★過去につなぎとめる鎖 3
俺が中学校一年の晩夏、一つのうねりが池永家を襲った。
「あの人が、どこにも見つからないらしいの」
そう口にした“あいつは”、卒倒しそうなくらいに青白い顔をしていた。
父さんが失踪したことが分かったのは、”あいつ”が家事に精を出していたお昼頃だったらしい。定時を過ぎても仕事場に来ない父さんを心配して、同僚が”あいつ”の携帯に連絡したようだ。
その日の父はいつも通り背広を着て、俺たちと一緒に玄関を出ていた。“あいつ”はそんなはずはと
震える手でなんどもなんども父さんの携帯に掛けるも繋がらない。青葉の影で鳴いていた蝉が道端に転がる季節だった。
それから三日待ち忍び、一週間辛抱する。
父さんが連絡を断ったのは、一時の気の迷いで、きっと思いなおしてくれる。
そんな淡い期待を胸に、“あいつ”は警察に捜索願を出さずにいた。だが待つと決めた期限を過ぎても音沙汰はなかった。そしてついに、今後どうするかの家族会議が開かれた。
「どうせ新しい女でも作ったんだろう」
「透、冗談言わないで。これは大問題なのよ」中学三年生だった舞ねぇは混乱していた。「お父さん、なにがあったのよ」
「だからあいつは、俺たちを捨てたんだよ。別にいいじゃねぇか。あいつが家にいなくたって」
俺の乱暴な物言いに、考えごとをしていた裕にぃが釘を刺す。
「透。お前は事態の深刻さを分かっていないらしいな。いいか、お前がいくら父さんを目の敵にしているとはいえ、俺たち家族がここまでやってこれたのは、父さんのおかげだ。だれが俺たちの食費や家賃、学費を払ってくれていたと思っている」
「それは」
「父さんを憎む気持ちばかりで、今まで育ててきた恩すら感じられない。まさかそういう訳じゃないよな」
俺がなにも言い返せずにいると、“あいつ”が預金通帳を片手に唇を噛み締める。
「透んんを責めないであげて。もちろん、いきなり生活できなくなるわけじゃない。貯金はいくらかある。けれどこれが無くなったら」
“あいつ”の沈黙を前に、俺はやっとことの重大さを思い知った。
「捜索願を出しましょう。明日の朝一番で行ってくる」
上の二人が頷いていた。俺は当然のことながら多数決に従った。俺は自分が経験して初めて知ったのだけれど、捜索願が受理されて一週間で見つからないと失踪者が見つけ可能性はがくんと下がるらしい。懸命な警察の捜索にも関わらず、父さんは見つからなかった。
そして“あいつ”は父さんに変わって家族を支えるために、主婦だけではなくパートに出るようになった。
このころから高校二年生だった裕にぃもアルバイトを始めるようになる。だが中学一年生の俺と、来年に高校受験を控えた中学三年生の舞ねぇは、アルバイトはしなくていいということになった。
それからの日々は綱渡りみたいに、どうなるか不安だった。しかしなにごともなく月日は流れ、一ヶ月が経ち、二ヶ月が流れ。裕にぃが“あいつ”に、なにやら真剣に話をしているのを見かけることがあったが、舞ねぇから「私たちは知らないフリをするのよ」と口酸っぱく言われていたので、出来るかぎり気にしないように務めた。
朝食や夕飯の量や質は明らかに落ちたが、昼の給食をしっかり取れば、なんとか
意外にこのまま、なにごともなく平和に暮らせるんじゃないか。
そんな期待は、もろくも崩れさる。
“あいつ”が俺たち兄弟三人を居間に集め、神妙に、しかし出来るだけ穏やかに事情を説明した。告げられた話は、俺にとってあまりに残酷だった。
“あいつ”や裕にぃが稼ぐ給料だけでは、子供三人を育てることはとても出来ないということ。兄弟のうち、俺だけを親戚の家に預けることに決めたこと。
つまり俺だけが、仲間外れのように生まれ育ったアパートを離れなくてはいけないこと。
裕にぃは激しく抗議した。「話が違う。その決断はしないって決めたはずだ」
舞ねぇも俺を抱きしめる。「ねぇ、なんでそんなことを言うの。私たちから透を奪わないで」
俺は裕にぃと舞ねぇだけが俺のことを必要としてくれた。だけど“あいつ”は、やりきれないように首を横に振った。
「ごめんね。でも私にはどうすることもできないの。相手からは、一人だけなら考えるって」
その一人に俺が選ばれた理由はいくつかあるだろう。
経済的視点からすれば、俺がもっとも成人までの日数が長く、単純にお金が掛かる。それに俺は男だったから、義務教育が終われば昼食を家で賄う必要があって、食費は馬鹿にならない。
だがどうしても
相手の立場に立てば、間違いなく出来が良くて人当たりのいい裕にぃを、同居に希望するだろうから。でもそれを今更考えたところで、真相は薮のなかだ。
俺が預けられる家に行くまでのあいだ、“あいつ”は俺を励ましてくれた。
「透くんのお父さんが生きていたころ、親戚の人は優しくて立派な人だと言っていたよ。きっとその人たちが透くんを大切にしてくれる。いつでも裕章や舞に遊びに来ていいのよ」
私のところに、とは、“あいつ”は言わなかった。
そうして俺の新しい生活が始まる。そんなふうに見えた。だけど不幸はいつだって、連なってやってくる。
俺は世界から見放されたような思いを抱えたまま“あいつ”に連れられ、親戚の家に引き取られる挨拶に出向いた。そこで正式に顔合わせがあり、その家に預けられる手筈だった。
その家は団地内でもかなり大きく、車庫にはテレビでしか見ないような、黒くてでかい車が二台並んで置かれていた。庭付きの一戸建てで門が馬鹿みたいに禍々しく、外界の?がりを断った監獄のようだった。
まるで自分が自分でなくなるような気がして足が震えた。口はからからで、唾液も出ない。手に力が入らない。もうなにも考えられなかった。なにも考えるな。なにかを考えれば、俺は壊れてしまう。それだけは分かっていた。
“あいつ”が玄関のベルを押す。
しばらくすると、髪をポマードで固めたオールバックの男がドアを開けた。空いたドアの隙間はわずかで、そこから顔だけを覗かせた。下から見上げていた俺の眼に映ったのは、ドアを明けている手にはめられた派手な時計と、玄関の後ろに置いてある高価そうな花瓶だった。
その男は緊張し戸惑う俺たちを余所に、下顎の髭をもてあそびながら言った。
「来てくれたところ悪いんだけど、気が変わった。その子は預かれない」
「えっ」
「事情が変わった。今日のところは帰ってくれ」
耳を疑った。自分はまるで物のように一瞥されただけで、その男は
そのあと“あいつ”がなんどもベルを鳴らす。だけどだれも出てこなかった。そして十分ほどベルを鳴らし続けたあとで、なすすべない俺たちは出直すしかなかった。
「……帰ろうか」
“あいつ”の言葉に力はなかった。俺は黙って一回だけ頷いた。
とぼとぼと門をくぐった俺は、ふとその家の二階を見上げる。その家の子供だろうか、肩を落とす俺たちを指差し、もっと面白いことは起きないかと顔を輝かせていた。
俺の視線が重なると、そいつらはいたずらがバレたのをごまかすように照れ笑いして、カーテンを引いた。
もう一度あいつらがこっちを見やがったら、血祭りにあげてやる。
俺は揺れるカーテンをじっと睨んでいた。だけどそのカーテンが開けられることは、二度となかった。
受け入れを断られたあとのことは、思い出したくもない。
血の繋がった父や母の親戚をいくら回っても、だれ一人俺のことを引き取ってくれる奴はいなかった。そいつらはただただ困惑したような顔を浮かべ、冷ややかな眼で俺たちを値踏みした。
「他人の子を育てる余裕なんてない」「素行だってよくないんだろう、いまどき同居なんて」「まだ帰ってこないと決まったわけじゃない。帰った帰った」「たとえ継母であっても、最後まで子供の面倒を見るものだ」
そうやって断られ続けた、なんどめかの帰り道で。
断られた親戚の家からアパートに帰る道すがらに、ボロボロのスーパーがあった。そこで“あいつ”はなにを思ったのか、俺にアイスを買ってくれようとした。
「好きなもの、買っていいよ」
スーパーの入口に続く砂利道の途中で無理に笑ってみせた。俺をどうするかの先行きも見通せない、地獄のような日々を送ってからというもの、“あいつ”は明らかに老け込んでいた。今も笑うその顔には、ブルドックみたいな深いシワが刻まれていた。
「そんな金、どこにあんの」
口を尖らせながら、靴の爪先で地面を蹴る。じゃりっと嫌な音が耳に残った。
「透くんは馬鹿だなぁ、アイスが買えないほど、お金には困ってないよ。……本当に、ごめんね」
あいつはそこで両手で顔を覆ってうずくまり、公衆の面前で嗚咽をこぼしながらその場にしゃがみ込んだ。
それは父さんの愛を信じていた自分に対する哀れみか。いつまでも引き取り手が見つからず、たらい回しにあう俺への同情か。はたまたどこまでも上手くいかない人生というものを嘆く涙か。
それは分からない。でもこれだけは分かった。
俺は、『要らない奴』だ。
結局“あいつ”はアイスを買ってくれて、俺の手に握らせた。そのアイスを食べながら空を染め上げる茜空を眺めていた。太陽が俺を笑っていた。それに気づいた俺はなにも考えずに、その太陽に笑い返していた。
そしてその夜。
ここ最近、ずっと難しい顔で俺たちを寄せつけなかった裕にぃがある提案をした。
「俺がこの家を出ていく。その代わりに、透をこの家に置いてほしい」
裕にぃの話はこうだった。
裕にぃは苦しい家庭事情を、信の置ける友達にすでに相談していた。するとその友達の父さんの知り合いに、建設会社の社長として働いている人がいた。
優秀な成績でありながら働き口を探す裕にぃに、強い興味を持っているということだった。俺たちがたらい回しにあっているあいだ、裕にぃは秘かに友達のお父さんに頼んで社長と面会する機会を提供してもらい、そこで直談判した。
「どうか御社で働かせてください。誠心誠意、心を込めて取り組まさせていただきます」
相手方はその誠意に痛く感心したらしく、俺たちの家庭の事情を特別に考慮し、寮での朝昼晩の三食を保証したうえで、入居費を格安で提供することを約束してくれたらしい。
「俺が働いて稼いだお金は、全額家にいれる。その代わりに、佳子さんにはちいさい透をこのアパートに住わせて欲しい」
厳しい家計の俺たちにとって、その提案はまたとないものだった。
だが俺は断固それを拒んだ。まるで首を横に振り続けるしか能のない人形のように。舞ねぇもただただ机に突っ伏して泣いた。“あいつ”もそんな俺たちと一緒で、運命に
俺は知っていた。
裕にぃは優秀で、だれからも将来を期待される人物であることを。
パイロットになりたいという夢を周りの友達にずっと零していて、その夢を叶えるために、高熱が出てふらふらな状態でも学校を休むことはなかった。そんな裕にぃは実際成績もよく、誰しもがその夢を追いかける姿勢に、この子ならもしかしてと、夢を重ねた。
だが裕にぃは笑って、そんな輝かしい未来を放り投げた。実直な眼差しを俺にくれた。
「勉強には飽き飽きしていたんだ。透には普通の生活を送って、普通の幸せをつかんでほしい。俺の血の繋がった、数少ない兄弟だから。俺の分まで、学校生活をしっかり楽しんでくれよ」
俺は忘れていた。裕にぃは昔から、優しい嘘をつける人間だった。
俺は額を膝に付けるようにして自分の心臓をつかんだ。裕にぃの未来を奪った自分。
★
「なんで俺は、この世に生まれてきちまったんだよ」
もしも俺がいなければ、裕にぃが夢を諦めることはなかった。舞ねぇも大学に
行けていたかもしれない。いけ好かない“あいつ”も楽だったろう。
それを言いだしてしまえば――
そもそも俺がいなければ、父さんは失踪しなかったんじゃないか。
輪を乱し続ける自分。それは剣持先輩の一件にしたってそうだ。剣持先輩がレギュラーになっていれば、俺たちバスケ部は今頃一致団結していたんだ。
「そういうことかよ」
心臓をつかもうとした手を離しながら、ついに気付いてしまった。
俺は絶望的なまでに、世界に噛み合っていない。
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