★過去につなぎとめる鎖 2

 自分のアパートの305号室を開け、三和土たたきに置いてある靴を確認するようになったのは、いつからだろう。


 左脇に置いてある黒いパンプス。“あいつ”のパート用のもの。それ以外の靴はない。


「舞ねぇ、今日はバイトだったか」


 俺は上がりかまちに腰を下ろさずに、踵が潰れたスニーカーを右脇で脱いだ。そして右の洗面所に直行して洗面所のなかにバックの中身をひっくり返す。蒸れた靴下も放りこむ。


 息を大きく吸って居間に向かうと、“あいつ”はダンボール二つに両脇を挟まれながら、ちゃぶ台前に座っていた。


「ただいま」


「おかえり」


 “あいつ”は右脇に置いてあるダンボールから、透明袋に入ったポケットティッシュを取りだすところだった。


 表面を親指と人指し指でずらすと、空いた空間に地方の広告カードを挿入する。そして左のダンボールに収める。


 左のダンボールには広告カードが挿入されたポケットティッシュが整理されて詰められている。


「待っていて。すぐにご飯の支度をするから」


 “あいつ”は膝で立ちながらダンボールを片付けようとする。部屋の端に眼を向けると、そこにはまだ開封されていないダンボールが山積みされていた。


 俺たちを無言で圧迫するダンボールの群れ。パートを辞めた奴の関係でなにかと忙しいらしく、内職が滞っていたようだ。俺は“あいつ”を見下ろすようにして言う。


「そのままでいい。俺がやる」


「でも」


「いいから」


 俺は有無を言わさずにダンボールを奪う。そして自分が座る場所の左右にダンボールをセットすると、さっき見たのと同じ作業をする。


「ありがとう、助かるわ」


 そうして俺は“あいつ”が料理する音をBGMにして、ひたすらに無心で作業に没頭する。


 この内職を“あいつ”が始める前まで、俺はこういう作業をしている奴らが世の中にいることを、まったく意識したことがなかった。自分がいかに無知だったかを思い知らされる。なにかの物事には、必ずそれに関わる奴が世界のどこかにいるんだってこと。


 ポケットティッシュにカードを詰めると、一個につき一円が支払われる出来高制らしい。その作業が終わるたび、俺は心のなかで一円、二円、三円と勘定していく。


 単調な作業は開始してしばらくは苦痛だが、いつのまにか無心になっていく。すこしずつダンボールの空間が狭まっていくとちいさな達成感が湧くこともある。あと二つ、もう一つ。


 そうやって我を忘れていたら、「そろそろご飯にしましょう」と中断を命じられる。俺はダンボールを部屋の脇に移動させ、広告カードを電話帳の横に置いて、ちゃぶ台に布巾を掛けた。


 そして箸を二つ並べて待っているとお盆が運ばれてきた。


 パートで一緒に働いているおばさんからもらったという唐揚げと漬け物、それから豆腐とわかめのみそ汁に大盛りのご飯。


「いただきます」

 俺が料理をむさぼり食うあいだに、“あいつ”はふたたびダンボールを引っぱり出して作業を再開した。


 おそらく夕食は、舞ねぇが帰ってきてから一緒に食うつもりなのだろう。テレビを付けるタイミングを逃してしまって、俺はひたすらに沈黙を埋めるように箸を動かした。気詰まりだった。


「お茶がなかったわね、ごめんなさい」


 “あいつ”が注いできたコップを受け取ったときだ。


「そういえば舞が気にしていたんだけど、透くんの修学旅行はどこに決まったのかな。そろそろ保護者に通知が来るって言っていたのだけれど」


 舞ねぇ、余計なことを。


 俺はお茶でご飯を飲み下しながら、舞ねぇのお節介に舌打ちをしていた。じつは『修学旅行のお知らせ』はすでにもらっていた。けれど“あいつ”には見せずにゴミ箱に捨てていた。


「プリントとか、もらってないわよね」


「もらってない」


「そう。今年は遅れているのかもね」

 残滓ざんさいまで腹におさめるべく箸を動かすも、すでに頭のことは修学旅行の件のことで一杯だった。


 俺たちの高校の修学旅行は毎年東京付近と決まっていた。


 バスでクラスメイトと東京観光をして、ゲレンデを颯爽とスキーで滑って行く。冷や颯太と夜までばか騒ぎして、枕投げをして。そして班別行動では理沙や亜弥たちと一緒に回ることになるだろう。


 だけどそのどこかで理沙と二人で抜け駆けして、普段食べれないものを食べつつ、違った風景を一緒に回れたなら――


「透くん、大丈夫」


 楽しい妄想はどこまでも俺を自由にするが、現実にある体までは自由にしてくれない。もらいもので成り立った食事。痛んだソファ。毛羽立ったカーペット。


「べつに」


「舞のときは修学旅行、二通りあったんだって。国内と国外旅行。透くんはどっちに行くつもり」


「行かない」


「え」


 行けるわけがない。自分の家の状況が分からないほど、俺は馬鹿じゃない。


「修学旅行にはいかない。担任の細貝にも、すでに話してある」


 どうにかなりそうもないかと細貝には打診されたが、無理だとすでに報告していた。


「ど、どうして」


「どうして、だって。それはあんたが一番、分かってんだろう!」


 俺はほとんど叫んでいた。その自分自身の咆哮が、さらに自分の感情を逆なでする。


「裕にぃが家を出て働いて、あんたはパートに加えて内職までして、どうにか俺たちは生活している。そんな俺たちに七万も八万も払っている余裕なんてねぇだろう」


「それは」


 “あいつ”はポケットティッシュを膝の上に置きながら俯く。髪染めすらままならないのか、耳から零れる髪には白が混ざっている。


 のうのうと高校で馬鹿やっているお前が、なにを偉そうに。俺のなかで声がする。


 まったくその通りだ。働いていないくせに叱りつける権利なんてあるわけがない。俺は食わせてもらっているんだから。だけど俺は怒りを沈めることができない。


 当り前を当り前にできないもどかしさが、胸をえぐる。


「父さんが俺たちを置いて失踪したあの日から、裕にぃは高校を中退して舞ねぇは大学を諦めた。みんなみんな、我慢してんだ。俺だけがそのままだ。俺だけがのうのうと生きている。守られるのはもう、ごめんだ」


「だからってそんな。なにも相談なしに」


「相談したら、どうにかなったのかよ」


「なんであなたは、いつも喧嘩を売るようなことばかり言うの。私だって必死で、あなたが高校まではなにごともなく卒業できるように考えて」


「だったらなんで、お前はあのとき俺を追い出そうとしたんだ!」


 ずっと俺の奥底でわだかまっていた想いが、“あいつ”との口論の末に噴出した。 しまったと思ったときにはすでに遅く、眼の前の“あいつ”の顔は生気を完全に失っていた。


「私は、私は……」


 “あいつ”はちゃぶ台に両肘を付けて、顔を覆った。肩を振るわせてしゃくりあげ始める。それでも脱力していくのは止まらずに、ついにそのまま突っ伏してしまった。


 俺はいたたまれなくなって、御馳走も言わずに部屋へ戻って鍵をした。ずるずると扉にもたれかかりながら、なにもあそこまで言う必要はねぇだろうと唇を噛み締める。


「ちっくしょう」

 そして俺はすべての恨みを込めるように、床に拳を叩き付ける。俺たちが住み続ける三〇五号室。そこにいるのは被害者だけだった。

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