☆世界で一番好き 1

 今日は祖母の命日だ。


 日曜日の朝、僕たち家族は山奥にある祖母のお墓に花を供えるために、黒のワゴン車を走らせていた。


 一番後ろの後部座席には、きくやゆりなどの花束と缶ビールを冷やしたクーラーボックス、それからお墓の掃除のための鎌や帚が積んであり、カーブにさしかかるたびにそれらが忙しなかった。


 おばあちゃんのお墓は街の外れに位置していて、僕たちの家からは三十分くらい掛かる。一面に田圃が広がる田園風景を突っ切って、大陽の光でしらしらと輝く渓流に並走しながら、山の麓までの支線道路を走っていく。


「今日はいい天気でよかったな。お墓参りにはもってこいだ」


「本当ね。おばあちゃんも喜んでいるわ」


 運転するお父さんと助手席のお母さんの声を聞きながら、僕はサイドウインドの形にトリミングされた空を眺めていた。


 澄みわたる青空に、もくもくと入道雲がただよい、元気な大陽がらんらんと田圃の濃い緑を照らしている。田圃には他にも黒いビニールや紐から吊るされたカラス避けのCD、それからオフホワイトのランニングと麦わら帽子を着せられた案山子かかしが、僕たちが来るのを待っていた。


 外はこんなにも清々しかったけれど、僕は喉から迫りあがってくるものと戦ってグロッキーだった。


「理沙、大丈夫」僕は俯き加減の妹を気遣う。「もうすこしだからね」


「本当にごめん。ちゃんと食事の量も調整したんだけど」


 理沙はぎゅっと眼を瞑るようにして口元を抑えた。理沙は乗り物に弱い。酔い止めを飲んだりお腹の空き具合を調整したりと色々工夫を凝らすんだけど、なかなかうまくいくものがないんだ。


 そしてその苦痛はそのまま僕にもはね返ってくる。運命共同体だから仕方ないんだけど。


「理沙、引き返して酔い止めを買おうか」


 お母さんが理沙にペットボトルのお水を手渡そうとする。理沙はふるふると首を振る。


「いい。一度休んじゃうとキツくなるから。このまま一気に行きたい」


「よおし、理沙。もうすこしの辛抱だ。お父さんの超絶運転テクニックで、すぐに解放してやるからな」 


 お父さんがアクセルを踏みこんでエンジンが唸る。お母さんはちらりと運転席の速度計と外の速度表示を見比べて顔をしかめる。


「あなた、スピードを落としてください。警察に捕まるようなことがあったら私も被害を受けますから。最近は公務員に対して風当たりが強いこと、もっと意識してください」


「でも可愛い子供たちが苦しんでいるぞ」


「それとこれとは別です。ふざけて事故でも起こしたら離婚ですからね」

 運転席から芝居がかったため息が聞こえる。


「聞いたか、子供たち。もしお父さんとお母さんが離婚することになったら、お前たちはどっちについて行くんだ」


「お母さん」「お母さん」


 僕たちの即答に口をつぐんだお父さんは、鼻を啜って傾けていたアクセルを緩めた。


 それから右手のレバーを引いてウォッシャー液をフロントガラスに浸してワイパーを掛ける。フロントガラスの端には、お父さんの心の涙のような水滴がわずかに光っていた。


 僕たちの車はきれいな渓流に掛かっていた大きな橋を越えて、ついに人里離れた山の麓までやってきた。すこしずつ傾斜がきつくなり、鬱蒼とした木々が山の尾根に向かって伸びる。


 しかし車は昔の古民家家風の建物が右手に見えてきたところで減速し、そちらにハンドルを切る。そしてお父さんが赤いコンバインが停めてある農具小屋の脇に車を止める。農具小屋のなかには桑や除草剤、肥料などがところせましと並んでいる。


「着いたぞ」


「ありがとう、お父さん」 


 僕が一番乗りでスライドドアを開けると、むわっと牛さんの糞尿の匂いと一緒にモゥっという声が届いた。振り返ってみるとそこには牛舎がある。鼻輪が付いた立派な牛さんたちが、餌槽しそうのなかの干し草をムシャムシャ頬張りながら尻尾を揺らしていた。


 それからすぐ近くにニワトリさんがいて、コケコッコとくちばしで地面を突っついていた。


 理沙がステップから下りると、うーんと伸びをすると長袖がすこしたわんだ。こんなに暑いのに長袖長ズボンなのは、山に入ったときに虫にさされるのを予防するためだ。


「気分はどうだい、理沙」


「外の空気を吸うとだいぶ楽。やっぱり乗り物は健康に良くないね」


「颯太と理沙。申し訳ないけど荷物を持ってくれるかしら。お父さんとお母さんだけじゃ運べないから」


「はーい」


 僕は鎌や帚を受け取り、理沙は花束を受け取った。お父さんはクーラーバックを担ぎながら、遠くに見えている古民家の入口を顎でしゃくった。


「スミヨおばちゃんのところに挨拶にいかなくて良いのか」


「『お墓参りに行きます』って朝に電話しておいたから、帰りの挨拶だけにしましょう」


「了解。待たせたな、颯太と理沙」


「うん」「レッツゴー」


 そうして僕たち家族は、アオダイショウが出たらどうしようなんてビクビクしながら、ドングリや葉っぱの天然絨毯が敷かれた山道を滑らないように注意しながら登っていく。


 くぬぎや杉、それから水木の葉が折り重なって、木漏れ日すら通さない茂みを進んでいくと、一際幹が太いケヤキの木があって、その根元に暮石が並んでいた。ここが僕たちのおばあちゃんが眠っている場所だ。


「よっこらせ」


 お父さんがクーラーボックスを地面に置き、そのうえに花束や被っていた帽子を置いていく。そして僕たちは家族で手分けして、お墓のまわりの環境を整えることにした。


 山奥にあるおばあちゃんのお墓は定期的に掃除しないと、雑草が生え放題になってしまう。それを放置したら土いじりが趣味だったおばあちゃんが怒って、夜な夜な家族の枕元に立って説教するかもしれない。


 それだけは勘弁、というのが僕たち家族の共通認識だった。


 怒れる祖母は強し、なのだ。


 理沙やお母さんは持ってきた外掃除用のイガイガした帚で葉っぱを集める。僕はお墓を新品の雑巾で磨き、お父さんは物騒な鎌で伸びた木の枝を切っていく。


 暗黙の了解で分担は決まっており、与えられた役割を順調にこなしていく。


 おばあちゃんのお墓が終わったら別のお墓にも取りかかる。この墓地はおばあちゃんの旦那さん、いわゆる僕たちにとってのおじいちゃんにあたるまなぶさんの家系が代々入っている場所らしく、遠い親戚に当たるお墓も安置されていた。


 立派な大理石のものから、どこかで拾ってきたような粗末な石まである。それら一つ一つを磨かせてもらうのは、なんだか緊張する作業だ。


 かつておばあちゃんが生きていたころ、おばあちゃんが心を込めて、大事に磨いていた記憶が残っているからかもしれない。


「だいたいキレイになったわね」


 掃除があらかた終わると、お母さんは墓前にお花を差していく。すこしだけおばあちゃんと学おじいちゃんの分量が多いのは、贔屓ひいきみたいなものかな。


 それからお父さんが保冷剤のクーラーバックから缶ビールを二本とり出し、僕と理沙にプルトップを開けて手渡してくれる。ビールは良く冷えていて、蒸し暑い山中ではありがたかった。


 祖母が飲むのを生き甲斐としていたビール。

 僕たちはそれを祖母のお墓に惜しみなく掛けていく。ビールが通ったところだけが灰色から黒い線に変わる。


 僕と理沙はどちらもこの大役をやりたがるので、お母さんたちはいつも350mlの缶を二本、用意しなければいけなかった。


 お母さんは「おばあちゃん、あんまり久しぶりで肝臓を悪くしないといいけど」と微笑んでいたけれど、声はすこしだけ湿っていた。


 祖母はあまりにビールを愛しすぎたために、お葬式の写真にはビールを片手に微笑む写真が選ばれた。どこかの旅館でたまたまお父さんが撮った写真を拡大したものだ。


 お葬式で説法をしてくれたお坊さんは、遺影に映った金色でシュワシュワのグラスを見て「人間味のある写真でよろしいですね」と、おばあちゃんをいたむお葬式の会場をほっこりさせてくれた。


 おばあちゃんのお墓は彼女の生き様のようにちいさく、質素なものだった。


 花々を愛し、僕たちに惜しみない愛情を注いでくれたおばあちゃんは、僕と理沙が小学三年生のとき、家族が見守るなか、病院で不帰の客となった。


 最後まで病と戦い続けた、苦しくて壮絶な最後だった。


「おばあちゃん、天国でおじいちゃんと仲良くやっているかな」


「ああ、間違いないさ。きっと空の遠い彼方で再会して、お酒を酌み交わしながら離れ離れだった関係を暖めているんだろうな」


 お父さんの言葉に、お母さんはハンカチの端を目頭にそっとあてがう。


「そうね。きっとおじいちゃんは、おばあちゃんのたくましさに驚くでしょうね。おばあちゃんは水のように軽やかに、ビールを飲み干していくから」


 理沙は嬉しそうにお墓に微笑んでいた。


「おじいちゃん、優しいまなざしで見ているだろうな。『僕が見ないあいだに、君もたくましくなったね』って」


 理沙の想像の翼に、僕も乗っかる。


「そうしたらさ、おばあちゃんってますます上機嫌になるよね。これ以上ないってくらい目元にしわが寄るんだ。『あら、あなたに再開するのを四十年も待っていたんですもの。まだまだ飲むわよ』なんて言っちゃってさ。そういう宴会が、毎日空のどこかで開催されているんだ」


「ああ、そうだ。絶対にそうだ」


 お父さんが皆を元気づけるように顔を見渡したあと、さっきから鼻をすんと鳴らしているお母さんの肩を抱いた。いつもなら「ベタベタしないで」とお父さんの手を叩くのに、今のお母さんは塩らしくその手に守られていた。

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