☆世界で一番好き 3

 それはあのときも同じだった。


 幼い理沙は眼を真っ赤にして、今にも溢れそうな涙を溜めた。共感覚は痛い程の切実な思いを僕に伝えた。


 とても透き通っていて、キレイな感情だ。そこにはおばあちゃんへの愛といたわりしかない。でも僕は、その提案を受け入れることは出来なかった。


「そうしたらおばあちゃんは、死んじゃうよ」


 祖母を見守り続ける疲労と心の余裕のなさで、幼い僕の声は乾いていた。


「分かってるよ、そんなこと」


 理沙の涙がぽってりとした頬を伝う。理沙はブンブン首を振った。本当にブンブンと音がした。


「だけどおばあちゃん、言っていたよ。『もういい』って、言っていたの、私は聞いたもん」


 理沙は堪えきれず、嗚咽をこぼして泣き始めた。部屋が理沙の泣き声だけに支配された。


 それと同時に、理沙の心がねじ切れるくらいによじれた。それはまさに悲鳴だった。あまりの感覚の強さに僕はくらくらし、眼の前がチカチカ光って前が見えなくなった。


 じつは僕も、その言葉を聞いていた。昨日二人っきりでおばあちゃんの傍にいるときに、人工呼吸器のマスクに白い息を浮かばせながら、たしかに呟いたんだ。


 もういい、と。


「おばあちゃんを、えっぐ。おじいっ、ちゃんのところに、ひっく。早く、行きたいんだよ」


 様々な色に染まった声。理沙は僕にすがった。体中の神経が一斉に騒ぎだしたような痛みが僕を襲った。


 だけど僕は首を横に振ったんだ。


 理沙は分からず屋の僕に見切りをつけたのか、病室を飛びだした。共感覚が理沙の悲しみ、苦しみ、怒りを運んできた。けれど、僕は理沙を追わなかった。


「そんなこと、分かっているよ」


 僕はおばあちゃんの横の丸いすに座りながら、一杯針を差されて紫に変色した腕をテープの上からさすった。


 ここ数年、おばあちゃんは僕たちの家にいるときも、所在なさげに自分の部屋に籠ることが多くなっていた。暗がりの部屋でテレビの光を見つめる祖母の後ろ姿。そこには言い表すことのできない、生の悲しみがにじみだしていた。


 僕たちはすくすく成長するのに、おばあちゃんはどこにもいけない。


 自分がどこに行きたいか、行くべきなのか。おばあちゃんはゆるやかに理解していたのだと思う。


 それでも僕は生きていてほしかった。おばあちゃんを、この世界に繋ぎ止めていたかった。


 人工呼吸器をはめ、息も絶え絶えに喘ぐおばあちゃんの姿が、アルコールの匂いがする白いベッドの上にあった。様々なチューブが繋がれるその姿は、元気な頃のおばあちゃんに似ても似つかなかった。


 胸が張り裂けそうだった。今すぐすべての機械をメチャクチャに壊して、家におばあちゃんを連れ戻して叫びたかった。


「僕のおばあちゃんなんだ、死ぬわけないんだ。無敵の、最強の、最高の、僕たちのおばあちゃんなんだ」


 泣きたかったけど、泣けなかったんだ。

 おばあちゃんが眼を開けて僕を見ていたから。痛々しい手をさすりながら、僕は笑うことにした。笑って、笑って、笑い尽くして、すべての感情をその笑みの下に押し殺すことにした。


「そう…た」


 か細く、今にも消え入りそうだ。僕は人工呼吸器のすぐ側まで耳を近づける。疲れ切った眼に、引き延ばされた僕が映る。聞き取れるのは、かろうじて単語だけだった。


「り…さを…、かぞ…くを…よろしく…ね」


 僕はしわしわの祖母の手を握り、誓った。


「守る、絶対に理沙は僕が守る。もう僕は泣かない。強くなるから。ちゃんといい子にだってするよ。宿題だってするし、服をハンガーに掛ける。部屋にあるペットボールだって放置しない。だからおばあちゃん、最後みたいに、言わないで」

 泣かないって言った傍から、僕の心のダムは決壊して、大粒の涙でおばあちゃんのガウンを濡らしたんだ。

「また学おじいちゃんの自慢話を聞かせてよ。ねぇ。僕たちを、置いていかないで、僕を、一人に、しないで」


 おばあちゃんは人工呼吸器のマスクの下で、颯太は一人じゃないって伝えるように、うっすら笑っていた。


            ☆


「痛い、痛いよ。颯太」


 現実に意識が戻ると、理沙が胸を押さえながらベッドの上で苦しそうにもがいていた。だけどそれは僕も同じだった。


 沸騰ふっとうした想いが胸のなかにある、ありとあらゆる臓器を溶かしているみたいだった。息なんて出来たもんじゃない。


 僕たちはそれからたがいの手足をぶつけながら、荒い呼吸でそれが過ぎ去るのを待った。ただただ恐ろしかった。共感覚がこれほどまでに強い効力を発揮するなんて、初めてのことだった。

 すこしずつ落ちついてくると、理沙が僕をなだめるように抱きとめた。その体は震えていると思ったのだけれど、そうか、僕自身が震えていたんだ。


 幼いときに熱を測りあうみたいに、僕たちの額と額が優しく触れあう。すると発作のような痙攣けいれんはおさまってきた。


「大丈夫、颯太」


「う、うん。死ぬかと思った」


「私も、どうなっちゃうのかなって。颯太の気持ちがどんどん溢れてきてびっくりした」


「僕、どうかしちゃったのかな。自分の感情がコントロールできなくて」


 そこで急に理沙が大きな声でおまじないを唱えた。

「痛いの痛いの飛んでいけ」


「え」


「よし、これで大丈夫だよ。颯太の痛みは私が山の向こうに飛ばしておいた。明日の大陽が燃えるための燃料になってくれるよ」


「そうなんだ。それはありがたいね」


 僕は理沙にお礼を言って、そしてそのまま、顔をくしゃくしゃにして涙を零した。悲しいのか苦しいのか、それともやりきれないのか、原因不明の涙。すると理沙は僕の頭を包み込む。


 僕はお兄ちゃんなのに、気丈な妹の胸に甘えて、泣かせてもらうことにしたんだ。


 そして泣いて泣いて泣きつかれて、僕と理沙はいつのまにか眠っていた。そしてその眠りはおばあちゃんとの記憶に繋がった。


 おばあちゃんがまだ家で療養していたころ、僕と理沙はおばあちゃんが淋しい思いをしないようにと、必ずどちらかが側にいて、おしぼりをあて、枕に敷いている氷枕を取り替えた。だけど我が家にあった氷枕は一個だけで、それを冷やしているときはどうしようもなかった。


 いつでもおばあちゃんが冷たい氷枕を使えるようにしてあげたい。


 僕と理沙は頭を付き合わせて考えた。そして豚の貯金箱を割って、なけなしのお小遣いをかき集めると、近くのドラッグストアで氷枕を買ったんだ。


 棚の一番下に一個だけ置いていた、値段が一番安くて、灰色でとても無機質なやつ。その氷枕を見せたとき、祖母はとろんと眠たそうな眼をさらに細めたんだ。


「優しい子たちだねぇ」


 やせ細った手で、僕たちの頭を代わりばんこになでてくれた。そして、「世界で一番、大好きだよ」と慈愛に満ちた笑顔をくれた。


 僕たちはいつも首を傾げた「それって僕と理沙、どっちが世界で一番なの」

 おばあちゃんは決まって、いつもこう答えた。「颯太と理沙、どっちも世界で一番、大好きだよ」


 祖母はやっぱり、不思議な人であった。

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