☆世界で一番好き 2

 それから僕たちはお墓の近くに住んでいるおばあちゃんの従兄弟にあたる、スミヨおばさんに挨拶するために下山した。


「あんれまぁ、颯太くんも理沙ちゃんも、こんなに大きくなって」


 紫外線対策に頭にタオルを捲いて、ゴム長靴で牛舎を掃除していたスミヨおばさんに顔を見せに行くと、お茶でも飲んでいきなさいと引き止められた。


お父さんとお母さんは世間話を兼ねて家のなかにあがり、僕と理沙は家のまわりに住み着いている猫とたわむれた。


 猫たちは人間に慣れているのか、それとも物珍しいのか、僕たちにすり寄ってきて茶色い尻尾をすりつけてきた。そして顎を撫でる手を舐める舌は、とてもざらっとしていて、なんだかやすりみたいだなぁと新しい発見をした。


 スミヨおばさんにおわかれしたあと、墓参りでクタクタになった僕たちは、近くの温泉で汗を流すことにした。


 ふらっと立ち寄った温泉はこの地方に古くから根づいているらしく、昼過ぎなのに多くの家族連れの人たちで賑わっていた。すべすべとした乳白色の温泉で、汗と疲れをきれいさっぱり洗い流す。


 さっぱりした僕たちは併設してあった食堂で遅めのお昼ご飯を食べた。僕はたまご丼を、理沙はおそばを食べた。そのあとは食後のデザートにアイスクリームを買ってもらった。アイスクリームは濃厚で、あっというまに胃のなかに吐きえてしまった。


「お母さんはね、中学三年生のときにおじいちゃんを亡くしたの」


 お母さんはお父さんに勧められてビールを飲んだ。お酒が入ったからだろうか、お母さんは珍しくおじいちゃんとおばあちゃんの話を持ち出した。それは僕と理沙はおばあちゃんからなんども聞かされていた話を思い出させた。


「中学校で教鞭をとっていたおじいちゃんは、生徒たちに社会を教えていたわ。生徒たちには厳しかったらしいけど、それは愛情の裏返しなんだっておばあちゃんは言っていたかしら。おじいちゃんはその教壇で急に倒れたの。病院に運ばれたんだけど助からなくて、四十三歳で亡くなったの。死因はくも膜下出血だったかしら。おばあちゃんが四十歳のころのことよ」


 僕はおばあちゃんが自分を自慢するみたいに、学おじいちゃんの話をしている声が蘇っていた。学おじいちゃんはすごく真面目なのに、側にいても全然息苦しくなくて、それでいてユーモアがあったと誇らしげだった。


 僕も理沙もことあるごとに、学おじいちゃんの話をねだった。子供心ながらに分かっていた。


 普段は昔の話をしないおばあちゃんも、学おじいちゃんの話をするときだけは、すごく嬉しそうに目を細めた。


「おばあちゃんって、娘の私からしても不思議だったな」

 お母さんはこんなこともあったと話をする。


「私が高校に進学して、ちょっと格好いいなと想っている人と家の前で立ち話していたの。そしたらおばあちゃんが勝手口から血相を変えて飛びだしてきて、私にすごい剣幕で怒鳴るの。『あんたのしていることは戦時中なら非国民がすることよ、今すぐ帰らせなさい』って。彼はおばあちゃんの鬼の形相に驚いて逃げちゃって。それ以来、私を怖がって話すらしてくれなくなったわ」


「そのヒコクミンって言葉、私も訊いたことがある」


 理沙はアイスクリームのコーンを僕にくれながら言う。


「ドラマとか映画のCMで若い男女がイチャイチャしている場面があると、おばあちゃんってすっごく怖いの。必ず見終わったあとに私を睨んで『いいかい、理沙。嫁入り前の娘が、あんな破廉恥はれんちな真似をするのはよしなさいよ。あれはヒコクミンのすることだからね』って」


「非国民とは、すごい言葉だな」


 お父さんは驚きのあまり仰け反っていた。


 ヒコクミン。


 僕はその言葉の意味がよく分からなかったけど、その言葉の響きから、すごくいけないことなのだと悟った。でもそれが未成年の男女の付き合いって意味なら、今やこの社会もヒコクミンが当たり前になってしまって、おばあちゃんが天国から見ていたら悲しんでいるかもしれない。


 僕たちはそれからしばらくおばあちゃんの話に花を咲かせ、語り尽くせぬまま

家へ帰ることにした。


 僕と理沙は普段とは違う一日に気疲れしたのか、終始ぼんやりしていた。しばらくすると安らかな寝息を立てる理沙の頭がどんどん傾いてきて、僕の肩にもたれた。


 僕もまどろみながらうつらうつらしていると、お父さんとお母さんの話し声が意識の表面を撫でる。


「お母さん、幸せだったのかな」


 お母さんが突然零した、おばあちゃんに対する問いかけ。


 それに答えるお父さんは、いつもふざけているばかりなのに、しっとりと落ちついていた。


「そうに決まっているさ。お前の母さんも、颯太や理沙がここまで元気に育ってくれたことを誇りに思っているよ」


「私、ずっと後悔していることがあるの」お母さんの声はほとんど泣いていた。


「お母さんが白血病だって分かる前に、しばらく寝込んだじゃない。お母さんはただの風邪だって言っていたけど、考えてみたら、今までお母さんが風邪で寝込むなんてなかったことなのに。私、仕事の忙しさにかまけていて、そのことに気付けなかったの」


「そうだったな。だけど前にも先生が仰っていた通り、その時点で病院に掛かっていても完治は難しかったって話してくれたじゃないか。詳しいことは分からないけど、病気はずっと前から水面下で進行していたって」


「そう、だったわね。だけどもしもあのとき、私が気付いてあげていたらって考えちゃうの。何年経っても後悔を引きずっている私って、やっぱり変かな」


 しばらく間が空いて、お父さんはハンドルを切りながら優しい声で答えた。


「変なものか。そんなふうに家族に惜しみない愛情を注ぐあまり、自分を攻めてしまうお前を、俺は心の底から愛しく思うよ」


 その言葉を聞いた後で、お母さんは腰を屈めて嗚咽を零した。


「私ね、温かい家族が欲しかったの。ずっと憧れていた。それを一緒に築けたのが、あなたで、本当に、良かったわ」


 そこで僕の胸に熱い想いが込み上げてくる。そしてそれが僕一人だけの感動じゃないことが、肩に広がる熱い涙で分かったんだ。


            ☆


 今日は良い一日だったけど、疲れたなぁ。


 車で中途半端に眠ったのがいけなかったのか、僕はベッドに潜り込んでも時計の針をずっと数えていた。だけど眠れないのは僕だけじゃない。胸に僕のとは違うわだかまりがある。


 しばらく眼を瞑ったあとで、それはいくら待っても無視して眠ることなどできないことを悟った。


 そして気付けば、僕は理沙の部屋の扉をノックしているのだった。


「どうぞ」


 僕は妹の部屋に入り込む。同じ間取りのはずなのにどこか広々としているのは、理沙の空間の使い方がうまいからかな。


「理沙、やっぱり起きていたんだ」


「うん。眠れないの」


 理沙は壁のほうに頭を向けていた。僕は理沙のうすいピンクのベッドに腰を下

ろす。


「僕も眠れないんだ。なんだか色々と考えちゃって」


「おばあちゃんのこと」


「そうだよ」


「私もなんだ。やっぱり双子だね」


 そういうと理沙はこっちに顔を向けてくれて、僕にどうぞと枕元のふとんをめくってくれた。僕は何年ぶりかにそこにもぐりこむ。ベッドは理沙の体温で温かった。不快じゃない、やわらかな温度。


「理沙は、おばあちゃんのなにを考えていたの」


「取り留めのないこと。私たちがお腹を空いたって駄々をこねたときに、おばあちゃんがいつも作ってくれたかしわうどんが、美味しかったなぁとか」


「あれは美味しかったね」


 おばあちゃんは鶏肉の美味しさをだれよりも信じていた。「鶏肉さえ入れればね、料理はすべて美味しくなるように神様が作ったの」と豪語していて、おばあちゃんの手に掛かると、肉じゃがやすき焼きなどの煮込み料理には必ず鶏肉が入っていた。


 それは戦時中に牛肉なんて食べられなかったからかもしれないし、鶏肉が単純に祖母の味覚にあっただけなのかもしれない。とにかく、祖母は鶏肉を愛していた。


「ほかには」


「ほかにはねぇ、編み物をもっと教えて欲しかったなぁ」


「編み物ね」


 理沙はおばあちゃんによく裁縫を習っていた。


 おばあちゃんは僕の家にあったビンクのミシンで、お父さんやお母さんのスーツのほつれをなおしたり、僕たちにナップサックや可愛い子犬のアップリケを作ったりしてくれた。理沙はどこからか裁縫セットを持ち出してきて、かがり縫いからまつり縫い、それからボタンをつける手ほどきを受けていたんだ。


 老眼鏡掛けたおばあちゃんが糸を通すために、すこし針を遠ざけながら目を細める。そしておばあちゃんが糸の端を舐めると、必ず次の挑戦で針穴に糸が通る。手練の技だ。


 それからもおばあちゃんの話をポツリポツリとどちらともなく話していると、懐かしさと一緒に、切なさが胸に広がっていった。いつもは明るいお母さんの落涙を、見てしまったからかもしれない。


「お母さん、泣いていたね」


「うん。おばあちゃんのことを思い出して苦しくなるのは、私や颯太だけなのかと想っていた」


「お父さんやお母さんみたいな大人だって、やっぱり忘れられないんだね」


「仕方ないよ。お父さんやお母さんだって、一人の人間だもの」


「お父さんやお母さんだって、一人の人間……」


 理沙の言葉は、今まで僕が考えたことがない奥行きを持っていた。


 今まで一度も考えたことがなかった。お父さんやお母さんは僕たちを守ってくれる特別な存在で、たまに厳しいけれど温かくて、僕にとっては絶対的な“お父さん”であり、“お母さん”だった。


 けれどそんな二人も、僕たちが日々出会う友達や大人たちみたいに、面白いことはないかと探したり、色々と失敗をして悩んでしまったり、ときには泣くことだってある一人の人間なんだ。


 そんな当り前のことを、僕は気付いていなかった。


「そうだよね。お母さんたちも、一人の人間か」


「うん。きっと私たちが生まれるまえにしっかり恋をして、たまには喧嘩して、それでも一緒にいたいって思ったの」


「それってヒコクミンじゃないの」


「違うんじゃないかなぁ。大人になったら恋愛をしても良いんだよ、多分」


「大人は、お金を稼いでいるからかな」


「私には分からない。大人って線引きって、曖昧あいまいだからなぁ」


 理沙は切なそうに笑った。


 僕の心のなかに広がる海。

 そこには僕と理沙の二つの感情が波になり、満ちては干き、干いては満ちてを繰り返している。その繰り返される営みのなかで、感情の波は僕たちの心になにを運ぶのだろう。


「ねえ、颯太」


 僕の胸に満ちていた潮が、急に水平線に向かって引いていくのを感じた。潮騒が遠のく。


「颯太は覚えているかな。私が病院で『おばあちゃんの人工呼吸器を外そう』って、提案したこと」


「覚えているよ。忘れられるわけ、ないよ」


 動揺は理沙に筒抜けだろうな。まったく、因果な体だ。


「おばあちゃんの容態が家で看ることができないくらいになって、スタッフステーションに一番近い病棟に入院したときだね。あそこは昼なのに暗かった。たしか五階東病棟で血液内科っていったかな。あれは小学校三年生のときだ」


「あの当時、私は階段から赤い線が引っ張っているのが怖かった。血の赤に想えて」


「たまたまだった、と信じたいけどね。あのときの理沙はかなり不安定だったから」


 理沙はなにも言わずに、膝くらいに置いていた僕の手に自分の手を重ねた。そしてそのまま僕の指をほどいてしっかりと結んだ。僕はなされるがままだった。


「おばあちゃんが入院してしばらくして、急にぜいぜいするようになった。検査で肺炎だって判明して、それから人工呼吸器の太いパイプを喉に入れられて。だけどおばあちゃんはずっと苦しくて『薬、薬。薬はまだかい』って目覚めるたびに尋ねてきて。おばあちゃん、ガンが体中に転移していたのに、肺炎による呼吸の苦しみにも必死で戦っていたよね。だけど私たちはなにもできなくて、手を握っているしかなくて。『いまお母さんたちが先生たちに相談しているよ』『看護師さんが準備しているよ』って嘘をつくのが、私にはつら過ぎて」


 理沙が後悔の念を伝えながら、痛いくらいに僕の手を握る。


 僕も理沙も、おばあちゃんにもっと痛み止めをあげてほしいと懇願したんだ。けれどお父さんたちも看護師さんも、そして先生さえも首を縦に振らなかった。


 信じられなかった。


 家で看病しているときは共働きのお母さんたちに代わって、僕と理沙がおばあちゃんの傍にいた。僕たちがおばあちゃんの話を一番聞いて、おばあちゃんのことを理解していた。そんな僕たちがこんなに必死に頼んでいるのに、聞いてもらえないなんて。大人たちはなにも分かってくれないと、僕たちは目に涙を一杯に浮かべていた。


 でも今なら分かる。

 ハカセが教えてくれたんだ。


 末期の白血病で、肺炎まで起こしてしまったおばあちゃんの痛みを取り除くためには、モルヒネやオキシコンチンなどの麻薬系鎮痛薬が必要で、それは安易に増やすと呼吸を止めてしまうことを。このときすでに許容量限界の薬が使われていた可能性が高いとも、ハカセは言っていた。


「私さ、おばあちゃんが亡くなる三日前に、おばあちゃんしかいない病棟で颯太に言ったよね。『おばちゃんの人口呼吸器、外してあげようよ。今ならお母さんもお父さんも先生のところにいる。おばあちゃん、ずっと苦しんでいる。もう楽にさせてあげよう』って」


「うん」


「そしたら颯太は大きく目を見開いたでしょう。『理沙はおばあちゃんに会えなくなってもいいの』って」


 理沙の声がどんどんちいさくなる代わりに、僕の心に救えない闇が広がっていく。それは僕の心臓や肺にまで忍び寄ってきて呼吸を苦しくさせる。動悸が止まらない。

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