☆哲学的ゾンビ

 ハカセはすごい奴だ。

 高校一年のときから学年一番以外を取ったことがなくて、それでも慢心や油断をみじんもまわりに見せなかった。


 この学校以来始まっての傑物けつぶつだと、教科を担当する先生たちはもてはやし、ハカセに勉強を教えることに特別な緊張感と幸福感を持っているようだった。


 それだけじゃなく、なにかに集中しながらでも他の人の会話に注意を払えるところもすごい。それでいて、ちゃんと同時並行していることもしっかり頭に入っているから、驚いてしまう。


 きっとハカセの家系をさかのぼれば、十人の声を聞き分けられたという聖徳太子に行き着くに違いない。


                 ☆


「ハカセ、ここ教えて」


 よく晴れた水曜日の午後、僕とハカセは県の図書館に来ていた。館内はクーラーが効きすぎてブランケットが欲しいくらいだった。


 いつもは席が取れないくらい多いけれど、今日は比較的空いていた。灰色とか紺色の制服を着た他校の生徒たちは、いかにもまじめそうだ。


 机一杯に参考書とか教科書を広げて、「勉強しない人たちの将来なんて知りません」みたいなオーラを漂わせていた。


 でもたまには漫画を読んでいる人たちもいてなんだかほっとする。


 図書館って色々な人がいる。


 僕たち学生みたいに勉強に来る人たちもいれば、静かに穏やかに本の世界に向き合うお爺さんもいる。


 そうかと思えば本なんて眼もくれず、大きな声でしゃべってばかりのおばさんたちもいる。色々な思いを持った人たちが一つの場所に集まる。なんだかそれは当たり前なようで不思議なこと。


 実は学校も、そんな場所だったりするのかな。


「ん、どこ」


 ハカセが僕のノートを覗き込む。僕はその凛々しい横顔を見つめていた。


 僕は不思議だった。

 ハカセはあまり他人との交流を好まない。決してお高く止まっているという意味ではなくて、どこか他人を自分の世界に入れるのをよしとしない。


 事実、ハカセは僕以外の人とはあまり話をしたがらない。きっと皆がつけたハカセというあだ名には、そういう意味も含まれる。


 でも僕に対しては違った。


 高校一年のときにたまたまハカセが隣の席になり、グループ学習や話し合いでポツポツ話しをした。そしたらハカセは僕のことをすごく気にいってくれた。


 僕も、常に涼しげに物事に立ち向かうハカセが好きだった。そうやってひょんなことから友情が生まれた僕たちは、ちょくちょくこうやって図書館に行ってはおたがいの好きなことをして過ごしている。


「ここ。もう一度計算してみて。ただの計算間違いだ」


 母さんが宿題を見てくれていたときのように、優しい指先で間違いを指し示してくれた。


「あっ、たしかに。だから後の問題が上手くいかなかったのか。ありがとう、ハカセ」


 ハカセはなにもなかったかのように、ふたたび英語で書かれた医学の教科書に視線を戻す。


 彼は高校性でありながら、すでに医学についての勉強をスタートさせている。すごいとしか言いようがない。


 ハカセは僕の隣で、常になにかを読んでいた。要するに本の虫、活字中毒なのだ。教科書を開いているかと思えば、なにか哲学的なことが書かれた、分厚くて鈍器にもなりそうな洋書に眼を走らせていることもある。


 ハカセはこうやって黙々と知識を吸収する傍らで、一体なにを考えているのだろう。


                  ☆


 僕たちはしばらく勉強したあと、休憩室に移動してジュースを飲んだ。休憩室はだれもいなくて貸切だ。


「ハカセ、いつも勉強を教えてくれてありがとう」


 休憩室は図書室と違ってクーラーの温度は高めで、冷たいジュースが口を通ってお腹の下へ下へどんどん流れていく。すると喉の辺りがきゅっとせまくなる。


「こちらこそ。こんなつまらない男に付き合ってくれて」


「つまらなくなんてないよ。勉強だって教えてくれるし、他の人が滅多にしないような面白い話も聞ける。僕の方こそ、ハカセに飽きらないかってヒヤヒヤするよ」


 ハカセはすこしはにかんで見せたこういう色々な顔を持っているところも、ハカセの面白いところだ。


「俺が颯太を飽きるなんてことはない。そもそも人に飽きるなんてことはないし、第一、颯太たいな奴はなかなかいない」


 ハカセはズズッと紙パックのカフェオレを吸いあげた。カフェオレとかエスプレッソとか、コーヒー関係には色々と種類があるけど、一体なにが違うのかよく分からない。


「颯太が紡ぎだす言葉は、不思議と俺の心を引っ掻く。颯太の感性が、『哲学的ゾンビ』の俺に大切ななにかを教えてくれるのかもな」


「そんなの過大評価だよ」


 僕は訂正し、学校の自動販売機よりもカフェオレが十円安いのに気づいて、こっちにすればお得だったかなとちいさな後悔に胸をもやもやさせた。


 ハカセは自分を哲学的ゾンビだと豪語ごうごしている。なにものにも心動かされず、どんな質感も感じない、人間に似て非なるもの。それが哲学的ゾンビらしい。


「評価とは人によって異なる。でも僕にとって颯太はかけがえのない、重要なものだ」


 ハカセの声に迷いはなかった。ハカセは休憩室のくぐもったランプををぼんやり見つめていた。そこには僕には見えないなにかが映っているのかもしれない。


「人はね、評価するべきものに正しい評価を与えない。サリンジャーが著した『ライ麦畑でつかまえて』にもそう書かれている」


 その本はちょっと前の夜会で理沙に勧められていただけに、読んでおけばよかったと後悔した。本当に後悔って先に立ってくれないよなぁ。


「その原因はね、人に感情があるからだと俺は考察している。こうあってほしい、こんなの認めたくない。あの人は嫌いだから、頑張っているから。そんな思いが正しい評価の邪魔をする。人はね、一mの定義におけるセシウム原子にはなれない」


「どういうこと」


 僕はハカセの話についていけず聞き返す。セシウム原子って、どういうことだろう。


 ハカセは僕の質問には答えないで、まるでドミノが止めどなく倒れていくように滑らかに口を動かし続ける。


「本当の意味での評価は、本来はその対象と関係性を持たない者が下さなければいけない。そうしなければ、評価にどうしても感情が混じってしまう。だが感情を持たない人間は人間とは言い難い。本質的には人が人を正しく評価するなんて不可能だ」


「でも僕たちは毎日自然と評価してしまっているよね。あの子は可愛い、あの子は好きみたいに」


 僕はなんとかハカセについていこうとする。分からないでいいよって、ハカセに笑ってほしくないから。


「そう、終わりのない議論を人は繰り返す」ハカセは頷いてくれた。

「まるで終わりのないマトリョーシカ人形だ。いわゆるリカージョン。そして困ったことに、人はそういうものに魅かれやすい。人とは、生命とは、自分の生きる意味とは、とね」


 僕はもうついていけなくなって、降参の意味を込めてハカセに聞いた。


「ハカセも、やっぱりそういうものに魅かれるの。もしかしてハカセが自分のことを哲学的ゾンビって言うのも、評価する上で感情が邪魔だから、とか」


 ハカセはこう答えた。


「俺は出来るだけ正しい評価を贈れる人でありたい。感情に惑わされたくないんだ」


「ハカセなら、きっとなれるよ」


 僕はお世辞でなく本心からそう伝え、飲み終わったジュースをゴミ箱目掛けて下手投げでふわっと投げた。それは途中まではいい感じだったけど、最後に空気抵抗に負けたのか失速し、ゴミ箱の手前に落ちた。


「惜しい」


「颯太の感性は希有けうだが、運動には向いていないな」


「う」


 僕は言葉に詰まる。それは間違いなく正しい評価だった。

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