★過去につなぎとめる鎖 1
全国大会予選の説明があったのは、日曜日の練習後だった。
バズケ部顧問の水谷を中心として円になり、手渡されたプリント片手に説明を聞く。だが床に座った状態では、部活で全力を出し切って疲弊している俺たちは、当然のごとく睡魔に襲われた。
俺はかろうじて正気を保っていられたが、ほとんどの奴らが夢の世界に旅立っていた。
「予選までは近い会場で行われるので特別な移動手段は必要ないが、勝ち進んで決勝トーナメントになると会場が変わる。各自保護者に送ってもらうなり、電車で行くなり、交通手段を手配して欲しい」
水谷は退屈な業務連絡を、生真面目に淡々と読み上げていく。水谷はバスケ部の顧問ではあるが、実質は名前を貸してもらっているだけで、大会の手続きや引率以外は部活に関与しない。
足が遠のいていて思い入れがないのか、予選に参加しないのはもとより、決勝の日でさえも教育委員会の会議で欠席すると抜かしやがった。
まあ、特に指示も出さないのにベンチでふんぞり返っていても、邪魔なだけだが。
「おい、透。お前どうやって決勝会場に行くよ」
さっきまで半眼でよだれを垂らしていた誠が、いつの間にか正気を取り戻していた。
「そうだな、裕にぃにでも送ってもらうかな」
「あれ、透って兄ちゃんがいたんだっけ。何人兄弟」
「三人兄弟で、俺は末っ子だ」
あまり家族のことは聞かれたくなかったので、いかにも俺はプリントを読んでいるふうを装った。そうしなくとも、俺の横の椎葉先輩の高いびきに誠が振り返ってくれたおかげで深入りはされなかったのだが。
「そうなんだ。俺の家さぁ、父さん母さんがすげぇやる気で、試合を全部見に来る気でいるんだよ。息子は補欠なのにさ」
「いい両親じゃん」
「荷が重いよ。透ん家の両親は見に来るのか」
いやに質問が多いな。俺はそれも仕方ないかと思ってプリントから眼を離した。国語の教科書や社会の参考資料集を決まって誠に借りていたから、俺の家庭環境が良くないことにうすうす勘づいているのだろう。
中学の奴らならまだしも、高校で仲良くなった奴の家の事情までは知らないものだ。
はぐらかすことも考えたが、これからも誠と仲良くやっていきたいことを考えて、真実を伝えることにした。
「いや、見に来ねぇよ。そもそも俺の母さんは死んじまってるし、父さんは蒸発しちまっているんだ」
誠は露骨に顔の筋肉を硬直させ、電池が切れた人形みたいに固まった。そこまでは予想していなかったんだろうな。そうかと思うと声をさっきより数段落とし、詫びるように眉を寄せた。
「ごめんな。悪気はなかったんだ」
「変な気は使うなよ。親のことで気を使われるなんて、まっぴらごめんだ」
誠はそれもそうかと気を取り直したのか、顔の強ばりを緩ませる。
「もしあれだったら、俺ん家が喜んで会場に連れてくよ。気軽に連絡してくれよ」
「分かった。裕にぃが駄目だったら頼むよ」
気を使わせてしまったが、ありがたい誘いだ。裕にぃが駄目だったら宛がなかったから。
そこで対面にいた吉本先輩に咳払いされ、話を聞けと一睨みされたので大人しく説明を聞くふりをした。
水谷は学校以外の活動に於ける生徒の心構えを
★
「じゃぁ、またな」
「おう。また明日、誠」
誠を見送ってから、俺は自分のアパートまで自転車をかっ飛ばしていく。他人の眼から見ても俺は不幸に映っているのだろうかと、なんど繰り返したか分からない問を浮かべていた。
物心つくころにはすでに母が死んでいて、俺は母親がどんなものか知らない。
漠然とした損失を抱えていたものの、母親代わりとして裕にぃが勉強を教えてくれ、舞ねぇはお菓子を焼いてくれたりと、俺に寂しい想いをさせまいとしてくれていた。
父さんはそんな情の熱い兄弟とは裏腹に淡白な奴で、仕事が忙しいという口実に家に返らないことが多く、俺の印象はたまに帰ってきて偉そうに酒を飲む薄汚い男だった。
ゆっくりと変わっていく田園風景。都会にはほど遠いが、暮らしをするのに不自由は感じない、世界のどこにでもある街。そんな街ではあるけれど、そこで育った俺はやはり、この場所こそが故郷だった。
だが父さんはそれを捨てた。幼い俺たち三人兄弟と、再婚相手の“あいつ”を残して。
“あいつ”にも、同情の余地はある。
それは分かっていた。俺がこうやって学校に行けるのも、飯が喰えるのも、“あいつ”と裕にぃのおかげだ。
それでも俺は、やはり“あいつ”のことを母さんとも、家族とも思えないままでいた。
★
初めて“あいつ”に会ったのは、俺がぶかぶかの制服デビューを決めた中学一年の春で、父さんが大切な話があると家族会議を開いた。
話があると言ったのは自分のくせに、帰ってきた父さんは慣れない酒をかっくらっていて、みっともなく顔を赤らめていた。父さんは下戸だった。
いつもとは違う父さんに戸惑い、正座で身を寄せあう兄弟三人。
円卓に俺たちを正座させると、玄関から見知らぬ女を連れ込んで父さんは言った。
「再婚することにした。この人がお前たちの新しい母さんの、佳子さんだ」
「初めまして。よろしくね、みんな」
父の隣には喜びと期待に頬を染め、母親面する“あいつ”がいた。ゆるいウェーブが掛かった黒髪。
緊張しているのか、ブラウスの裾をなんどもなんどもさすっていた。どちらかというと、それは相談というより決定事項だった。大人が子供に押し付けてくる、絶対的に抗えない種類の話しだ。
裕にぃと舞ねぇは複雑そうに顔を見合わせていたが、なにも言わなかった。
だけど俺は違った。俺は机を叩いてお茶をひっくり返しながら立ちあがり、父さんと “あいつ”を指差しながら睨みつけた。
「なに勝手に決めてんだよ。俺は認めねぇぞ。母さんはもういない。今更母親なんて、いらねぇんだよ」
十三歳にして突如現れた、三十歳上の継母。それを受け入れて暮らすということがどうしても想像できず、相談もなしに突きつけられる現実が我慢ならなかっ
た。
埋められない寂しさ、母の不在は常に付きまとっていた。
いつも欠席の授業参観。どこにも連れていってもらえない夏休み。裕にぃの友達の家族に混ざって御馳走になる運動会のお弁当。飾りつけもない家でいつものように過ごすクリスマス。
それでも俺たちは、力を合わせて乗り越えてきた。父さんになにも期待していなかった。それなのに突然、父さんの独断で家族として向かい入れろと。母さんと呼べと。そんな勝手があるか。
俺は反発せずにはいられなかった。それは俺たちを想っての行動というより、不在の母さんに対する、父さんの
どうして“あいつ”や父さんに関わる記憶は、味のしなくなってガムみたいに無味乾燥になってしまうのだろう。正直のところ、それは今の俺にもよく分かっていない。
ただ一つ言えることは、このとき既に、俺の心のなかでは家族の線がきっぱりと引かれていたということだ。
裕にぃと舞ねぇ、不在のお母さんは家族で、父さんに属する“あいつ”はそうじゃない。
俺のなかでそれが、決定してしまっていたんだ。
俺たちが戸惑うことまでは予想していただろうが、さすがに露骨に拒否されるとは思わなかったのだろう。
そのときの“あいつ”はとても悲しそうな眼をしていた。世界が終わる瞬間を目撃している奴よりも悲しそうにしている。それが無性に腹立たしかった。
「出ていけよ。俺たちだけが家族だ」
「なんだ、その口の聞き方は。佳子に謝れ」
「うるせぇ。今まで俺たちのことなんてほったらかしにしておいて、今更父親面かよ」
そうして俺は家を飛びだした。
けれど結局、父さんに連れ戻されてみると“あいつ”は俺の家に上がり込んでいた。それが我慢できない俺は自分の部屋に閉じこもった。
その行動に父さんはさらに怒りを強めたが、もうどうにでもなれという感じで、そういうふうにして結局、父さんに属していた“あいつ”の確執は、今日まで続いている。
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