★俺たちの出会い方
「いつも迷惑掛けるな、誠」
「俺はもう帰るから、机に置いとくなり適当にロッカーに突っ込むなりしていてくれよ」
「おう。またな」
放課後、俺は誠にいつもみたく国語の教科書を借りて、二年の校舎から別館にある図書館に向けて歩いていた。
べつにそれは颯太や理沙みたいに、本で自分の知的好奇心を満たしたいからじゃない。
図書館の横にある国語の先公の控え室に用事があった。そこには俺のクラスの国語の担任である大久保先生がいて、呼び出しをくらっていた。
今日、中間試験の結果が返された。
俺は返された国語の答案を見て唖然とした。百点満点で二十六点。クラスで最低得点。眼も当てられなかった。
大久保先生はそんな俺に、精一杯の慰めをくれた。
「バスケットを頑張っていること、私は知っているわ。でもさすがにこの点数だと、なにもしないわけにはいかないのよ。放課後に私のところに来てちょうだい。解説してあげる」
大久保先生はお節介だが、嫌いじゃない。丁寧に言葉を使う大人、って感じだ。言葉の重みを知っている奴。
俺は先生の授業だけは聞いていて苦じゃなかったので、なんとか起きて聞いていた。それなのにこの点数を叩き出してしまった自分を恥じた。さすがにこれはねぇな。
そんな優しい大久保先生であるが、馬鹿にする奴がいるから殴りたくなる。そいつらは大久保先生が未婚であることを持ち出しては、馬鹿面で勝手な噂を作りあげて盛りあがる。
過去に悪い男に騙されたとか、体育教師と不倫しているとか、町外れのホストクラブに通っているとか。
あれだけ感じのいい先生が結婚できないのことに、なにか理由をこじつけたいんだろう。
安直なものだ。世の中がそんなに単純な訳がない。
別館に向かうために外の渡り廊下を通ると、緑色のすのこがガタガタと大袈裟な音を出した。
すべてに理由を求めて納得できるのなら、そいつは幸せだ。俺はそんなことしない。理由なんて追いかけても、疲れるだけだ。
俺のポリシーは体を動かし、そのときその一瞬を真剣に勝負することだ。だから頭でっかちな奴らとは相容れないのかもしれない。
自分の体で感じられるものしか、俺は信じない。
別館の入口をくぐる。図書館へと続く無人の廊下は、ここが学校だと忘れてしまいそうなほど静かだった。
なぜだかここには生徒たちに勉強を強要する張り紙は一枚もなく、美術部が書いた、上手いとも下手とも言いがたい油絵が一定の間隔で飾ってあった。
それらを横目に通り過ぎた先、お目当ての控え室が見えてきた。俺は失礼のないように制服の第一ボタンまで閉める。窮屈で息が詰まりそうだ。
扉をノックし、失礼しますと告げて控え室の扉を開ける。部屋には大量の本たちが発する擦れた匂いと、後を引きそうなコーヒーの匂いが充満していた。手が勝手に鼻を覆う。
「大久保先生、いますか」
見渡しても大久保先生の姿はなく、入ってすぐ右の二番目の机に一年担当の爺さん先生がいるだけだった。爺さんは貴重な栄養源を摂取するみたいに、両手で茶碗を大事そうに抱えながら、お茶をずずっと
「大久保先生かい。今はいないよ」
ひょっこりと机から顔だけ出し、爺さんは答えた。
「そうですか、もう帰られたんすかねぇ」
「いや、会議だと思うけど」
爺さんは椅子に座ったまま後ろの黒板を振り返った。黒板には白のチョークで先生たちの予定が書かれていて、たしかに大久保先生は三年生の実力テストの問題作成会議だと記してあった。
「十八時まで会議だね。急ぎのようなら私が取り次ごうか」
爺さんは焼け野原ともっぱら噂されている頭に手を置いた。すっかり淋しくなったその頭と眼が合って、なんだか損した気分になる。
「図書館で暇つぶししときます。失礼しました」
俺もああなるのかと将来の不安から逃げるように扉を閉め、立ち尽くす。
さて、どうしたものか。
脳内会議の結果、教室に戻るのも面倒なので久しぶりに図書館に行ってみることにした。図書館は眼と鼻の先にある。
図書館に足を踏み入れると、そこには独特の重みを持った、喋ってくれるなという空気が流れていた。
入った瞬間、後悔する。
俺は図書館とか博物館とか、そういうところに行くと無性に体がむずむずし、大声を出したくなるたちだ。
本の貸し出しのカウンターには、眼鏡を掛けたいかにもな真面目系女子がいて、こちらに
俺はそこを素通りし、ブラブラと奥へ進んでいく。本棚の横には『館内では私語厳禁で』と訴えかける、どこかのゆるキャラをパクったような、独創性の欠片もないキャラクターが描かれていた。
その本棚の先の閲覧コーナーには熱心に本を読み、俺たちみたいな騒音を立てる邪魔者がいないことに安心する生徒の姿がある。
放課後に勉強している奴もいるんだな。俺は足を踏み鳴らしてやりたいのを我慢する。
俺はガリ勉が嫌いだ。
自分がそうなれなかった逆恨みもあるのだろうが、自分は大事なことが分かっているみたいな態度でいるのが鼻持ちならなかった。
真っ先に例として挙がるのはハカセだ。
高校一年生のとき、俺はハカセが嫌いだった。まさに典型的なガリ勉だと思った。
「なあ、颯太。なんでお前はハカセなんかにつるむんだ」
颯太の部屋でうだうだしていた俺が、ひょんなことからその話題を颯太に振ると、颯太は珍しくムキになった。
「透がそんなこと言うなんて、心外だよ」
俺は面白がって続ける。
「嫌いなんだよ、ああいうタイプ。頭が良くて口数が少ないと、行動をいちいち観察しているようでムカツク」
「ハカセはそんな奴じゃない。あのね、透」
颯太の澄んだ瞳が、ちゃんと今から言うことを心に留めておいて、と俺に語り掛けてきた。そんなふうに颯太に見つめられたら黙って従うしかない。
「世の中にはね、自分がまだ経験したことがない、出会ったことがないものをきらいだって言ってしまう人がいるんだよ。そういう人はね、勘違いしているの」
「なにを」
「きらいじゃなくて不安なだけなんだよ」颯太は息巻いていた。
「その人はね、はじめてのものを受け入れて今の自分が変わってしまいそうで不安なんだ。でもそれはきらいってことにはならないよね」
俺の思っていることと合っていない部分もあったが、颯太が説教するなんて珍しかったから話を合わせた。
「じゃあ俺は、ハカセのことをあまり知らねぇから、勝手に不安になっているってことか」
「うん、たぶんね。僕は透とハカセが仲良くしてくれたら嬉しいな。どっちも大事な友達だから」
颯太はこうも続けたはずだ。
「きらいって言っちゃうと本当にそんなふうに見えてくるから、あんまり使って欲しくないんだ」
それで結局、俺は颯太が一緒にいるときはハカセとつるむことにしている。だが一緒にいても楽しくない。颯太がいなかったら、絶対仲良くしないだろう。別に構わねえよな、こんなの相性の問題だろうし。
そんなことを考えながら本棚を曲がったとき、思わず足が止まってしまった。
共用の長机で本を読んでいる理沙がいた。長い黒髪を片方で縛って前に流していて、見える首筋は着ているワイシャツよりも白くて妖艶な感じだ。その背中にはよく見ると、ワイシャツからブラジャーのヒモ(ヒモだよな?)がうっすら透けていて、眼のやり場に困る。
俺には理沙のまわりの空気だけが純化され、酸素が薄くなっているような気すらしていた。
理沙を見ていると息が詰まる。理沙は壁に接している机に座って、俺が見ていることに気づかずにページをめくる。理沙の息使いと一緒に、ぱらっとめくる音まで聞こえてきそうだ。
俺はその首筋に触れたい衝動に駆られる。あるいはいっそのこと、乱暴に抱きしめて、その首に俺だけの歯形を付けてみたい。
でも俺は近づくことが出来ない。怖かった。誰かを好きになることも、誰かに好きになられることも。
俺はやりきれなくて図書館を逃げるように飛び出した。
俺の頭の中では中学の記憶が蘇る。颯太に初めて出会い、そして理沙に特別な感情を見いだした日のことだ。
★
俺はひょんなことから、当時クラスメートだった理沙に話し掛けた。誰にでも屈託なく笑いかけ、真面目に勉強もこなす理沙の面白い噂を耳に挟んだからだ。
「理沙って一卵双生児なのに、男の双子がいるんだって」
今考えると話し掛ける台詞としては、もう少し気の利いた台詞もあっただろうけども、理沙はそんなことお構いなしだった。
「いるよ。世界で一番優しい、お兄ちゃんの颯太が」
理沙は切り揃えられた前髪を触っていた。耳の後ろに流している今とは違って、中学の理沙の前髪はぱっつんだった。その“優しい”に込められた温かな想いと響きが、なんだか耳障りでしっくりこない。
「どんな奴」
「そうだな。優しさを絵に描きなさいって言われたら、私は必ず颯太の絵を描く。私がこの世界のどこかで迷子になっても必ず見つけてくれる。そんな優しいお兄ちゃんかな」
「そうか」
曖昧な返事になる。優しいって言葉を信用できない時期だった。
「そいつってどんな奴」とか、「お前の好きなタイプは」って尋ねられて「優しい人」と答えるのはたいてい嘘か、なにも考えていないかのどちらかだ。
「透くん、私の言葉を信じてくれないって顔だよ」
「うん、信じてない。優しいって言葉、すっげぇ嫌いなんだ」
『優しい』という言葉に二度と騙されたくない俺は、はっきりと断言した。すると理沙は考える人みたいなポーズでしばし黙って、その後ぱっと顔を明るくした。
「そう。なら実際に颯太に会って、たしかめてみてよ」
理沙はそう言うなり俺の手を掴んで、隣の教室にぐいぐい引っ張っていく。
「お、おい」
俺は面食らってしまって、なされるがまま引っ張られた。理沙ってこんなに思い切りがいい奴だったっけ。理沙の手はとても小さくて柔らかかった。それにヒンヤリしていて神秘的なほど白かった。
そこには俺の体を自由へと引っ張ってくれるような、信頼できそうな予感があった。
隣の教室の入口に立って「颯太、あなたと友達になりたい人を連れてきたよ」と、理沙はよく響く声で颯太を呼んだ。その声に隣のクラスの奴らが一斉に振り向いた。理沙の顔を見てコソコソ話をしたり、見えないと勘違いして指を差す奴らがいたりして、俺はそいつらを全員ぶちのめしてやりたくなった。
すると教室の真ん中にいた、冴えない感じの奴がおずおずとこちらにやってきた。俺はまたしても驚かされた。そいつが理沙にそっくりだったからだ。違うのは髪に寝癖がついてダサいことと、着ている制服が男子用だったくらいだ。
「それは嬉しいな。はじめまして、僕は石川 颯太。君は」
颯太からまったく敵意や戸惑いが感じられなくて、立ち尽くしてしまう。
その目も、鼻も、口も、しっかり第一ボタンまで締められたシャツの着こなしも、ちょっと体を右の方に傾けている感じも、はにかんだ笑顔も、たしかに優しさでつくられている気がした。理沙の言葉は本当らしい。
「え、いや」
戸惑って理沙に助けを求める。颯太とほとんど同じ顔の理沙が、俺の戸惑いぶりに腹を抱えて笑い出した。俺は意気地なしと思われたくなくて、粋がって手を差し出した。
「お、俺は池永 透。よ、よろしくな」
握手をすることが一番の友情の証だと漫画で読んで、固く信じていた。それが可笑しかったのか、理沙はさらにお腹を抱えるようにして笑った。
「理沙、もう笑うなはやめなよ。君はすごく爽やかだね。よろしく、透」
そう言って笑顔をたたえながら握手した颯太の手は、理沙と違って角張っていて、やっぱり双子でも違うんだなと思ったのを、今でも覚えている。
★
俺は図書館前の壁に立て掛けてあった絵をじっと見つめていた。花束を持った女子が晴れ渡る空を見上げる。
思い出もこんなふうに絵の中に保存できたらどんなに良いだろう。理沙を想うたびに胸に込みあげる喜びと息苦しさ、そして暴力的なまでの独占欲を、絵の具に変えて塗りたくることできたら。
そんなまどろっこしいことを考えるんじゃなくて、好きだって言っちまえばいいじゃねぇか。好きだと告白したい。だがそれは絶対に許されないことだと、分かっていた。
「言えるわけねぇよな」
俺はぎゅっと誠から借りた教科書を握りしめる。教科書を買うのに気兼ねするほど家庭は貧窮している。
生みの母はすでにこの世にはおらず、父親は家庭を放棄して蒸発。育ての親である継母の“あいつ”とは喧嘩ばかり。肝心の俺自身もバスケばっかりで、将来のことなんて微塵も考えていない。
俺と深く関われば、理沙はきっと不幸になる。
大切な奴を不幸にするかもしれない選択を、俺は絶対にしたくなかった。弱った俺の心に、告白を断られた亜弥が俺に言い残した言葉が深々と突き刺さる。
「叶わない思いなら、キレイな想い出のまま終わらせてもよかったのにね」
ぞっとするほどのリアリティに、俺は俯くしかなかった。
「本当にそうだよな。亜弥」
亜弥のことは嫌いじゃなかった。でも俺は亜弥を受け止めることは出来ない。
俺を引っ張ってくれた、あの手の冷たさと白さ。それがまだ俺の中で、眼が眩むほどの繊細さで残っているから。
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