて、主犯格の二人の耳を思いっきり引っ張った。


「痛って」「っつう」


「もう。うちのお兄ちゃんに乱暴なのはやめてよね」


 よっぽど痛かったのだろう。冷と透は僕をしばっていた魔の手をゆるめると、耳がとれてないか両手で確かめていた。


「本当、助かった」僕は理沙にお礼を言った。「どうなることか」


「お兄ちゃんのためだもの」


 理沙はいつもより輝いていた。だけどハカセは僕の行動が信じられないという様子だった。


「酷い目に合うところだった。颯太、プール掃除中は俺に近づくことを禁じる。分かったな」


 ハカセを道連れにしようとしたことをとがめられ、しばしの絶交を言い渡された。僕は悪くないのに。


「はい、そうします」


 僕は面倒な連れの不手際ふてぎわに、ただただ謝るしかなかった。


            ☆


 僕たちはプール入口で上履をほっぽりだすと、熱されたアスファルトでひいひい言いながら、ロッカーで体操服に着替える。ロッカーからはツンとした塩素の匂いがした。その匂いだけで、もう夏だってことが鮮明になる。クルクル回る換気扇は、夏を見送った数だけ黒ずんでいて、歴史の証人みたいだ。 

 

 僕はロッカーの一番上に荷物を入れ、シャツに手を掛けた。透や冷みたいな元気一杯組は、日頃鍛えている肉体美を疲労しながら、ポンポン着替えていく。


 一方、僕とハカセみたいな頭で勝負組(僕はあまり勝負できてない)は、さみしい体を見られないようにコソコソ着替える。


 こういうとき、僕たち頭組は肩身が狭い。なんだかんだ言って男子は筋肉主義だ。男子の世界で生っ白くて細いのは、雄としての本能で負けている気がする。


 たしかに僕も、透や冷みたいな体には憧れるけど、夏の日にクーラーをガンガンかけ、寒いくらいの部屋で毛布にくるまって寝るのが趣味の僕には、到底無理な話だな。


 元気組の頭領の透と冷はお供を引き連れ、女子の着替えを覗こうとか、女子の下着を盗もうなどと良からぬことを企ててロッカーを飛び出した。しかし女子ロッカーの前で細貝先が厳しく眼を光らせていて、そんな物騒なことは起こらなかった。


 着替え終わってプール脇に集合すると、当たり前だけど、男子も女子も水着ではなく見慣れた体操服だった。


「ちょっとだけ期待したんだけど、スク水着ている女子はいないんだな」透が悲哀のこもった声でそう呟いた。


 細貝先生はラフなTシャツと短パンという出で立ちで、皆の前に立ってキビキビと指示を出す。先生の指差す先には大量のデッキブラシにたわし、雑巾、バケツにホースが、この殺人的な紫外線にぐったりとやられて、熱中症のように床に横たわっていた。


「よし、全員揃ったな。諸君、道具を手に取れ。あと男女一名ずつ、代表者を決めてくれ。そいつらはホースで水を巻くんだ」


 すったもんだがあり、結果として男子代表として冷、女子代表として亜弥が選出された。ほかの生徒たちはデッキブラシやたわしを思い思いに手に取る。それらは太陽に熱せられていて、最初は強く握れなかったほどだ。


 透も花形のホースをやりたいと立候補したけれど「お前がホースを持ったら暴れるから持たせん。お前はホースの五m以内に立ち入るな。おい、ラグビー部。透を見張っとけ」と、細貝先生に拒否されていた。


 細貝先生の一言で、ラグビー部の屈強で筋肉ムキムキな彼らが透のまわりを囲む。


 透はそれが不服だったらしい。


「先生、冷だってなかなかの悪ガキですよ。あいつ、こないだ風邪で欠席の振りしてバスケやっていましたよ。それにあの髪の色だって本当は日焼けじゃなくて、染め」


 透の告げ口に、冷は光の早さで透の首をヘッドロックで締め上げてその口を塞いだ。


「やだなぁ、透くん。面白い冗談だよね。そうだよね」


 にこやかな笑顔でしらを切る。先生を含め僕たちは笑っていたが、透は本当に苦しそうに降参のタップを繰り返していた。


            ☆


「よし、清掃開始。お前ら、行け」


「おお!」


 相変わらずノリが分かる元気組はときをあげながら、二十五mプールに足を踏み入れようと進軍する。そして残りの男子とか女子がだらだらと後塵こうじんを拝する。


 しかし僕たちの前を行軍していた元気組がどういう訳か、プールの縁で足踏みした。僕たちはなんでだろうと、その肩越しや人の切れ間からプールを覗いた。

 

 そしてその理由を察する。僕たちのなけなしのやる気が、風船から空気が抜けていくかのようにしぼんでいく。みんな一年間眠っていたプールの底力をなめていた。


 昨日から水が引かれているプールの底には、見たこともない緑の微生物が溢れ返っていた。


 夏の日に見慣れている青いプールの面影はどこにもない。薄く残っている水の表面に、カナブンやゲンゴロウのべっ甲みたいな甲羅が、怪しく太陽の光を反射している。


 気の早いトンボの死骸なんかも、風で水が揺れるのに合わせて水面を漂っている。プールからはどぶと塩素の匂いが混じった、おぞましい異臭がした。


 プールの水底にいる得体の知れない緑の生き物たちは、ただ水にゆられているだけなのか、それともうごめているのか見分けがつかない。


 女子たちはあまりの気持ち悪さに甲高い悲鳴を上げて一斉に固まる。僕たち男子も怖いものやグロイもの見たさに覗きこみ、だれかが突き落とす真似をしては、やめろよやめろよと盛りあがる。


「これってミトコンドリアじゃね」「こんな生物、見たことないわ」「気持ち悪すぎ」「足を入れられる奴、マジ尊敬するわ」「夢に出てきそうだな」


 男子が物怖じしていると、女子の学級委員長が僕たち男子の前に一歩踏み出した。


「ちょっと、男子。女子はこんな気持ち悪い作業できないから、プールのまわりを清掃するわ。男子はプールのなかの清掃をお願い。ある程度済んだら手伝うから」


 ちょっとどころじゃなく、かなり理不尽なルールが押し付けられてしまった。さすがに男子から不満の声。


「ふざけんなよ、こんなときだけ女子面すんな」「俺たちだって嫌だよ、ちったあ手伝え」「そんなんだから彼氏出来ねぇんだよ」「可愛くねぇな」


 男子たちの罵詈雑言ばりぞうごんに、今度は取り巻きの女子も黙っていない。


「なによ、男のくせにだらしないわねぇ」「モテないくせに」「そんなんだから彼女出来ないのよ」「すこしは世の中のためになりなさいよ」


 おたがいが譲らずにヒートアップし、一色触発いっしょくしょくはつの雰囲気になってきた。そんなとき、じっと事態を見守っていた蒼い眼鏡のあのお方が、先生に質問する。


「先生、この水ってもう少ししたら完全に引くんですか」


「ああ。そのはずだ」


「だったら」


 腑に落ちない先生を放置して、ハカセが呼びかける。


「もうすこし待てばいい。完全に水が引いたら、端から掃除していくんだ。白い側溝から身を乗り出せば、下に降りなくてもデッキブラシが届く。それがあらかた済んだら、プールに足を付けて端から中央に順に掃除していけばいい。そうすれば緑の奴らに触れずに済む」


 なぜだか皆が無言になる。


 照りつける太陽。熱せられたフェンス。光る汗。

 そして、ハカセの名案。


「それはいい作戦かもな」


 細貝先生が水を引く吐水口のメーターを確認しながら感心する。


 元気組の人たちからその手があったかと感嘆が起こった。ハカセは照れくさそうに眼鏡の位置をなおした。すると冷が透に目配せし「よし、そんなハカセを胴上げだ」と叫びながら、ハカセを担ぎあげる。


 だけど透はそれには関わらなかった。その代わりというように、面白がった男子もノリで加勢に加わる。


 いつもは面倒臭がりなのにこういう時の結束が早いのが男子のいいところでもあり、くだらないところなのかな。いや、やっぱりいいところだ。


「ちょっ、止め」


 男子のノリの犠牲に選ばれたハカセは最後まで抵抗した。けれど男子数十人の前には抗えず、あっというまに胴上げされ、青い空を花火のように宙に舞った。もちろん花火ほど高く飛びはしない。僕はその悪のりに参加せずに下から眺める。ハカセ、今日は災難だな。


「男子って馬鹿だよね」


 女子たちは呆れながらも、楽しそうにハカセが宙に舞うのを夏の風物詩のように眺めていた。僕は思う。馬鹿って多分、男子の最上級の褒め言葉だ。

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